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第3話 百合の咲く場所(1)

名授けの日から、数日が過ぎていた。


 神殿で起きた出来事を、屋敷の中で口にする者はいなかった。食事の時間も、廊下を歩く足音も、使用人たちの仕事も、昨日までと同じように続いている。


 屋敷は古かった。壁も柱も丁寧につくられていて、一目で、かつては栄えていたのだと分かる造りだった。祖父の代、この屋敷は賑やかだったという。客の馬車が並び、人の出入りが絶えず、庭先まで笑い声が届いていた、と。


 そのころを知る者は、もうほとんど残っていない。今は、広さだけが目立っていた。中庭の噴水は止まり、装飾は磨かれず、使われない部屋が増えている。長い廊下を歩くと、リリアナの足音だけが遅れて返ってきた。


 父は、その屋敷の中央にいる人だった。どこかには必ずいる。書斎へ向かう背中。食堂へ入る横顔。使用人に短く指示を出す声。けれど、視線が合うことはほとんどなかった。


 リリアナが生まれた日、母はこの世を去った。病とも、体の弱さとも言われた。けれど父の中では、理由は最初から一つだったのだと思う。愛した妻を失った日と、リリアナが生まれた日が、同じだった。それだけで、十分だった。


 父がリリアナに求めているのは、問題を起こさないこと。体裁を崩さないこと。屋敷の名を汚さないこと。それくらいだった。


 継母は、父よりも分かりやすく距離を取った。怒鳴ることはない。手を上げることもない。けれど、リリアナに向ける言葉はいつも短かった。


「部屋にいなさい」

「今日は出なくていいわ」

「それで結構です」

「下がってよろしいわ」


 用件だけだった。言葉遣いは乱れない。だからこそ、その先に何かを尋ねる隙がなかった。


 茶会の日、リリアナの席は用意されなかった。客人が来る日は、離れの部屋にいるよう言われる。


「驚かせてしまうといけないから」


 継母は、そう言った。誰を、何で驚かせるのかまでは言わない。言わなくても、リリアナには分かった。


 新しい布が届いても、明るい色は選ばれない。


「目立たないものを」


 継母は、仕立て屋にそれだけ告げた。選ばれるのは、古びた壁紙のような色ばかりだった。袖が少し短くても、丈が合っていなくても、着られるならそれで終わりだった。


 使用人たちは、奥方の態度をよく見ていた。


「こちらへ」

「お部屋へ」

「本日は、こちらになります」

「そのままで結構です」


 言葉は丁寧だった。命令でも、露骨な侮蔑でもない。ただ、必要以上の言葉をかけない。目を合わせない。歩幅を合わせない。振り返らない。必要な場所へ連れていき、用が済めば戻す。そういう接し方が、この屋敷の中で当たり前になっていた。


 廊下ですれ違うと、視線がほんの一瞬だけ下がる。リリアナの髪に。色を失ったような灰色。灯りの下では、重たく沈んで見える色。


 灰色の髪と瞳は、不幸を呼ぶ色だと、リリアナも幼いころから教えられていた。忌み色。不吉な徴。祝いの席には向かない色。幸せな人のそばに置かないほうがいい色。誰も、リリアナの前で大きな声では言わない。けれど、避ける理由には十分だった。


 使用人は目を伏せる。継母はそばに置かない。父は正面から見ない。そうして誰も何も言わないまま、リリアナの居場所だけが少しずつ端へ寄せられていった。


 リリアナの部屋は、北向きの離れにあった。庭にも、正面玄関にも面していない。窓から見えるのは、人の通らない裏手の木立だけ。朝になっても光は薄く、夕方になると、ほかの部屋より早く暗くなる。


 屋敷の中で、いちばん端に近い場所。住む部屋というより、置かれている部屋だった。


 呼ばれれば行き、用が済めば戻る。そのくり返しの中で、リリアナは少しずつ覚えていった。どの廊下を通れば人に会わずに済むか。どの時間なら食堂の前を通っても邪魔にならないか。どの扉の前で待てば、メイドが迷惑そうな顔をしないか。


 困らせないこと。それが、この家でいちばん大事なことだった。


 熱が出ても、すぐには言わない。お腹が痛くても、部屋の隅で膝を抱えて待つ。食事が冷めていても、服が合わなくても、分からない字があっても、黙っている。言えば、誰かの手を止めてしまう。探させてしまう。運ばせてしまう。考えさせてしまう。それは、いけないことだった。


 だからリリアナは、少しずつ言わなくなった。


 寒いとも。


 痛いとも。


 寂しいとも。


 分からないとも。


 言わずにいると、最初は胸の中に残っていたものが、だんだん小さくなっていく。泣きたいと思う前に、涙の出し方を忘れる。欲しいものを考える前に、欲しいと思うことをやめる。


 そうしていれば、誰も困らなかった。リリアナが部屋の隅で本を抱えていても。誰とも目を合わせず、一日を終えても。屋敷の中にいるはずなのに、いないもののように扱われても。この屋敷では、それで何も滞らなかった。


 リリアナは、ここでそうやって暮らしていた。


 その日の朝食のあと、使用人が部屋へ来た。


「本日の午後は、お茶会がございます」


 父でも、継母でもない。いつものように、使用人の口からだった。


 普段なら、リリアナはこういう席に呼ばれない。客人が来る日は、離れの部屋にいるよう言われることの方が多かった。けれど、その日は親戚同士の集まりだった。家の者は、形だけでもそろえておく必要がある。リリアナが呼ばれた理由は、それだけだった。


