第22話 名前を呼んで(2)
一通り確認を終えたところで、サラがふっと笑った。
「それにしても、本当にリリアナさんは優秀ね」
サラは感心したように、装花の配置図へ目を落とした。
「正面階段を白でまとめて、広間に色を足す。来賓が最初に目にする場所と、長く過ごす場所で印象を変えるのね」
「その方が、広間に入った時に華やかに見えるかと思いまして」
「花だけではなくて、燭台や布の位置まで考えているのでしょう? 宮廷でも通用する気配りだわ」
「そのようなことは……」
「謙遜しなくていいのよ」
サラは微笑んだ。
「正直、母が言っていたことも分かる気がするわ」
「公爵夫人が、ですか」
「ええ。以前、うちでお茶会をした時に言っていたでしょう? 弟の婚約者にどうかしらって」
リリアナの指先が止まる。
「……あれは、ご冗談かと」
「冗談半分だったでしょうけれど、半分は本気だったと思うわ。それに、バルディエ商会のことは、父も母もよく話題になさるもの。絹の件もそうだし、王都の流通のことも」
サラは楽しそうに笑った。
「私も、リリアナさんが弟のお嫁さんに来てくださったら心強いわ。本当に、そのうち釣書が届くかもしれないわよ」
「サラ様」
「そうしたら、私はリリアナさんのお義姉様になるのね」
リリアナは返事に困った。
サラは百合の花束を抱えたまま、今度はエリオスを見る。
「となると、エリオスはお義兄様ね。こんな可愛い妹ができたら嬉しいでしょう?」
その言葉に、空気が一瞬だけ止まった。
エリオスは答えなかった。リリアナも、何も言えなかった。
妹。
エリオスはなぜだか、少しも嬉しくなかった。
サラは小さく瞬きをした。けれど、すぐにいつもの微笑みに戻る。
そこへ、エリックが書類を手に戻ってきた。
「失礼いたします。迎賓館側から、打ち合わせの依頼が届いております」
「打ち合わせ?」
エリオスが顔を上げる。
「はい。席の配置、燭台の位置、控え室から広間までの案内経路、それから来賓の待機場所について、実際の会場で確認したいとのことです」
エリックは書類をめくった。
「こちらもまだ学院側で確認作業が残っていますので、二手に分かれた方がよろしいかと」
ノアは別室で、音楽係や舞踏の進行について打ち合わせをしている。エリックは教師と席次表の確認に戻らなければならない。
サラは百合の花束を抱え直した。
「でしたら、迎賓館の方はリリアナさんにお願いしても?」
「私が、ですか」
「配置の話にも関わっていたし、人の流れも丁寧に見てくださるでしょう?」
そう言ってから、サラはエリオスを見る。
「エリオスも一緒に行ってくれるかしら? 生徒会長なのだから、会場の配置は見ておいた方がいいでしょう」
「ああ、そうしよう」
エリオスは頷いた。
「承知いたしました」
リリアナも立ち上がる。
「いってらっしゃい」
サラは穏やかに微笑んだ。
「私はもう少し、こちらで装花の打ち合わせをしているわ」
生徒会室を出ると、賑やかな声が遠ざかった。
学院正門前には、迎賓館行きの馬車が待っている。御者が扉を開き、踏み台を置いた。
リリアナは馬車へ乗り込もうとする。その時だった。
踏み台の縁で足を滑らせた。
「――っ」
身体が後ろへ傾く。背中から落ちる。そう思った瞬間、背後から腕が伸びた。
腰を強く支えられ、ぐっと引き寄せられる。背中が、硬い胸に受け止められた。
倒れかけた身体が、その腕の中で止まる。
「大丈夫か」
低い声が、すぐ耳元に落ちる。
リリアナは息を呑み、後ろのエリオスを見ようとした。けれど顔はよく見えない。分かるのは、背中に触れている温度と、腰を支える腕の強さだけだった。
自分の足元を確かめるより先に、口が動いていた。
「殿下こそ、お怪我はございませんか」
背後で、小さく笑うような吐息が漏れた。
「転びかけたのは君だろう」
「ですが、殿下に何かあっては大変です」
研究棟の時と同じだ。エリオスはそう思った。
彼女は、自分のことより先にこちらを案じる。あの時もそうだった。怪我を見つけた瞬間、青ざめて、泣きそうな顔で、自分の名を呼んだ。
それだけで、なぜだか胸の奥が熱くなった。
今も、そうだ。リリアナは、自分のことより先にこちらを気にしている。
嬉しい。そう思ってしまった。
その感情に気づいて、エリオスはわずかに眉を寄せる。
「君は、いつも人の心配ばかりするな」
呆れたように言ったつもりだった。けれど声は、思ったより柔らかくなっていた。
「当然です。エリオス殿下の身に何かあれば、大変ですから」
正しい答えだった。
王太子に何かあれば、大事になる。護衛が動く。教師が動く。王宮へ報告が上がる。ほんの小さな怪我でも、周囲は騒ぐ。
そういう立場だ。分かっている。分かっているのに、胸の奥が少し沈んだ。
王太子だから。
本当に、それだけなのだろうか。
リリアナは、今も自分に一歩線を引いている。礼儀正しく、静かで、決して踏み込まない。それなのに、こちらが怪我をすれば顔色を変える。自分のことより先に、こちらを見る。
それだけで、胸の奥にあった硬いものが解ける気がした。
それなのに今は、その中身まで知りたがっている。
王太子に向けられたものなのか。それとも、エリオスという一人の人間に向けられたものなのか。
そんなことまで知りたいと思ってしまう。
ふと、先ほどのサラの言葉が頭をよぎる。
妹。
もし本当に妹なら、こんなふうに心配の理由まで気になるだろうか。
答えは出なかった。
腕の中のリリアナが身じろぎした瞬間、エリオスは我に返る。
抱き止めただけだ。
それなのに、妙に意識している。背中に残る温もりも、かすかに触れた髪の感触も、書架が倒れた日の記憶を引き寄せる。
まずい。
そう思って、エリオスは腕を離した。
「……すまない」
リリアナはすぐに一歩下がり、深く礼をした。
「こちらこそ、度々申し訳ありません」
「足は」
「平気です」
「本当に?」
「はい。ですが、殿下も……」
リリアナは少し言い淀んだ。
「どうか、次からはご自身の安全を先にお考えください」
エリオスの目が止まる。
「転びかけた君を支えただけだ」
「それでもです」
リリアナは静かに言った。
「殿下に何かあってからでは遅いのです」
丁寧な言葉だった。けれど、その響きはどこか苦しかった。
まるで、自分が助かることより、エリオスが傷つかないことを優先しているように聞こえた。
「……分かった」
エリオスは短く答えた。
リリアナは小さく頷く。
「君も気をつけて」
「はい」
リリアナは頭を下げ、今度こそ馬車へ乗り込んだ。
胸の鼓動は、なかなか静まらなかった。
その様子を、少し離れた回廊の柱の陰から、見ている者がいた。
イザベラだった。




