第2話 白い装束の神殿(1)
気づいたとき、視界が低かった。
見上げると、高い天井と白い光があった。神殿だ。
ついさっきまで、黒い喪服を着ていたはずだった。棺の前で指輪を握りしめていた。ほどけないほど強く握った痛みも、エリオスの頬に触れたときの冷たさも、まだ手の中に残っている。
なのに、身にまとっているのは白い装束だった。祝福のための衣。柔らかくて軽く、動くたびにかすかな音を立てる。
リリアナは視線を落とした。自分の身体が、小さい。
腕も、指も、覚えているより短い。白い袖は軽く、床が近い。周りに並ぶ子どもたちも、同じ白い装束をまとっている。その子どもたちと、リリアナはほとんど同じ高さで立っていた。
どうして、と考えかけて、やめた。今は、それどころではない。確かめなければならないものがあった。
リリアナは神殿の奥へ視線を向けた。中央の白い石の床。人の列。低く続く祈りの声。
棺がない。
さっきまで、確かにそこにあった場所だ。花も、布も、蝋燭も、何ひとつ残っていない。ただ白い石の床だけが続いている。
息が詰まった。違う。ここは、エリオスが死んだあとの神殿ではない。
司祭の声が、静かに響いた。
「名を授かりし者は――」
名授けの儀式。
七つの歳を迎えた子どもが、神の前で名を呼ばれる日。その列の中に、リリアナはいた。
戻っている。
心臓が、どくんと鳴った。
まさか。本当に。戻っている。
それなら、まだ。
震える指先が、無意識に左手を探した。
指輪があった。
小さな中指には、少し大きい輪。落ちるほどではないのに、ぴったりでもない。その違和感だけが、妙にはっきりしている。
列がゆっくり動き出した。一人、また一人と前へ進んでいく。白い装束の子どもたちは、王族席の前を通り、祭壇へ向かう。リリアナも、その流れに遅れないよう足を運んだ。
胸の奥で、はっきりしないものが渦を巻いている。
じゃあ。
喉が、ひくりと鳴る。
エリオスは?
リリアナは王族席を探した。
白い衣をまとったエリオスの弟、ノアが見える。王族席の近くに控える大人たちの姿も見える。けれど、エリオスは見つけられなかった。
いなかったら。
願いが、届いていなかったら。
足の裏が、床から離れなくなるような気がした。
列は進む。前の子どもの白い袖が揺れる。司祭の声が遠くなる。
リリアナは息を止めたまま、もう一度、王族席へ目を凝らした。
金色が見えた。
人の列から少し外れた席。白い光の中で、金色の髪が淡く光って見える。
――いた。
いた。
一瞬、息の仕方を忘れた。
生きている。
考えるより先に、胸がきつく締めつけられた。そこにいる。棺の中ではない。白い布をかけられてもいない。
頬には色があった。目が動く。誰かの声に、ほんの少し顔を向ける。
それだけで、胸の内側がいっぱいになる。
嬉しいのに、苦しい。嬉しくて、怖いくらいだった。
喉の奥が熱くなる。声を出したら、きっと崩れてしまう。息をするたび、その熱が胸の奥まで広がっていく。
ああ。
生きている。
心の中で、何度も名前を呼んだ。
エリオス。
エリオス。
エリオス。
声にしたら、叫んでしまいそうだった。駆け寄って、抱きついて、もう二度と離せなくなりそうだった。
リリアナは歯を食いしばった。ここは神殿で、名授けの儀の最中。人の列がある。祈りの声がある。子どもたちは一人ずつ祭壇へ進んでいる。
それでも気持ちだけが先に走っていく。
近づく。あの席に。エリオスがいる場所に。
金色の髪。光の中でやわらかく見える、その色。琥珀色の瞳。まだ幼いのに、まっすぐ背を伸ばして座る姿。
幼くても、確かにエリオスだった。
全部、エリオスだった。
返して、と願った。あの人だけは返してと願った。その人が、いま目の前にいる。
触れて、確かめたかった。温かいのか。ちゃんとここにいるのか。名前を呼んだら、こちらを見てくれるのか。
あの目で私をもう一度見て。
見て。
ここにいる。
言葉にならないものが胸の中からあふれてくる。声に出したわけでもないのに、体中がエリオスへ向かっていた。
