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第23話 動き出した運命(3)

昼のお披露目を終えたあと、夜会までにはわずかな間があった。


 エリオスはその時間に、バルディエ邸へ立ち寄った。長居をするつもりはなかった。ただ、夜会へ戻る前に、もう一度だけ無事な顔を見ておきたかった。


 理由を並べれば、いくつもあった。王太子として確認すべきだった。生徒会長として気にかけるべきだった。自分の名が使われた以上、何もなかったように済ませるわけにはいかなかった。


 けれど、どれも少しずつ違っている。ただ、顔を見たかった。それを自分でも、まだうまく言葉にできなかった。


 バルディエ邸を辞し、王宮へ戻ると、侍従たちは夜会用の衣装を用意して待っていた。外衣を替え、髪を整え、胸元の徽章を留める。鏡の前に立てば、そこにいるのは今日一日、祝福を受け続けてきた王太子だった。


 広間へ入ると、灯りは明るく、音楽は華やかで、祝福の言葉は途切れなかった。昼から何度も受けた言葉が、また降ってくる。


 健やかなる成長を。


 王国の未来に幸を。


 次代の王となる方に、さらなる祝福を。


 エリオスは笑みを返し、礼を述べ、王太子としてそこに立った。


 花と灯りで飾られた広間。王家の未来を祝うために集まった人々。そこに向けられる言葉を、王太子として受け取る。ありがたいものだと分かっている。


 祝いの言葉を受けるたび、胸の奥では別の声がよみがえった。


 生まれてきてくださって、ありがとうございます。


 あの一言だけが、消えない。


 王国の未来でも、次代の君主でもなく。ただ、自分が生まれたことを喜ばれたように聞こえた。都合のいい受け取り方かもしれない。それでも、その言葉は胸の奥に残り続けた。


 夜会が終わる頃には、広間の灯りも少し落とされていた。来賓を見送り、最後の挨拶を済ませたあと、エリオスは控えの間へ向かおうとした。その途中で、王の側近に呼び止められる。


「殿下。陛下がお呼びです」


 夜会の余韻がまだ王宮に残る中、父王の執務室には、あらためて灯りが入れられていた。エリオスが入ると、王は机の前に座っていた。夜会の衣装のままだが、手元にはすでにいくつかの書類が置かれている。


「誕生祭の務め、ご苦労だった」


「ありがとうございます」


「交流会の件も聞いている」


 王は手元の書類を机に置いた。


「バルディエの娘が、騒ぎに巻き込まれたそうだな」


「はい。学院で処理されます。王宮側にも報告は上がっているはずです」


「あの娘は、どうだ」


 短い問いだった。エリオスは一瞬、答えを選び損ねた。


 どうだ、とは。


 熱のことか。怪我の有無か。それとも、夕方見た顔色のことか。


「熱は下がっていました。まだ本調子ではありませんが、大事には至っておりません」


「その話ではない」


 王は静かに言った。叱る声ではなかった。ただ、最初からそこには関心を置いていない声だった。


「あの娘は、使えるか」


 エリオスの指先が、わずかに止まった。


 使える。


 その言い方に、胸の奥が小さく冷える。


 父王が言っているのは、病み上がりの令嬢の容体ではない。王家の近くに置ける娘か。盤上に置いて、害にならず、力になる駒か。そういう問いだった。


「……有能です」


 エリオスは答えた。


 冷静。細かな仕事を拾う。人の流れを見る目がある。本来なら、新入生代表に立っていた成績。王宮に出しても通用する。無理をしても、それを表には出さない。


 そして、自分の誕生日に、生まれてきてくださってありがとうございます、と言ってくれた。


 けれど、それは口にできなかった。


「生徒会の仕事にもよく気がつきます。書面だけでは分からないところまで見ています」


「商いを持つ侯爵家の娘らしく、物や人の流れを見る目もある、か」


「はい」


 王はしばらく黙っていた。


「お前の目から見て、バルディエ家はどう映る」


「古くから王宮に関わってきた由緒ある家です。一度は人が離れ、王宮の中心からも遠ざかった。ですが、アルマン・バルディエが興し、育てた商会は、この数年で大きく力をつけています。軽く扱うべき家ではないと思います」


「その通りだ」


 王は淡々と言った。


「バルディエを、近年の商いで名を上げただけの家と見るな。あれは古い血筋に、新しい流れを乗せた家だ」


 王の指先が、机の上で静かに止まる。


「祖父の代までは王宮の中枢にも近かった。王への功績もある。そこへ、アルマン・バルディエの商いが乗った」


 王の声は変わらなかった。


「古い家名に寄りかかっただけの男ではない。王都の流れに食い込む場所を、よく分かっている。鉄、道、倉、馬車、人夫。王都を動かす流れのいくつもが、すでにあの家の手を通っている。見過ごせる家ではなくなった」


