第22話 名前を呼んで(3)
迎賓館へ向かう馬車に揺られながら、リリアナは何事もないように窓の外を見ていた。
けれど、思い返すのは別のことばかりだった。背中を支えてくれたエリオスの腕。耳元に落ちた「大丈夫か」というやわらかな声。そして、受け取ることのできなかった百合の花束。
エリオスのあの声で。
――リリー。
そう呼んでもらえたら。
思ってはいけない。欲を押し込めようとすればするほど、エリオスの声が耳の奥でよみがえる。
エリオスが生きてくれるなら、他には何もいらない。時が戻ってから、ずっとそう決めてきたはずなのに。
私の覚悟は、そんなものだったのか。
リリアナは左手の手袋の上に、そっと右手を重ねた。指輪のある場所。少しだけ、呼吸が落ち着いた。
エリオスもまた、窓の外を見ながら平静を装っていた。
倒れかけたリリアナを支えた時の軽さ。驚いたように見開かれた瞳。自分を案じる声。そして、渡せなかった百合の花束。
――リリー。
ただ花の名を聞いただけのはずだった。それなのに、その響きが頭から離れない。
百合を見つめていたリリアナの顔。どこか懐かしいような、何かを失った人のような。好きではないと言った時の、ほんの一瞬だけ伏せられた目。
あの表情が、気になって仕方がなかった。
気づけば左手の指輪に触れていた。冷たい金属の感触が指先に伝わる。それだけで、胸のざわめきが少しだけ静まった。
迎賓館に着いてからも、打ち合わせは滞りなく進んだ。広間の入口。控え室の位置。案内係を置く場所。確認すべきことは多い。
それでも、互いの意識は、どうしても隣へ引かれた。
打ち合わせの途中で、エリオスがふと思い出したように言った。
「そういえば、交流会の前に、ノアが少し学院を空ける」
「ノア殿下が、ですか」
「ああ。以前、王立医療院から地方施療院の人手不足について照会があっただろう。その件で、近隣の医療院と救護所を見て回ることになった」
エリオスは書類を閉じた。
「交流会の二日前に出て、当日の昼には戻る予定だ。大きな不在ではないが、その間、一年生側の確認は君に負担がかかるかもしれない」
エリオスは書類を閉じる。
「本来なら俺が行くべきところだが、誕生祭と交流会の準備がある。今回はノアが代わりに出る」
「そうでしたか」
「すまないが、よろしく頼む」
「できる限り対応いたします」
「無理はしないでほしい」
「承知いたしました」
その時、エリオスがふと左肩へ手をやった。ほんの小さな仕草だった。けれどリリアナは見逃せなかった。
「殿下。お肩が痛むのですか」
エリオスは少しだけ目を瞬かせる。
「いや、大したことではない」
「ですが」
「この前のかすり傷だ。もう塞がっている。ただ、少し治りが遅いだけだ」
大したことではない、ともう一度言われても、リリアナの胸は冷えた。
研究棟で倒れた書架。裂けた布。滲んだ血。
あの程度の傷なら、本来はもう完治しているはずだ。なのに、まだ痛む。治りが遅い。
呪い。
そう考えた瞬間、指先が冷たくなる。
「……無理はなさらないでください」
「大丈夫だ。心配しなくていい」
エリオスは短く答えた。けれどリリアナには、その言葉だけでは安心できなかった。
迎賓館での打ち合わせを終え、学院へ戻ったあと。
エリオスは教師に呼ばれ、別室へ向かった。リリアナは受け取った確認書を生徒会室へ届けるため、資料を抱え直す。
廊下の角を曲がろうとした時だった。
「本当に、お上手ですのね」
背後から声がした。
振り向くと、イザベラが立っていた。取り巻きの令嬢が二人、少し後ろに控えている。
「お上手、とは」
リリアナは静かに返した。
イザベラは扇を開き、口元だけを隠す。
「ご自分の見せ方ですわ」
その目は笑っていなかった。
「商会の方は、物を売るだけではなく、ご自分を売り込むのもお得意なのかしら」
リリアナは答えなかった。
「ノア殿下だけでは飽き足らず、今度は王太子殿下まで」
「そのような事実はございません」
「まあ。馬車に乗る時のあれを、そう言い切れるのね」
「踏み台で足を滑らせただけです」
イザベラはわざとらしく首を傾げる。
「王太子殿下に抱き留めていただくなんて、ずいぶん都合よく足元が乱れること。しかも、ずいぶん長くそのままでいらしたように見えましたわ」
「そのような意図はございません」
「ええ。そういうことにしておきましょう」
取り巻きの令嬢たちが、小さく笑った。
「けれど、残念ね。殿下にはサラ様がいらっしゃるわ」
その名前に、リリアナの指先がわずかに動いた。
「サラ様は本当にお美しい方ですもの。家柄も、教養も、立ち居振る舞いも申し分ない。王太子殿下の婚約者として、誰もが認めるお方ですわ」
イザベラの声は甘かった。
「それなのに、身の程もわきまえずに近づく方がいるから、周囲が気を揉むのですわ」
リリアナは資料を抱える手に力を入れた。
「王太子殿下のお優しさにつけ込むなんて、見苦しいと思われません?」
「殿下のなさったことを、そのように言わないでください」
イザベラの笑みが止まった。
「何ですって?」
「あの方は、誰かが危ない時に手を伸ばす方です。相手が私でなくても、同じことをなさったはずです」
リリアナは静かに続けた。
