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第22話 名前を呼んで(4)

イザベラがサラにたしなめられたあの日から、秋は少しずつ深まっていった。


 秋季交流会の準備も、いよいよ最終段階に入っている。来賓名簿の最終確認、控室の割り振り、迎賓館との伝達事項、案内係に渡す役割表。大きな手配は終わり、残っているのは当日のための細かなすり合わせだけだった。


 そうして、秋季交流会の当日が来た。


 その朝のバルディエ家の食卓には、いつもと同じように温かな料理が並んでいた。スープの湯気が立ちのぼり、焼きたてのパンの香りもする。けれどリリアナは、どうしても食欲が出なかった。


「リリアナ?」


 向かいに座るレオンが、心配そうに声をかける。


「食欲ないのか?」


「交流会だから、少し緊張しているだけ」


「そうか」


 レオンは苦笑したが、無理に食べろとは言わなかった。


「今日はエスコートしてやれなくてごめんな。俺も交流会に参加できればよかったんだけど、夜に外せない商談が入ってる」


「大丈夫。生徒会の仕事もあるから」


「生徒会は迎賓館で着替えるんだったな」


「うん。ドレスは先に運んでもらってる。学院で最後の確認をしたら、そのまま生徒会の馬車で向かう予定」


「少しでもおかしかったら休めよ」


「ありがとう」


 リリアナはパンをひと口だけちぎって食べた。けれど、それ以上は進まない。


 レオンはそれ以上何も言わず、スープの器をそっと近づけた。


「せめて、これだけでも飲んでから行きな」


 リリアナは小さく頷いた。けれど、結局朝食はほとんど入らなかった。


 昼過ぎ。


 午後の学院は、交流会準備のため通常の講義がなく、いつもより落ち着かなかった。夜の交流会に向けて、家へ戻って身支度をする者、控え室へ運び込む荷を確認する者、迎賓館へ向かう準備をする者。生徒会も、最後の確認を終え次第、馬車で会場へ移動することになっていた。