 エリオスは答えず、続きを待った。


「力のある家を遠ざければ、いずれ王家の外で太る。敵に回せば面倒だ。ならば、他家に取り込まれる前に、王家が縁を持つ」


「縁を、ですか」


「たとえば、アルヴェインがバルディエを取れば、どうなる」


 王の声は変わらなかった。


「お前とサラの婚約によって、王家はアルヴェインの鉄路事業に後ろ盾を与えた。それは必要なことだった。だが、そこに王都の流通、バルディエの資金と倉まで加われば、話は別だ」


 エリオスは黙った。


「妹は可愛い。アルヴェインも大事だ。だが、妹の嫁ぎ先に力を集めすぎるのは、王としては看過できぬ」


「アルヴェイン家を疑っておられるのですか」


「疑ってはおらぬ」


 王は答えた。


「だが、信じていることと、力を預けきることは違う」


 部屋が静かになった。


「アルマンを敵に回すつもりはない。だが、あの男がどこと手を組むかで、王都の流れは変わる」


 王は静かに言った。


「若い当主も悪くない。年のわりに現場を見る目がある。名ばかりの当主ではない。だが、その後ろにアルマンがいる。だからバルディエは見過ごせぬ」


 そこで、王は一度だけ言葉を切った。


「娘もだ」


「バルディエ嬢を、ですか」


「あれは、ただ飾っておく令嬢ではないらしいな。成績もよく、商会の仕事にも関わっている。上質な絹や香料、医薬品、穀物、塩。表には出ぬが、いくつかの流れにあの娘の判断が入っていると聞く」


 王は書類へ視線を落とした。


「バルディエ家は目立たせたくないようだが、才というものは、隠してもにじむ。学院でのお前の目でも、確かめておけ」


「承知いたしました」


「それに」


 王は書類から目を上げた。


「ノアと一緒にいることが多いそうだな」


 エリオスは、わずかに息を止めた。


「この国の歴史を調べているようです」


「それだけか」


 王の声は淡々としていた。エリオスは少しだけ言葉を選ぶ。


「ノアが自分から人を近くに置くのは珍しい。バルディエ嬢とは、話が途切れないようです」


「話が途切れない?」


「考え方が合うのでしょう。少なくとも、ノアは彼女を信用しています」


 口にしてから、胸の奥がわずかに軋んだ。


「そうか」


 王は短く頷いた。


「ならば、なおさらだ」


 王は続けた。


「ノアの婚約者を空けてあるのは、何も決めあぐねているからではない。王太子の婚約が固まる前に、弟の縁組で余計な派閥を作る必要がなかっただけだ」


 エリオスは答えなかった。


「だが、いつまでも空けておくものでもない。ノアには、王家の外で動ける手足が必要になる。由緒だけでも、金だけでも足りぬ。古い血筋を持ち、今の王都の流れも知る家が必要になる」


