第21話 見落としていたもの(4)
ノアが、最後に名を告げた。
「補助学生の名は――レオニード・ヴェルナー」
サヴィーヌ教授の手が止まった。開いていた冊子の頁が、指先の下で少しだけたわむ。
「……その名を、どこで?」
「七年前の研究補助申請です」
ノアが答えた。
「借り出した資料名も残っていました」
教授はしばらく黙っていた。
「なるほど」
やがて、低くそう言った。
「それで、その学生について知りたいと」
ノアは頷いた。
「はい」
教授はすぐには続けなかった。机の上の冊子を閉じ、眼鏡の奥から二人を見る。
「レオニード・ヴェルナーは、私の研究室にいた学生です。優秀でした。古代文字の読解が早く、資料の扱いも丁寧だった。王家史にもよく通じていました」
そこで一度、言葉が止まる。
「ただ、途中から調べるものが変わった」
「変わった、とは」
リリアナが尋ねる。
「王家史そのものではなく、王太子の記録が途切れる箇所ばかりを見るようになったのです」
リリアナの指先が、帳面の端で止まった。
同じだった。自分たちが追っているものと。
「古い祭祀記録。王宮の事故録。名授けに伴う地方儀礼。災厄鎮めの伝承。彼はそれらを並べて、第一王子の短命と結びつけようとしていました」
そこまで言って、教授はノアを見る。
「殿下の前で申し上げるには、慎重になるべき話です」
ノアはすぐには答えなかった。
王家に関わる話だった。過去の第一王子たちの死。そして、今この国にいる第一王子。それを同じ線の上に置くことは、ただの学問では済まない。
それでも、ノアは視線をそらさなかった。
「……古い伝承として、伺います」
教授は頷いた。
「まず前提として、昔は事故や病で命を落とす者が今よりずっと多かった。流行病もあった。薬も医術も、今ほど整ってはいない。二十歳を迎えられない者も珍しくなかった」
その声は、どこまでも学者としてのものだった。
「貴族も例外ではありません。王族であっても同じです。ですから、第一王子だけが特別短命だったと断じることは、学問としては非常に扱いづらい」
ノアは何も言わなかった。
「ただ、それでも、第一王子の名授けの後に災厄が集中すると考えた者たちがいました」
事故。病。周囲の者の死。
「それらを、王位継承者へ向かう呪いと呼ぶ土地もある。災厄鎮めの儀があったとする文献もあります」
リリアナは息を止めた。
「また、王と聖女と時の指輪に関わる伝承にも、古い形があるとされています」
その題名に、胸が大きく鳴った。
王と聖女と、時の指輪。
何度も読んだ童話だった。聖女が時戻りの指輪で時を戻し、王を救う物語。灰色の髪の魔女が、王を呪ったとされる物語。
リリアナは机の下で左手を握った。手袋越しに、中指の輪の形をそっと押さえる。
ここにある。
誰にも見せないように隠してきたものが、確かにここにある。
「時を戻す指輪、という部分は神話の領域です」
サヴィーヌ教授は言った。
「少なくとも私は、実在を示す資料を見たことがありません」
ノアが顔を上げる。
「存在しないと?」
「断定はできません。この国が今の形になるよりはるか昔、まだ小国が並び立っていた頃の神話に、その名は残っています」
教授は机の上の冊子へ目を落とした。
「ですが、実物を見たという記録も、どこかに保管されたという記録もない。学者の間では、神話上の遺物として扱われています」
リリアナは、手袋越しに指輪を押さえたまま何も言わなかった。
神話上の遺物。実在を示す記録はない。
けれど、自分は知っている。
あの夜。棺のそばで握った輪。エリオスの頬の冷たさ。白く滲んだ視界。
次に目を開けた時、小さくなった自分の指に、同じ輪が残っていた。
時は、戻った。
「ただ、今では童話として広く知られているその話にも、古い写本ではいくつか違う記述が見られます」
「違う記述、ですか」
リリアナは思わず身を乗り出していた。
「ええ。特に、王を呪った女の色と、災厄鎮めの関係に触れているものがあります」
「色と、災厄鎮めの関係……」