 主な準備はすでに終わっている。ノアは今日中に戻る予定だったが、視察先で急ぎ確認すべき件が増え、学院への到着は明日になるという知らせが入っていた。


 そのため、本来ノアが確認するはずだった細かな分担を、リリアナが引き受けていた。


 その確認も、ようやく終わったところだった。


 朝から食欲がなく、なんとなく体調も優れない。迎賓館に着いたら、一段落したところで少し休ませてもらおう。


 そう思いながら回廊を歩いていた時だった。


「バルディエ様」


 呼び止めたのはイザベラだった。


 今日も整えられた笑みを浮かべている。そばには、いつもの令嬢が二人。


 リリアナは足を止め、一礼した。


「イザベラ様」


「エリオス殿下が、あなたをお呼びですわ」


 その一言に、リリアナの指先がわずかに止まる。


「……私を?」


「ええ。先ほどすれ違った時に、伝言を頼まれたの」


 イザベラは首を傾げた。


「研究棟まで来てほしいそうよ。交流会の前に、急ぎ確認したい資料があるとか」


 研究棟。


 資料。


 その言葉に、胸の奥が冷えた。


 怪しい。


 まず、そう思った。


 エリオスがこんな伝え方をするはずがない。呼ぶなら直接言う。少なくとも、イザベラに頼む理由が分からない。


 けれど、研究棟の資料区画は、修繕中でまだ完全には元に戻っていない。閉鎖されたままの場所もある。あの場所で、エリオスは怪我をした。


 しかも、あの傷はまだ治りきっていない。


 確認したい資料がある、という言葉も引っかかった。


 エリオスは何も知らない。知らないはずだ。それでも、もし何かを知ってしまったのなら。もし、この前の棚崩れの時のように、危ない場所へ一人で入っているのなら。


 また、何かを見落としてしまっていたら。


「何をぼうっとしていらっしゃるの? お急ぎのようでしたわよ?」


 イザベラが、わずかに眉を上げた。


「私だって、あなたに伝言をお伝えするのは本意ではありませんわ。けれど、エリオス殿下から頼まれたのですもの」


 リリアナはすぐには答えられなかった。


 相談できるノアは戻っていない。エリックや上級生たちは、少し前に迎賓館へ向かった。エリオスも、先に向かったのかもしれない。


 けれど、迎賓館までは馬車で四半刻ほどかかる。会場へ確認に行ってから学院へ戻るには遅すぎる。


 なら、研究棟へ行って確認するしかない。


 何もなければ、それでいい。少し遅れても、準備はもう終わっている。自分がいなくても、交流会は回る。


 エリオスに何かあるよりは、ずっといい。


「私たちも、もう支度をしに戻らなければならないの。伝言は確かにお伝えしましたわ」


 イザベラの声は、どこか楽しそうだった。


「行かれないの?」


 リリアナは小さく息を吐いた。


「……行きます」


 イザベラの目が、ほんの少しだけ細まった。


 リリアナはすぐに研究棟へ向かった。空は重い薄曇りで、昼過ぎだというのに廊下の奥は暗い。


 回廊を離れ、普段は人の少ない棟へ近づくほど、空気がひやりと冷たくなる。古い石壁。曇った窓。床の軋む音だけが、やけに大きく響いた。


 人の気配がない。


 それは普段通りのはずなのに、今日は妙に胸が騒いだ。


 それでも足を止められなかった。


 もし本当に何かあったら。また、自分が見落としていたら。


 何もありませんように。


 そう祈るたび、かつて触れた棺の中の冷たい頬の感触が胸の奥をよぎった。


 資料区画に近い廊下の先に、小部屋があった。扉が、わずかに開いている。そのあたりで、かすかな物音がした。


 リリアナは扉に手をかけた。


「……エリオス殿下?」


 返事はない。


 その瞬間だった。


 背後から、ばしゃりと冷たい水が落ちた。


 頭から肩、背中、胸元、袖、裾まで、一気に濡れる。秋の午後の水だった。冷たさに、思わず息が詰まる。


 後ろで、甲高い笑い声が弾けた。


 振り向くと、すぐ後ろにイザベラたちがいた。取り巻きの一人が、空になった桶を抱えている。


 イザベラは満足そうに笑っていた。


「少しは頭を冷やしなさい」


 取り巻きの令嬢たちが、声を潜めて笑う。


「ノア殿下だけでは飽き足らず、エリオス殿下にまで近づくからですわ」


「少しは身の程を知った方がいいわ」


 イザベラは濡れたリリアナを見下ろし、鼻で笑った。


「それに、あなたのような色の方は、交流会の場には出ない方がよろしいのではなくて?」


 濡れた袖から、雫が落ちる。


 イザベラが顎で合図をした。背中を押され、リリアナは小部屋の中へよろける。


「少しそこで反省なさい」


 扉が閉まる。


 かちゃん、と金具の音がした。


 外から鍵をかけたのだ。


「……イザベラ様」


 返事はない。


「イザベラ様!」


 呼びかけても、返ってきたのは笑い声だけだった。


 足音が遠ざかる。静寂が落ちた。


 リリアナはしばらく、扉に手を当てたまま立っていた。押しても、当然開かない。


 濡れた髪先から、雫が首筋をつたう。


 冷たい。


 けれど、まず浮かんだのは怒りではなかった。


 安堵だった。


 力が抜けて、その場に座り込む。


 ――エリオスじゃなくてよかった。


 本当に呼び出されたのではなかった。ただの嫌がらせだった。


 ここにエリオスはいない。怪我もしていない。


 それならいい。


 ほっと安堵の息がこぼれた。


 怪しいとは思っていた。


 それでも来た。


 少しでも、エリオスに何かある可能性があったなら。確かめずにはいられなかった。


 水をかけられたことも、閉じ込められたことも、今はどうでもよかった。


 エリオスが無事なら、それでいい。


 窓の外を見る。


 気づけば、日は大きく傾いていた。


 しばらくして、学院の遠くの方から馬車の音が聞こえた。生徒会役員たちを乗せた最後の馬車かもしれない。


 やがて、その音も消えた。


 研究棟の中は、いっそう静かになった。


 時間が過ぎていく。


