第23話 動き出した運命(2)
その翌日。
王都は朝から華やいでいた。エリオスの誕生祭の祝日だった。
窓を閉めていても、遠くから人々の賑わいが届いてくる。屋敷の者たちも、今年は十八歳の節目だから、王宮前広場でのお披露目も例年より盛大になると話していた。
幼い頃とは違う。
今年は、婚約者を伴って迎える初めての誕生祭でもある。昼は民の前に姿を見せ、夜には王宮で祝宴が開かれる。卒業を控えた王太子として、今年の誕生祭は特別な意味を持っていた。
昼過ぎに顔を出したレオンが、その様子を教えてくれた。
王宮の門前には花が飾られ、多くの民が集まっていたらしい。音楽が響き、祝福の声が上がり、十八歳を迎えた王太子を王都全体で祝っていたという。
今年は、サラもそばに立っていたらしい。
王太子殿下と、その婚約者。並んで立つ二人は、とてもよいお披露目だったそうだ。
リリアナは、静かに微笑んだ。
きっと、よくお似合いだったのだろう。あの二人が並んで立てば、多くの人が安心する。王国の未来が、明るく見える。
そう思うと、胸の奥に小さな痛みが落ちた。
けれど、それ以上に大きかったのは安堵だった。
無事だった。
今年も、エリオスは誕生日を迎えられた。
毎年、この日が近づくたびに息が詰まった。今年は大丈夫だろうか。今年も無事に越えられるだろうか。そう思いながら、ずっとこの日を迎えてきた。
あの日のように、血の匂いの中で倒れてはいない。誰かが慌ただしく走り回る廊下も、砕けた輪菓子も、今はない。
今年のエリオスは、人々の前に立ち、祝福を受けている。
それだけでよかった。
夕方近くになって、王宮から急ぎの使いが来た。王太子殿下が、祝宴の前に少しだけ見舞いに立ち寄られるという。
叔父が応対し、屋敷の者たちは声を落としたまま、必要な支度だけを整えた。
リリアナは思わず身を起こしかけた。
「殿下が……?」
本来なら、夜にもまた人前に立つはずの日だ。そんな日に、自分の見舞いなど。
ほどなくして、エリオスが部屋へ通された。リリアナは慌てて起き上がろうとしたが、エリオスが先に口を開いた。
「そのままでいい」
静かな声だった。
「具合はどうだ」
「ご迷惑をおかけしました。もう、だいぶ楽になりました」
「迷惑ではない」
すぐに返された言葉に、リリアナは少しだけ息を止めた。
エリオスは寝台のそばまで来ると、リリアナの顔色を確かめるように少し身をかがめた。昨日よりも血色が戻っていることに気づいたのか、ほんのかすかに息を吐く。
「研究棟の件だが、関わった者には処分が下ることになった」
リリアナは目を上げた。
「処分、ですか」
「ああ。交流会の最中に生徒を閉じ込めた。しかも、王太子の名を使って呼び出した。濡れた状態で鍵をかけたことも、悪質だと判断されている」
エリオスの声は静かだった。怒りをぶつけるような言い方ではない。けれど、軽く流す余地もなかった。
「学院の規則に従って処理される。王宮側にも報告を入れてある」
「……そこまで」
「君が気に病むことではない」
エリオスは、リリアナの言葉を遮るように言った。
「王太子の名が使われた以上、曖昧にはできない。それに、学院の中で生徒が閉じ込められた。正しく処理されるべきことだ」
そこで一度、エリオスは言葉を切った。
「何より、君が危険だった。大事に至らなかったからといって、軽く扱ってよいことではない」
リリアナは、すぐには返事ができなかった。
助けるために動いたつもりだった。
それなのに今、自分は寝台の上にいて、エリオスに心配をかけている。
守りたい人に、こんな顔をさせている。
そのことが、胸の奥に痛かった。
「……はい」
「それから」
「以前、君が髪や瞳のことで何かを言われていたのを見たことがある」
エリオスは少しだけ声を落とした。
「あの時は、その場で収まったものだと思っていた。だが、今回のことで、そうではなかったのだと分かった」
リリアナは返事に迷った。
「……そのようなことまで、殿下のお耳に入れるわけには」
「入れていい」
穏やかな声だった。けれど、譲らない響きがあった。
「君が黙って耐えるべきことではない」
リリアナは、布団を強く握った。
そんなふうに言われると、少しだけ寄りかかりたくなってしまう。
それが怖かった。
それでも、リリアナは顔を上げる。
エリオスを見た。
その時、窓から差し込む夕方の光が、リリアナの横顔にかかった。
エリオスは、ふと息を止めた。
リリアナの瞳の奥で、淡い光が揺れていた。
灰色。
そう呼ばれる色。
けれど、ただの灰色には見えなかった。
光の角度で、青にも、紫にも、銀にも見える。
きれいだ。
そう思った。
けれど、その言葉を口にすることはできなかった。
「今後、同じようなことがあれば、必ず誰かに知らせてほしい」
リリアナはすぐには答えられなかった。
「教師でも、生徒会でもいい」
そこで一度、エリオスは言葉を切った。
視線が、まっすぐリリアナへ向けられる。
王太子として人前に立つ時の、隙のない眼差しではなかった。もっと近く、もっと静かに、こちらの返事を待つ目だった。
「生徒会長である私にも、頼ってほしい」
声は穏やかだった。けれど、その言葉だけ、少しだけ低く響いた。
リリアナは、なぜか目を逸らせなかった。
頼ってほしい。
ただの職務上の申し出のはずだった。生徒会長として。学院の上級生として。王太子として。そう受け取るべきなのに、胸の奥が落ち着かない。