「バルディエを、ノアに?」


 思ったより低い声が出た。


 王はすぐには答えなかった。


「有力な候補の一つとして見るだけだ」


 そう言って、エリオスを見る。


「少なくとも、レイヴンハルトは候補から下げる」


 イザベラ・レイヴンハルト。


 ノアの婚約者候補として、たびたび名の挙がっていた令嬢。そして、リリアナを閉じ込めた令嬢。


「愚かな娘だ」


 王の声は冷静だった。


「どれほど家格が高かろうと、名の重さを知らぬ者を、王家の近くには置けぬ」


 エリオスは目を伏せた。


「はい」


 それ以上、王は語らなかった。


 けれど、父王がバルディエ家をどう見ているのかは分かった。アルマン・バルディエ。若い当主。そして、リリアナ本人。父王はそのすべてに目を向けている。


 そのうえで、リリアナの名をノアの婚約者候補として、政治の盤上に置いた。


 執務室を出たあと、廊下の冷えた空気に触れても、胸の奥は静まらなかった。


 生まれてきてくださって、ありがとうございます。


 その声が残っている。


 その同じ夜に、父王はリリアナの名を、ノアの近くに置くものとして語った。


 王太子として考えれば、父の言葉は間違っていない。バルディエは縁を持つべき家だ。リリアナは有能で、ノアとも話が合う。ノアの近くに置こうとする意味も、分かる。


 分かるのに。


 リリアナがノアの隣に立つ姿が浮かんだ瞬間、かろうじて手の中にあったものが、ふっと消えた気がした。


 エリオスは、その感覚に名前をつけなかった。つけられなかった。


 自室へ戻ると、侍従が静かに頭を下げた。


「お召し替えと、湯浴みのご用意をいたしましょうか」


「下がっていい」


 思ったより、きつい声になった。


 侍従が一瞬だけ目を伏せる。エリオスはすぐに言い直そうとして、やめた。


「少し、一人にしてくれ」


「かしこまりました」


 扉が閉まる。ひとりになった途端、広間の灯りも、音楽も、祝福の声も、すべて遠くなった。


 エリオスは外衣の留め具を外した。誕生祭のために仕立てられた礼装は重い。金糸の飾りも、肩を覆う布も、胸元を飾る徽章も、すべて王太子としての自分にかけられたものだった。


 それを脱ぎ、椅子の背へ無造作に引っかける。布はずるりと滑り、床に落ちたままになった。


 襟元をゆるめる。整えられていた髪に指を入れ、ぐしゃりとかき上げた。


 鏡の中から、王太子の顔がすっと外れた。残ったのは、十八になったばかりの男だった。


 机の引き出しが目に入った。


 あの中に、小さな箱がある。


 宝石店で、ふと目に留まり、つい買ってしまったブローチだった。買うつもりなどなかった。ただ、光を受けた石の奥で淡い色が揺れた瞬間、なぜか置いていけなくなった。


 それから何度も、箱を開けた。


 公務のあと。


 眠る前。


 考えがまとまらない夜。


 理由も分からないまま、取り出しては光にかざした。


 綺麗だと思った。


 好きな色だと思った。


 誰にも渡したくないと思った。


 自分のものだと、そう思っていた。


 エリオスは引き出しを開け、箱を取り出した。そのまま寝台へ移る。窓から差し込む月明かりが、寝台の端に白く落ちていた。


 エリオスは上半身を投げ出すように寝台へ倒れ込み、箱の蓋を開けた。レインボームーンストーンのブローチが、月の光を受けて静かに光る。指先で持ち上げ、少しだけ角度を変えた。


 昼間に見るよりも、色はずっと冷たく見えた。


 白。


 銀。


 灰を溶かしたような、淡い光。


 けれど、月明かりの中で傾けた瞬間、その奥に青と紫がふっと浮いた。


 エリオスの息が止まった。


 今日の夕方。


 寝台の上で、リリアナが顔を上げた時の瞳。


 灰色と呼ばれる色の奥に、淡く揺れていた青と紫。


 夕方の光と、月明かり。


 あたたかい光と、冷たい光。


 違うはずなのに、同じものがそこにあった。


 これは。


 リリアナの色だ。


 そう気づいた瞬間、形を持たずに胸を占めていたものが、急に輪郭を持った。


 綺麗だと思ったのは。


 好きだと思ったのは。


 誰にも渡したくないと思ったのは。


 エリオスは、ブローチを見つめたまま動けなくなった。指先の中で、石だけが淡く光っている。


 これ以上、考えてはいけない。


 認めれば、もう戻れない。


 王家が定めた婚約者がいる。王太子である自分に、勝手に変えられるものではない。リリアナにも、王家が別の道を用意しようとしている。


 自分の胸ひとつで、そのすべてを乱してはならない。


 エリオスはブローチを握りしめ、目元を覆った。


 分かってしまった。


 リリアナの色だ。


 それを知らないまま、自分は何度もこの石を眺めていた。疲れた夜に。落ち着かない夜に。ただ綺麗だと思って、好きな色だと思って、手放したくないと思っていた。


 もう、この石を今までのように何も知らずに眺めることはできない。


 生まれてきてくださって、ありがとうございます。


 あの声が戻ってくる。


 寝台の上で顔を上げた、あの瞳。


 月明かりの中で揺れる、この石。


 そして父王の声。


 王太子として考えれば、父王の言葉は間違っていない。


 リリアナは有能だ。


 ノアとも話が合う。


 その縁組に意味があることも分かる。


 けれど、分かっていることと、胸の奥が納得することは違った。


 箱へ戻さなければならない。蓋を閉じて、引き出しへしまう。湯を使い、衣を改めれば、明日にはまた王太子として立てるはずだった。


 いつものように。


 そう思うのに、指はブローチを離さない。


 エリオスはしばらく動けなかった。


 目元を覆った手の下で、息だけがゆっくりと乱れていく。


 月明かりの中、小さな箱だけが静かに開いたままだった。

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