「王太子として、人の前に立つ方として、そうあるべきだとご自身に課しておられる。殿下は、そういう方です」
廊下が少しだけ静かになった。周囲にいた生徒たちも、思わず足を止めていた。
「私を貶めるために、殿下のお名前をそのように使わないでください」
イザベラの頬がわずかに引きつる。
「ずいぶん、王太子殿下のお心をご存じなのね」
「存じ上げているなどとは申しません。ただ、殿下はそのような噂話を喜ばれる方ではありません」
「なんとでも言えますわ」
イザベラは扇を閉じた。
「いくらあなたがそうやって色目を使っても、殿下にはサラ様がいらっしゃるのよ。あなたがどれほど近づこうと、王太子殿下のお隣に立つのはサラ様と決まっていますわ」
「楽しそうなお話ね」
柔らかな声が、廊下に落ちた。
イザベラの肩がわずかに跳ねる。振り向くと、サラが立っていた。
「サラ様……」
イザベラはすぐに表情を整えた。
「ちょうど今、王太子殿下とサラ様がどれほどお似合いか、お話しておりましたの」
「そう」
サラは穏やかに微笑んだ。
「それは光栄ね」
イザベラの顔が明るくなる。けれど、サラはそのまま続けた。
「でも、私を褒めるために、どなたかを下げる必要はないわ」
空気が止まった。
サラの声は荒くない。表情も、いつも通りやわらかかった。
「それに、エリオス殿下が女性を助けたことを、妙な噂にされる方が私は嫌よ」
「わ、私はそのようなつもりでは」
「ええ。言葉の選び方を、少し間違えただけね」
サラは微笑んだまま、一歩だけ近づいた。
「でも、交流会は近いわ。来賓の前で同じ間違いをなさらないよう、今のうちに直しておくといいと思うの」
イザベラは扇を握りしめた。
「それから」
サラは、ごく自然にリリアナの隣へ立った。
「リリアナさんは、生徒会役員としてエリオス殿下を補佐していたのでしょう。仕事中の事故を、あらぬ方向へ広げるのは感心しないわ」
「……申し訳ございません」
イザベラは深く礼をした。
「分かればいいの」
サラはにこりと笑った。
「交流会では、あなたにも美しい振る舞いを期待しているわ」
周囲で、誰かが小さく囁いた。その視線がイザベラへ集まる。
イザベラは顔を伏せたまま、取り巻きたちを連れて去っていく。
すれ違いざま、イザベラの視線が一瞬だけリリアナへ向いた。
恥をかかされた。
その目は、はっきりとそう言っていた。憎しみが、ぎろりとむき出しになっていた。
まるで、今すぐにでもその場から引きずり落としてやりたいとでも言うような目だった。
けれど、リリアナがそれに気づく前に、イザベラは背を向けていた。
廊下に、少しだけ静けさが戻る。
リリアナは礼をした。
「ありがとうございました」
「いいえ。私も少し聞き捨てならなかったから」
サラは軽く首を振った。
リリアナは、サラに見とれていた。
声を荒げたわけではない。誰かを傷つけるような言葉を選んだわけでもない。それなのに、場の空気は完全にサラのものになっていた。
綺麗で、強い。
そして、とても自然だった。
思ったことをまっすぐ言うのに、場を壊さない。相手を責めきらず、けれど一線は越えさせない。
リリアナには、眩しく見えた。
「それにしても」
サラがリリアナを見る。
「あなた、エリオスのことをよく見ているのね」
リリアナの心臓が跳ねた。
「……そのようなことは」
サラは少し笑った。
「本当は好きなのでしょう?」
息が止まる。
ばれた。
そう思った。
「百合の花」
サラは、何でもないことのように続けた。
リリアナは言葉を失う。
「さっき私がいただいた時、あなたの方がよほど大切そうに見ていたから」
「……そのようなことは」
「そんな顔をしていたわ」
サラの声は責めるものではなかった。ただ、見えたものをそのまま言っているだけだった。
「大切と言うより」
少し考えてから、サラは言う。
「ほんの一瞬、辛そうな顔をしていたわ」
リリアナは何も言えなかった。
サラはそれ以上、追及しなかった。
「生徒会室に戻って、打ち合わせの続きをしましょう」
「承知いたしました」
「迎賓館で確認してきた内容を、学院側の役割表に反映しないといけないものね」
「はい。確認書と合わせて整理いたします」
サラは歩き出しながら、穏やかに言った。
「あなた、こういう準備にとても慣れているでしょう。まるで王宮の行事を、何度も見てきたみたいに」
リリアナの指先が、わずかに冷えた。
「もちろん、バルディエ家のご教育が行き届いているという意味よ。来賓の立場や会場の流れを、よく分かっていると思ったの」
「……恐縮です」
サラは何事もなかったように微笑む。
「では、戻りましょう。続きは生徒会室で」
「はい」
声は、いつも通りに戻っていた。
けれど胸の奥では、サラの言葉が残っていた。
あなた、本当は好きなのでしょう?
百合の花。
その続きが、本当に百合だけだったのか。リリアナには、分からなかった。
前を歩くサラの後ろ姿は、凛としていてとても綺麗だった。
エリオスが光なら。
サラは春だと思った。
厳しい冬を終わらせ、人を外へ連れ出し、花を咲かせる季節。
明るくて、あたたかくて、そばにいる人まで自然と息をしやすくなる。
あの二人が並べば、きっと多くの人が安心する。
そう思えるほど、サラは眩しかった。