エリオスもまた、自分の言葉が少し踏み込みすぎたことに気づいたのか、わずかに目を伏せた。
「一人で抱え込む必要はない、という意味だ」
そう言い添えた声は、いつもの落ち着いたものに戻っていた。
リリアナは布団の上で、指先を握り直す。
「……承知いたしました」
ようやくそう答えると、エリオスは小さく頷いた。それから、小さな箱を差し出す。
「食欲は戻っているか」
「少しは」
「病人の見舞いに菓子はどうかと思ったが、誕生祭の日にだけ焼かれる菓子だ」
「……お菓子、ですか」
「ああ。誕生祭の輪菓子だ。本来なら屋台のものが一番うまい。これは王宮の料理人に作らせたものだから、少し上品すぎるかもしれないが」
エリオスは箱をリリアナのそばへ置いた。
「日持ちはする。無理に今日食べなくていい」
箱の蓋が開く。
中には、輪の形をした焼き菓子が入っていた。蜂蜜と果実の甘い香りが、ふわりと広がる。
リリアナの胸が、ぎゅっと詰まった。
輪の菓子。
割れていない、きれいな丸い形。
思い出す。
時が戻る前の、十歳の誕生日。血の匂い。慌ただしい廊下。床に落ちて砕けた輪菓子。蜂蜜の匂いだけが、場違いに甘かったあの日。
けれど、今は違う。
目の前のエリオスは傷ついていない。息をしている。立っている。今年も、無事に誕生日を迎えてくれた。生きていてくれた。
ただそれだけで、胸の奥がほどけていく。
「……ありがとうございます」
声が震えた。
リリアナは箱の中の輪菓子を見つめたまま、静かに息を吸う。
「お誕生日、おめでとうございます」
「ああ」
目の奥が熱くなる。
よかった。
今年も、よかった。
「生まれてきてくださって……ありがとうございます」
言葉は、ほとんど考える前に零れていた。
エリオスの動きが止まった。ほんの一瞬。けれどリリアナにも分かるほど、確かに止まった。
誕生日の祝辞なら、今日だけでも数えきれないほど受けた。
健やかなるご成長をお祝い申し上げます。王国の未来に幸多からんことを。殿下の御代が豊かなものとなりますように。
どの言葉も、ありがたいものだった。けれど、それらはすべて、王太子として受け止めるべき言葉だった。祝福であると同時に、期待でもあり、責任でもある。
だからエリオスは、笑みを返し、礼を述べ、王太子としてそこに立っていた。
けれど、今の言葉は違って聞こえた。
王国の未来へ。
次代の君主へ。
そういう遠いものではなく。
ただ、自分が生まれて、今ここにいることを、心からよかったと言われたようだった。王太子という役目ではなく、自分の命そのものに触れられた気がした。
そう受け取っていいのかは分からない。
それでも、彼女の口から零れたその言葉は、胸の奥に深く染み込んだ。
「……殿下?」
リリアナが不安そうに見上げる。
エリオスは、はっとしたように瞬きをした。
「いや」
声が、少し遅れた。
「ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
リリアナは、言ってしまってから自分の言葉が過ぎたことに気づいたように、わずかに目を伏せた。
「その……王国の一民として、王太子殿下のお誕生をお祝い申し上げます」
取ってつけたような言葉だった。
その慌てた言い添えに、エリオスの目元がかすかに緩んだ。
取り繕ったのだと、分かった。
たぶん、そうなのだろう。
本当に零れたのは、その前の言葉だ。
生まれてきてくださって、ありがとうございます。
けれど、リリアナが言い直した言葉もまた、嘘ではないのだと思った。
王国の一民として。
彼女にとって自分は、王太子だ。
そうだ。
自分とリリアナの間には、その距離がある。
エリオスはかすかに目を伏せた。
「……そうか」
短い返事だった。
けれど、胸の奥に落ちたものは消えなかった。
聞きたいことが消えたわけではない。
あの夜のこと。
リリーという名。
涙。
手袋の下の指輪。
けれど、今は聞けなかった。問いかければ、答えが返ってくる。その答えを、自分が平然と受け止められる気がしなかった。
何を恐れているのか、自分でも分からない。
分からないのに、聞いてはいけない気がした。
リリアナの顔色は昨日よりよい。けれど、無理をさせてよいほど戻ってはいなかった。
「無理をするな」
エリオスは静かに言った。
「今日は、休むことだけ考えてほしい」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ」
リリアナが目を上げる前に、エリオスは少しだけ視線をそらした。
「無事でいてくれて、よかった」
それ以上は、踏み込まなかった。
ただ一度だけ、手袋に覆われた左手へ視線を落とす。そして、すぐに戻した。
「王宮へ戻る。必要なことは叔父上に伝えてある。安心して休んでくれ」
そう告げて、エリオスは部屋を出た。
廊下を歩きながら、エリオスは自分が何を考えていたのか分からなくなっていた。
生まれてきてくださって、ありがとうございます。
今日受けたどの祝辞よりも、自分のいちばん深いところに届いてしまった。
王宮へ戻る馬車の中でも、しばらく指先に力が入らなかった。
夕暮れの街には、誕生祭の灯りが一つずつともっていく。エリオスはその灯りを見ているはずなのに、何も見えていなかった。
ただ、あの声だけが残っている。
胸の奥に落ちた言葉は、いつまでも沈んでいかなかった。