「灰色の髪。薄い色の瞳」
そこまで言って、教授の視線が一瞬だけリリアナへ向いた。すぐに目を伏せ、机の上の冊子へ戻る。
「記録上は、そうした色を持つ者が存在しないわけではありません。地方によっては、数代に一度ほど生まれることがあるようです。血筋としてはっきり継がれるものではなく、色素の出方が極端に薄く出る体質だと見る学者もいます」
ほんの少し間を置き、教授は続けた。
「もっとも、私が実際にお会いしたのは、バルディエ嬢が初めてですが」
リリアナは何も言わなかった。
幼い頃から、その色については何度も囁かれてきた。
不吉だと。災いを呼ぶと。
けれど今は、同じ言葉が別の意味を持って迫ってくる。
ノアが問う。
「レオニードは、その伝承も追っていたのですか」
「ええ。第一王子の短命。災厄鎮め。時の指輪。王を呪った女の色」
教授は一つずつ確かめるように口にした。
「彼は、それらを同じものとして考えようとしていました。ただ、彼の見方は少し違っていた」
「違う?」
「灰色の魔女は、王を呪った」
教授はそこで言葉を止めた。視線が、ふたたび一瞬だけリリアナの髪へ向く。
「そのため、灰色は昔から――」
言いかけて、口を閉じた。
リリアナは静かに顔を上げる。
「続けてください」
教授は少しだけ間を置き、頷いた。
「……忌まれる色として語られることがありました」
リリアナは黙って聞いていた。
「しかし、同じ色を持つ者なら、その災厄を鎮められるのではないか。レオニードはそう考えていたようです」
指先が止まる。
「同じ色を持つ者……」
「彼は言っていました。灰色だから災いを呼ぶのではない。灰色だからこそ、災いに干渉できるのではないか、と」
教授は今度はリリアナを見なかった。
「呪いをかけた者に近い性質を持つ者だからこそ、その呪いに触れられる。そう読める地方伝承を、いくつか見つけたと言っていました」
リリアナは、帳面に置いた手を握り込む。
初めて聞く話だった。
胸の内側が大きく揺れる。
災いの印ではない。
災いに触れられる色。
その言葉だけが、耳の奥に残った。
「ですが」
教授の声が少し硬くなった。
「証明されたものではありません。伝承です。迷信と呼ぶ者もいる」
「先生は」
リリアナは思わず口を開いていた。
「信じておられるのですか」
教授はすぐには答えなかった。
「私は学者です」
やがて、そう言った。
「証明できないものを、事実として扱うことはできません。ただ、否定しきれるほどの材料もありません」
部屋が静かになった。
「私は、それを現代の王家に結びつけることはしませんでした」
教授の声は慎重だった。
王家に関わること。第一王子に関わること。
軽々しく口にすれば、学問では済まない。不敬と取る者もいる。陰謀と見る者もいる。迷信に惑わされたと笑う者もいる。
王宮でさえ、この手の話を表立って扱うことはない。笑い飛ばす者がいる一方で、口にしただけで異端扱いされることもある。
「レオニードは、そのあたりから取りつかれたように調べるようになりました。深入りしないよう、何度も伝えました。ですが、止まりませんでした」
「それで研究から外されたのですか」
ノアが尋ねる。
「正式には、補助終了です。こちらでは、もう通常の研究補助として扱いきれなくなっていた」
「申請記録は、三年に上がる前で途切れていました」
リリアナが言う。
教授は頷いた。
「その頃です」
「学院を去ったのですか」
「自主退学です」
「今どこにいるかは」
教授は首を振った。
「正確な場所は知りません。ただ、地方で暮らしていると聞いたことはあります。風の噂ですが」
「場所は」
「そこまでは分かりません」
「ヴェルナー家は」
「もともとは地方の小貴族です。王都にいたのは、彼が学院に通っていた間だけだったはずです」
リリアナは帳面に書きつけた。
レオニード・ヴェルナー。地方の小貴族。自主退学。正確な居場所は不明。
まだ、分かるのはそれだけだった。
ノアが言う。
「家族を辿れば、何か分かるかもしれない」