 部屋の中の薄暗さが、少しずつ濃くなる。


 リリアナは膝を抱え、できるだけ体を丸めた。


 濡れた服は、容赦なく体温を奪っていく。使われなくなった机と椅子。埃をかぶった棚。薄暗い空気。冷えた石の床。


 寒い。


 体は震えているのに、顔だけが熱くなってきた。頭の奥がぼんやりとして、まぶたが重い。


 朝から食べられなかったせいか、力も入らない。


 エリオスは無事だろうか。


 交流会は、もう始まっただろうか。


 王太子として、多くの人に囲まれて。


 あの人が無事に笑っていてくれるなら、それでいい。


 そう思った途端、胸の奥に別の記憶が浮かんだ。


 秋季交流会。


 けれど、今夜のものではない。


 一度目の世界の、あの日。


 灯りの多い大広間。音楽。人の声。そして、隣にいたエリオス。


「明後日は、エリオスの誕生日だね」


「ああ」


「贈り物、用意してあるの」


「楽しみにしてる」


「あまり期待されると困るな。喜んでくれるか分からないし」


「リリーがくれるなら、何でもうれしい」


 エリオスは迷いなく言った。


 リリアナは少しだけ目を伏せてから、続けた。


「でも、もし他に欲しいものがあるなら……」


 エリオスは黙った。考えているようで、けれど視線はずっとリリアナに向いていた。


 リリアナも、目を逸らせなかった。


 やがて、低く呼ぶ。


「リリー」


 大切に置かれたような声だった。


「……なに?」


「リリーが欲しい」


 胸が跳ねた。


「エリオス。冗談はよして」


「冗談じゃないよ」


 その声は、思ったよりずっと静かだった。


「リリーが欲しい。全部」


 リリアナは言葉を失った。


 顔が熱い。きっと耳まで赤くなっている。


 エリオスは、真っ赤になったリリアナを見て、少しだけ困ったように笑った。言い過ぎたと思ったのか、声が少しやわらかくなる。


「でも、今すぐ何かを求めているわけじゃない」


 そっと、リリアナの手に触れる。


「リリーが隣にいてくれるなら、それでいい」


 それから、ほんの少し間を置いて。


「ずっと、そばにいて」


 胸の奥が、一気に熱くなった。


 ずっと隣にいる未来が、急に現実の形を持って目の前に差し出されたような気がした。


「……それは、もう贈り物じゃないよ」


「俺には贈り物だ」


 エリオスは静かに笑った。


「リリー」


 呼ばれる。


 何度も呼ばれてきた名前なのに、胸の奥が熱くなった。


「……そんなふうに呼ばないで」


「そんなふう?」


「分かってるでしょ」


「うん」


 エリオスは、少しだけ目を細めた。


「リリー」


 リリアナは視線を落とす。


「……呼びすぎ」


「呼ぶと赤くなるから」


「なってない」


「なってる」


「エリオス」


「可愛いよ、リリー」


 その一言で、もう何も言えなくなった。


 名前を呼ばれるたびに、胸の奥が熱くなる。


 あの人に会う前、自分の名前は、あるのかないのかも分からないようなものだった。家の中で呼ばれても、そこに自分がいる気がしなかった。


 けれど、エリオスが呼ぶと違った。


 リリー。


 ただそれだけで、自分がここにいるのだと分かった。


 生きていていいのだと思えた。


 ここにいてほしいと、隣にいてほしいと。


 そう願われている気がした。


 リリアナは、朦朧とした意識の中でうっすらと目を開けた。


 薄暗い部屋。冷えた床。濡れた服。


 夢ではない。


 ここは、研究棟の小部屋だった。


 最近、前の世界のことを思い出してばかりいる。


 今日は、やけに自制がきかない。


 だめだ。


 考えてはいけない。


 今のエリオスは、何も覚えていない。あの声で、あの名前を呼んでくれることはない。


 そう分かっているのに、目の奥が熱くなる。


 息が少しずつ荒くなっていた。


 濡れた服は冷たいままなのに、体の内側だけがじわじわと燃えるようだった。


 寒いのか、熱いのか、もうよく分からない。


 熱が、上がっている。


 意識がふたたび遠のいていく。


 大広間の灯りが遠ざかる。


 音楽が消える。


 代わりに、風の音がした。


 草が揺れている。


 白い花が、野原の奥で静かに揺れている。


 百合。


 リリアナは、そこに立っていた。


 子どもの頃の草原だった。王宮の近くにある、あの場所。


 初めて、エリオスが百合を見てリリーの花だと言ってくれた場所。


 少し離れたところに、幼いエリオスがいた。


 あの日と同じように、白い花の前で足を止めている。


「エリオス」


 呼んだ。


 けれど、エリオスは振り向かない。


 百合を見ている。


 あの花を見ているのに。


「エリオス」


 もう一度呼ぶ。


 届かない。


 幼いエリオスは、ただ白い花を見つめている。


 ――百合の花を見たら、リリーを思い出すね。


 昔の声が、胸の奥で響いた。


 約束みたいだった。


 あの時は、確かにそう言ってくれた。


 なのに、今のエリオスは何も覚えていない。


 リリーと呼んでくれない。


 当たり前だ。


 私が、あの人の隣にいないことを選んだのだから。


 分かっている。


 それでも、呼ばれなければ消えてしまいそうだった。


 あの頃と同じように。


 いいえ、あの頃よりもずっと。


「ここにいるよ」


 声は、風にほどけた。


「エリオス」


 それでも、届かない。


 白い花が揺れている。


 エリオスは振り向かない。


 リリアナは手を伸ばした。


 届かない。


 届かないまま、喉の奥から声がこぼれる。


「……呼んで」


 百合が揺れる。


 もう二度と聞けないはずの名前だった。


「リリーって、呼んで」


 せめて、もう一度だけ。


 あの声で。


 名前を。

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