第2話 白い装束の神殿(2)
式が終わると、神殿の中に声が戻った。
名を授かった子どもたちのもとへ、親たちが駆け寄っていく。
「おめでとう」
「よく頑張ったね」
「立派だったよ」
祝福の声が重なり、抱きしめる腕が増えていく。花を渡された子どもが笑い、母親の胸に顔を埋める。父親に抱き上げられた子どもが、白い袖を揺らしてはしゃいでいた。
リリアナは、その輪の外に立っていた。
自分の前だけ、ぽっかりと空いている。呼ばれる声も、伸びてくる手もない。
少し離れた場所に、一台の馬車が止まっていた。家の紋章も、祝いの飾りもない。ただの移動用の馬車だった。
リリアナは、それを見て、小さく息を吸った。
ああ、そうか。
自分に用意された場所は、親の腕の中ではなく、あの馬車の前なのだ。
従者が扉のそばで待っている。表情は変わらない。
「お乗りください」
短い言葉に、祝福は混じっていなかった。
リリアナはもう一度だけ振り返った。神殿の扉のそばにも、柱の影にも、両親の姿はない。探すだけ無駄なのだと、七歳の身体が先に理解していた。
白い装束の袖を握り、リリアナは馬車へ向かった。
馬車は走り出す。石畳を踏む音だけが、規則正しく続いていく。
窓の外には、まだ祝いの熱が残っていた。花を抱えた子ども。肩を抱かれる背中。名前を呼ばれて笑う声。そのひとつひとつが、窓の向こうを流れていく。
リリアナは膝の上で手を重ねた。
さっき、神殿にはエリオスがいた。頬に色があった。目が動いて、誰かの声にほんの少し顔を向けていた。
生きていた。
それだけで、胸がいっぱいになるほど嬉しかった。
馬車の中は、ひどく静かだった。
自分も、名を授かった。
その名を呼ぶ声は、馬車の中にはなかった。
屋敷に着くころには、神殿の明るさはすっかり遠くなっていた。玄関の中は薄暗い。磨かれた床は冷えていて、花の香りもしない。祝日のための飾りも、灯りも、どこにも見えなかった。
扉が開く。
出迎えたのは、年嵩のメイドだった。メイドは浅く頭を下げる。
「お部屋へ」
それだけだった。
祝いの言葉は出なかった。
廊下を歩くあいだ、足音だけが響く。メイドは少し前を歩いた。振り返らず、歩幅も合わせない。リリアナが遅れても、足をゆるめない。
それが、この屋敷でのリリアナの扱いだった。
廊下の途中で、メイドの視線が一瞬だけ下がった。
リリアナの髪に。
きちんと束ねられた灰色の髪。灯りの少ない廊下では、煤をかぶったようにくすんで見えた。祝福の白い衣の上で、そこだけが重たく沈んでいる。
メイドはすぐに目を逸らした。
何も言わない。
言わないことに、もう慣れていた。
部屋の前で、扉が開けられる。
「本日は、お疲れでしょうから」
丁寧な声だった。メイドの手は取っ手にかかったままで、リリアナには触れない。
ここまで。
それだけを告げる声だった。
リリアナは部屋に入った。背後で扉が閉まる。廊下の足音が遠ざかっていく。
残された部屋は、朝出たときのままだった。
花もない。祝いの品もない。新しいリボンも、菓子も、手紙もない。
机の上には、冷めたスープと、固くなったパンだけが置かれていた。
それが、今日の夕食だった。
名を授かった日の部屋には、祝いの跡がひとつもなかった。
そうだった。
リリアナは思い出した。
自分はここで、こうやって暮らしていた。誰にも迎えられず、誰にも呼ばれず、言われた場所へ行き、言われた部屋に戻る。そういう日々だった。
神殿では、子どもたちが何度も名前を呼ばれていた。親の声で。嬉しそうな声で。抱きしめる腕の中で。
この部屋で、リリアナの名を呼ぶ者はいない。
時が戻る前、エリオスは何度もこの名を呼んでくれた。けれど今、この屋敷でその名はどこにも響かない。
だからリリアナは、自分の名前を胸の中で一度だけ言った。
リリアナ・バルディエ。
今日、神の前で授かった名前。
誰にも呼ばれないまま、この部屋に戻ってきた名前。
それが、この屋敷での自分だった。
夜は、ひっそりとやって来た。
屋敷の中から、人の気配がひとつずつ消えていく。扉の音も、足音も、言葉もなくなる。残るのは、冷えた空気だけだった。
リリアナは椅子には座らず、部屋の隅に腰を下ろした。背を壁に預け、膝を抱える。机の上のスープは冷めたままで、パンもそのままだった。
指先が、床に置いた本に触れる。
擦り切れた背表紙。
この部屋で、自分のものと呼べるものは、それくらいだった。
その本を部屋に置いたのは、いつも無言で食事を運んでくるメイドだった。まだ字を覚えたばかりのころ、机の上に古い本が置かれていた。
灰色の髪と瞳は、不幸を呼ぶ色だと言われている。
リリアナも、幼いころからそう教えられていた。
見る者を不安にさせる色。祝いの席に、あまり出さないほうがいい色。人の幸せのそばに置いてはいけない色。
だから人は、この色を見ると声を落とす。視線をそらす。
リリアナが表紙を開くと、メイドは一枚の挿絵を指さした。
「……この魔女、お嬢様に少し似ていますね」
それだけだった。
からかう声ではなかった。笑う声でもなかった。ただ、絵の中の魔女とリリアナを見比べて、そう言った。
リリアナは、その挿絵を覚えている。
金の髪の王。光に包まれた聖女。二人の指に描かれた、同じ形の指輪。
そして、少し離れた影の中にいる、灰色の髪の魔女。
魔女の髪は、自分とよく似た色をしていた。瞳も、同じ灰色だった。
それからリリアナは、何度もそのページを開いた。自分に似ていると言われた女が、物語の中でどこにいるのかを確かめるために。
王の隣ではない。
聖女の隣でもない。
光の中でもない。
少し離れた、暗い場所。
そこが、灰色の魔女の場所だった。
今日、神殿で見たサラとエリオスの姿は、その挿絵に似ていた。
王と、その隣に立つ清らかな少女。
その光の中に、自分は入らない。
リリアナは本を閉じた。
ぱた、と紙の重なる音が、部屋に落ちる。
私が近づいちゃ、だめ。
そう思った。
エリオスは生きていた。頬に色があって、目が動いて、誰かの声に顔を向けていた。
それだけで、よかった。
だから守らなければならない。
近づかずに。
隣を望まずに。
名前を呼んでもらう未来から離れて。
リリアナは本を胸に抱いたまま、膝に額を寄せた。
夜は、まだ終わらなかった。