 出たいかどうかは聞かれない。支度の相談もない。ただ、決まった予定として伝えられる。


 お茶会は、格式ばった席ではなかった。それでも、リリアナの椅子は部屋の端に近い場所に置かれていた。庭がよく見える席でも、大人たちの会話に入りやすい席でもない。そこに座るよう、最初から決められていた場所だった。


 リリアナは、冷めた紅茶を前にして座っていた。カップは置かれてから少し経っているらしく、もう湯気は立っていない。誰かが声をかけてくるわけではない。菓子皿は大人たちの間を回り、他の子どもたちの前にも運ばれていく。リリアナの前だけを、何もなかったように通り過ぎた。


 大人たちの話は、リリアナの頭上を通り過ぎるように続いていた。やがて話題は、王宮のことへ移っていく。


「第一王子殿下、最近はずいぶん健やかだそうですね」

「ええ。狩りにもよく出られているとか」

「もうすぐ十歳のお誕生日でしょう? 本当にご立派だわ」


 リリアナの指が、カップの取っ手に触れたまま止まった。


 健やか。


 その一言が、ゆっくりと染み込んでいく。


 エリオスは生きている。


 神殿で見た頬の色。目が動いて、誰かの声にほんの少し顔を向けていたこと。あれは夢ではなかった。今も、どこかで息をしている。朝になれば目を覚まし、食事をして、誰かと話し、歩いている。


 その当たり前のことが、リリアナには奇跡みたいだった。


 嬉しい。


 ただ、そのことだけでいいと思えるほど、嬉しかった。


 リリアナは、カップの水面へ視線を落とした。誰もリリアナの表情など見ていない。それは分かっている。それでも、この嬉しさだけは、人前に出したくなかった。自分だけが知っている小さな火のように、そっと胸の中にしまっておきたかった。


 大人たちの声が続く。


「次はもう、縁談の話も現実的になる頃でしょう」

「サラ様のお名前も、同い年ということもあって、よく耳にするようになりましたね」


 王家の血を引く、いとこ。王の妹の娘。その名がエリオスと一緒に語られることを、誰も不思議に思っていなかった。


 リリアナは、少しだけまぶたを伏せた。


 やっぱり、そうなのだ。


 驚きはなかった。神殿で見た二人の姿も、ここで交わされる大人たちの言葉も、同じ場所へつながっている。サラには、周囲が当然とうなずく理由があった。血筋も、年齢も、王宮に近い立場も、どれも不足がない。


 そういう未来が、もともと用意されていた。


 リリアナは、それをもう一度教えられただけだった。


 それでも、エリオスが生きていると聞けた喜びは消えなかった。サラの名が出ても。縁談という言葉が出ても。


 エリオスが生きている。


 その事実だけは、リリアナの中で消えずに残っていた。


 そのとき、向かいの席から小さな声がした。


「ねえ」


 リリアナは顔を上げた。


 少し年下の女の子だった。椅子に深く腰かけていて、靴の先が床に届いていない。丸い頬に、砂糖菓子の粉が少しついている。手には半分かじった菓子を持ったままだった。


 その子は、リリアナをじっと見ていた。


「その髪の色、どうして?」


 悪意のある声ではなかった。庭の花や、皿の模様について尋ねるみたいに、目についたものをそのまま口にしただけだった。


「……灰色?」


 子どもは首を傾げる。ふわふわした明るい髪が、肩の上で揺れた。


「ねえ、それって、あんまり良くない色なんでしょ」


 覚えたばかりの言葉を試すような声だった。


 大人たちの会話が、一瞬だけ途切れた。


 誰もその子を叱らない。違うわよ、とも言わない。紅茶のカップが、小さく皿に触れた。


 子どもは、答えを待つようにリリアナを見ていた。その顔は明るく、頬には砂糖菓子の粉がついたままだった。自分が何を言ったのか、少しも分かっていない顔だった。


 リリアナは、すぐには口を開かなかった。どう答えればいいのか分からなかったからではない。この子は、誰かが言ったことを覚えていただけだ。


 灰色はよくない色。不幸を呼ぶ色。そばに置かない方がいい色。


 どこかの部屋で、大人がそう言ったのだろう。その言葉を、この子はそのまま持ってきただけだった。


「……さあ」


 リリアナは、そう答えた。視線を紅茶に戻す。それ以上は何も言わない。


 子どもは「ふうん」と言って、すぐに菓子皿へ目を移した。


「これ、もう一つ食べてもいい?」


 隣の大人が、子どもの皿を少し寄せた。


「ええ、でもこぼさないようにね」


 会話は何事もなかったように動き出す。


「そういえば、王都の仕立て屋が――」

「今年の流行は、淡い色だそうですわね」


 声が重なっていく。


 リリアナの髪の色も。


 子どもの問いも。


 誰も否定しなかったことも。


 全部、その場に置かれたまま、話題だけが別の場所へ流れていった。


 リリアナは、冷めた紅茶を見つめていた。


 健やか。


 エリオスは、健やかに過ごしている。


 その知らせだけを、胸の中でそっと握る。


 ほかの言葉は、冷めた紅茶の底へ沈めた。

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