「可能性はあります」
教授は否定しなかった。
「ただし、忠告はしておきます。王家に関わる古い伝承は、ただの昔話として扱われているうちは安全です」
声がわずかに低くなる。
「ですが、それを今の王家に結びつけようとした瞬間、話は変わります」
ノアは黙っていた。
「殿下のお立場なら、なおさらです。知ることが、そのまま力になるとは限りません。知ったことで、身動きが取れなくなることもある」
その言葉は、ノアだけではなくリリアナにも向けられていた。
「レオニードは、そこへ踏み込みました」
教授はそこで言葉を切った。
それ以上は、何も言わなかった。
研究室を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。本館の廊下は、研究棟ほど静まり返ってはいない。それなのにリリアナには、先ほどまでいた部屋の重さがまだ身体に残っているように思えた。
王を呪った女。災厄鎮め。王と聖女と時の指輪。
幼い頃に何度も読んだ童話が、まるで違うものになって目の前へ戻ってきた。
ノアが隣を歩きながら言う。
「教授は、全部を知っているわけではないな」
「はい」
リリアナは頷いた。
「でも、線を越えた人を見ている」
「レオニードか」
「はい」
ノアは少し黙った。
「それから」
「はい」
「色の話は、あまり気にしすぎるな」
リリアナは顔を上げた。
ノアは前を向いたまま続ける。
「教授も言っていただろう。伝承は伝承だ。不用意に君の色と結びつける必要はない」
「……はい」
リリアナは頷いた。
けれど胸の奥では、教授の言葉が何度も繰り返されていた。
同じ色を持つ者なら、その災厄を鎮められるのではないか。
「まずは家族を辿る」
ノアが言った。
「ヴェルナー家の記録と、地方の小貴族の名簿。それから、王都に残っている親族がいないかも調べた方がいい」
「親族ですか」
「ああ。地方の家でも、王都に商売や職人仕事で残っている者がいることはある」
「分かりました。調べます」
リリアナは頷いた。
この色が災いの印なのか。それとも、何か別の意味を持つのか。
今はまだ、分からない。
けれど、知らないままではいられなかった。
その日からしばらく、ノアとリリアナはレオニード・ヴェルナーの名を追った。
古い学生名簿。地方の小貴族の家名録。学院に残る退学届の控え。研究補助生の登録簿。
そこに名前はある。
レオニード・ヴェルナーは、王立学園にいた。サヴィーヌ教授の研究室に入り、王家史と古代文字を学んでいた。
だが、現在の居場所へ続く記録は見つからない。
王都で借りていた下宿は、すでに別の学生のものになっていた。ヴェルナー家は、王都に屋敷を持っていたわけではない。
残っていたのは、地方出身であること。自主退学したこと。それから、王都に兄がいるらしいという古い届け出だけだった。
王都にいると記されていた兄についても調べたが、古い住所にはすでに別の者が住んでいた。勤め先も移っており、その先までは辿れなかった。
手がかりらしきものはある。けれど、まだどれもレオニード本人には繋がらない。
その夜、リリアナは鏡の前に立った。
灯りの中で、灰色の髪が肩に落ちている。鏡の中の瞳は、薄い灰色をしていた。
幼い頃から、何度も遠ざけたいと思った色だった。
不吉だと囁かれた色。
不幸を呼ぶのだと思っていた色。
けれど、もし違うのなら。
教授が口にしたのは、ただ一つの伝承だった。証明されたものではない。迷信かもしれない。読み違いかもしれない。
それでも、その言葉から目を離せなかった。
同じ色を持つ者なら、災厄を鎮められるのではないか。
それが本当なら。
本当に、そうなら。
リリアナは自分の髪に触れ、それから鏡の中の薄い瞳を見る。
私が。
この色を持つ私が。
エリオスを助けられるのだとしたら。
まだ何も分かっていない。
そう思うのに、胸の奥から抑えきれないものが込み上げてきた。
願いだった。
希望だった。
たった一つの不確かな言葉に、それでも縋りついてしまうほどの。




