第22話 名前を呼んで(1)
七月に入る頃、研究棟の資料区画は本格的に閉鎖された。倒れた棚だけではなく、周囲の棚にも傷みが見つかったためだ。
学院は外部の職人を入れ、傷んだ書架を区画ごとに順に修繕することにした。もともと木箱に収められていた資料は箱ごと寄せられ、棚に並んでいたものは教員の立ち会いのもとで番号を振られる。仮棚や布包みに分け、隣の保管区画へ一時的に移す。
ひとつの棚を直し、資料を戻し、また次の棚へ移る。それだけでも、資料区画は常に落ち着かない。
湿気や虫食いの疑いがあるものは、研究棟の別室で状態を確認する。王家の古記録や祭祀に関わる資料は、担当教員の許可なしには触れられない。扉には立入制限の札が掛けられ、鍵の管理も厳しくなった。
以前のように、放課後に資料区画へ入ることはできない。
レオニード・ヴェルナーの名を追うにも、見られる資料は限られていた。生徒会室に残された古い名簿。職員室で許可を得て閲覧できる、過去の研究室使用記録。学院の卒業生記録。王都に残る商工名簿。
辿れるものは、ひとつずつ辿った。ノアも、公務の合間に一緒になって調べた。
けれど、分かったのはわずかなことだけだった。
レオニード・ヴェルナーは、確かに学院にいた。サヴィーヌ教授の研究室に出入りし、王家史と古代文字に関わっていた。そして、学院を去った。
そこから先の足取りは、夏が終わっても掴めなかった。
何もしていないわけではない。できることは、している。けれど、肝心なところだけが掴めない。
そうしている間にも、時間だけが過ぎていった。
夏が過ぎ、朝夕の風に涼しさが混じる頃。生徒会室の机の上には、別の書類が増え始めていた。
来賓名簿。席次表。出席予定者一覧。料理と軽食の見積もり。音楽係の配置。そして、装花の候補。
秋季交流会の準備だ。
秋季交流会は、王立学園の生徒たちが中心となって行う、年に一度の大きな公式行事だ。在校生同士の親睦だけではない。卒業生、若い官僚、地方領主の子女、王都の有力商会の子息や令嬢。場合によっては、隣国からの留学生や使節の随行者も顔を出す。
学園行事でありながら、半分は社交の場でもある。
今年は、交流会の二日後にエリオスの誕生祭がある。
十八歳。卒業を控え、王太子としての公務や婚姻の話が、これまで以上に重く見られる年だった。
誕生祭に合わせて王都へ入る貴族や地方領主も多い。そのため、今年の交流会は例年より来賓の数が増えることになっていた。
夜に行われる交流会では、生徒たちも正装で参加し、音楽に合わせて踊る。学園行事でありながら、小さな社交界のような一夜になる。
会場も学院の大広間では足りない。今年に限り、王宮外郭にある迎賓館の広間を借り、学院と王宮の協力で行われることになっていた。
学院から迎賓館までは、馬車で四半刻ほどかかる。そのため、生徒会も何度か王宮側との打ち合わせに足を運ぶ必要があった。
席次。来賓の導線。控え室の割り当て。会場に置く花の種類。
当日の実務は学院職員と迎賓館側へ引き継ぐことになっていたが、そこまで準備するのは教師と生徒会の仕事だった。
リリアナが任されているのは、席次そのものを決めることではない。それは教師と上級生、王宮側の担当者が確認する。
リリアナの役目は、来賓名簿と出席予定者一覧を照らし合わせ、出欠や肩書きに誤りがないかを見ること。立食の料理や軽食の数を、当日の人数に合わせて確認すること。案内係に渡すための来賓名簿や、控え室ごとの簡単な一覧を整えることだった。
ひとつひとつは、目立つ仕事ではない。けれど、こうした細かな確認ほど、抜けがあれば当日大きな乱れになる。
リリアナは、そういう仕事をよく拾った。
どの順番で確認すれば滞らないのか。どこで人が詰まりやすいのか。誰を先に通し、誰を待たせてはいけないのか。
それは、一度目の世界で叩き込まれたことだった。
王太子の隣に立つために、必死で覚えたこと。
今はもう、その場所に立つためではない。それでも、身体はまだ覚えている。
花や軽食、布の搬入については、バルディエ商会の取引で見慣れている分、話が早いこともあった。だから気づけば、生徒会室の机の上には、彼女に確認を求める書類が増えていた。
「装花は、正面階段と広間で分けた方がよさそうね」
その日、生徒会室にはサラも来ていた。王太子の婚約者として、来賓の迎え入れや席次の確認に加わることになったのだ。
机の上には、花屋から届いた見本の花束がいくつも並んでいた。
薔薇。トルコキキョウ。ダリア。それから、百合。
リリアナは、その花の前で手を止めた。
白い花弁。まっすぐ伸びた茎。静かな輪郭。
胸の奥で、昔の声がよみがえる。
――これは、リリーの花だよ。
指先が、紙の端を押さえる。
エリオスは、百合の見本花束を手に取った。花弁を傷めないよう、茎のあたりを軽く支える。
「……いいな」
低く落ちた声だった。ただの確認のはずなのに、どこか懐かしむような響きがあった。
その声に、リリアナは顔を上げていた。
「殿下は、百合がお好きなのですか」
しまった。
言ってから、後悔した。自分からエリオスに、こんなふうに話しかけたことなど一度もなかったのに。しかも声が、思ったよりずっと柔らかくなってしまった。
エリオスも顔を上げる。百合から、リリアナへ。
花束を支える指先が、一瞬だけ止まった。
リリアナから話しかけられたこと。それも、こんな柔らかな声で。
エリオスの方も、少し戸惑っているように見えた。
短い沈黙が落ちる。
「……好き、なのだと思う」
エリオスは答えた。
「思う?」
サラが楽しそうに首を傾げる。
エリオスは、花束へ視線を戻した。
「見ていると、不思議な気持ちになる」
その言葉に、リリアナの胸が強く締まった。
意味などないのかもしれない。ただ、花の形が気に入っただけなのかもしれない。
それでも、百合を見つめるエリオスの横顔から、リリアナは目を離せなかった。
サラが、リリアナへ視線を向ける。
「リリアナさんも、お好きなのではなくて?」
「私ですか」
「だって、リリアナさんでしょう?」
サラは悪気なく微笑んだ。
「百合はリリーとも呼ぶもの。お名前に近い花なら、少し特別に思うのではないかしら」
リリー。
その音が落ちた瞬間、エリオスの手が止まった。
花束を持つ指先に、わずかに力が入る。
リリアナも、息を止めていた。
エリオスの声ではない。それなのに、その響きだけで胸の奥が震える。
「エリオス?」
サラが不思議そうに呼んだ。
エリオスはゆっくり瞬きをする。
「ああ」
短く答えたあと、少しだけ百合を見る。
「……何でもない」
そう言いながらも、視線はまだ花に落ちていた。
サラはそれ以上気に留める様子もなく、机の上に残った花束へ目をやった。
「見本はもう見終わったのよね。せっかくだもの、リリアナさんがいただいたら?」
そう言われて、リリアナは百合を見る。
エリオスも手元の花束へ視線を落とした。
そして、そのままリリアナの方へ差し出しかける。
ごく自然な動きだった。
けれど、その白い花が自分の方へ近づいてくるのを見た瞬間、リリアナの胸が大きく揺れた。
好きだった。
好きに決まっている。
あの人が、私の花だと言ってくれた花だから。
けれど、今ここで受け取れば、花が好きだというだけでは済まなくなる気がした。
リリー。
その名前で、あなたに呼ばれたいこと。
百合を見るたびに、思い出してほしいこと。
もう一度だけ、あの声で自分を呼んでほしいこと。
そんなものまで、全部こぼれてしまいそうだった。
エリオスの手が、まだこちらへ向いている。
リリアナは薄く笑みを作った。
「いえ。特別に好きというほどではありませんから」
エリオスの手が止まった。
何かが引っかかったような目で、リリアナを見る。
「そうなの?」
サラも少し意外そうに目を瞬かせた。
「はい」
リリアナは答えた。声は乱れなかった。
エリオスはしばらく彼女を見ていたが、リリアナはその目を見返さなかった。
サラが小さく頷き、エリオスの手元の百合を見る。
「では、私がいただこうかしら」
そう言って、サラはエリオスの手から花束を受け取った。
「凛としていて素敵ね」
百合を抱え直し、白い花弁を見下ろす。
「せっかくだから部屋に飾るわ。当日の雰囲気も見ておきたいもの」
エリオスは一度、サラの腕の中の百合を見る。それから、サラへ視線を戻した。
「ああ」
サラも自然に微笑む。
白い花は、サラの腕の中に収まった。
見本を見終わった花を、欲しいと言った者がもらった。それだけのことだ。
誰が見ても、不思議に思うようなことではない。
けれど、リリアナの胸の奥には、呼ばれなかった名前だけが残った。
リリー。
その音を思い出した瞬間、胸が縋るように震えた。
もう一度だけ。
そう願いかけて、リリアナはすぐに息を整えた。
願ってはいけない。
呼んでほしいなどと、思ってはいけない。
サラは百合の花弁を傷めないように持ち直した。
「百合は、神殿でもよく使われるわね」
そう言って、花を見下ろす。
「純粋、無垢。そういう意味があるそうよ」
サラは軽く首を傾げる。
「でも不思議ね。祝福の席にも飾られるし、別れの場にも置かれる。同じ花なのに、場所が変わるだけで意味も変わるみたい」
リリアナは、何も言えなかった。
祝福。別れ。白い花。
棺の縁に置いた、あの百合。
エリオスの眠る顔。
冷たい頬。
――起きて。
声にならなかった言葉。
記憶が、胸の奥を裂く。
けれど目の前では、サラが穏やかに百合を抱えている。
この場でその花を受け取ることが、あまりにも自然な人だった。
王太子の隣に立ち、祝福の場へ進んでいく人。その花を、ただ美しい花として手にできる人。
「では、正面階段は白を基調にいたしましょう」
リリアナは、手元の書類へ視線を落とした。
「広間は、来賓の方々の目に華やかに映るよう、少し色を足した方がよろしいかと」
言えた。言葉は出た。
けれど、自分が何を言っているのか、一瞬だけ分からなくなった。
百合。正面階段。広間。数量。追加。配置。
文字が紙の上に並んでいる。意味を持つ前に、ただ白く滲んで見えた。
リリアナは、もう一度まばたきをした。
仕事だ。
これは仕事だ。
そう思い直して、視線を紙へ戻す。
エリックが頷き、控えに書き込む。サラも感心したように笑った。
「さすがね。頼りになるわ」
「恐縮です」
リリアナは礼を返した。
手は止めなかった。
止めてしまえば、何かが崩れてしまいそうだった。