列が、少しずつ王族席へ近づいていく。
見て。
リリアナは、声に出せないまま願った。
お願い。
もう一度でいいから。
そのとき、ふと、エリオスの視線がこちらへ触れた。
息が止まる。
見てくれた。
一瞬、本当にそう思った。
その目は澄んでいて、きれいで、まっすぐだった。リリアナが知っているエリオスと同じ、琥珀色をしている。けれど、そこにあの熱はなかった。
リリアナを見つけたとき、いつも少しだけほどける目。名前を呼ぶ前から、もう優しくなっている目。大切でたまらないと、言葉にしなくても伝わってくる目。
あの目ではなかった。
隣にいた少女が、静かに首を傾げた。
「……お知り合い?」
エリオスは、すぐに首を振った。
「いや」
それだけだった。
冷たい声ではなかった。突き放されたわけでもない。ただ、知らないのだ。
そっか。
胸いっぱいにあふれていたものが、すとんと落ちた。
時は、出会う前まで戻ったのだ。
近くにいる。生きている。同じ神殿にいる。それなのに、エリオスの中にリリアナはまだいない。
列は止まらなかった。名前を知られなくても、視線が戻らなくても、リリアナの足は祭壇へ向かって進んでいく。
前へ。ただ、前へ。
それでも、リリアナは最後にもう一度だけ、王族席を見てしまった。さっきの「いや」には、冷たさも、突き放す響きもなかった。だからこそ痛かった。本当に、知らない相手へ向けた返事だったから。
視線が、エリオスのそばへ移る。
艶やかな栗色の髪。背筋の伸びた、きれいな立ち姿。王族席のそばにいても、そこにいるのが当たり前に見える少女。
サラ。
エリオスの従姉妹で、由緒ある血筋の令嬢。世界が戻る前、エリオスの婚約者候補だった人。王子の隣に立つ者として、最初に名が挙がっていた人。
サラには、最初からその場所へ続く道があった。血筋も、立場も、周囲の目も、エリオスのそばへ向いていた。
リリアナは、あとからそこへ入った。エリオスに見つけられて、手を引かれて、ようやく隣に立った。いつの間にか、自分もそこにいていいのだと思うようになっていた。
今、サラがエリオスの隣にいる姿を見ると、それがもとの形だったのだと思えてしまう。
王子と、そのそばに立つ少女。
あまりにも自然で、まるで最初からそう描かれていた絵のようだった。
リリアナは思い出した。自分は、灰色の髪と灰色の瞳をした少女だった。人が目をそらす色。不吉だと、ひそかに囁かれる色。ずっと、そうだった。
エリオスが綺麗だと言ってくれた。そばにいていいのだと、何度も示してくれた。だから、見ないでいられた。
灰色の髪も。灰色の瞳も。それを見る人たちの目も。
もう平気なのだと、思わせてくれていた。
けれど今、サラとエリオスが並ぶ姿を見た瞬間、幼いころに何度も見た童話の挿絵がよみがえる。
金の髪の王。その隣に立つ、清らかな少女。光に包まれた二人。そして、少し離れた影の中に描かれた女。
灰色の髪をした女。
灰色の魔女。
胸が、ぎゅっと縮んだ。
さっきまで、エリオスが生きているだけで胸がいっぱいだった。今すぐ駆け寄って、その頬に触れ、温かいかどうか確かめたかった。あの声で名前を呼んで、あの目で見てほしかった。
それなのに、サラとエリオスが並んでいる姿を見た途端、指先まで満ちていた熱がすっと引いていった。
私は、エリオスの隣にいていい人間じゃない。
近づけば、壊してしまうかもしれない。触れれば、もう一度失ってしまうかもしれない。
棺の中で、もう動かなかった手を思い出す。
握っても、握り返してこなかった。
世界が戻ったのは、奇跡なんかじゃない。ただ、もとの形に戻っただけなのかもしれない。
リリアナは息を吸った。伸ばしてしまいそうになった手を、そっと下ろした。
もう一度、エリオスを見ることはできなかった。
近づいちゃ、だめ。
そう思った瞬間、足が半歩だけ遅れた。前へ進む列の中で、リリアナだけが、ほんの少し後ろへ置いていかれる。
列は止まらない。
何もかも、正しい形に戻っている。そう思い込まなければ、立っていられなかった。
司祭の声が響く。
「名を授かりし者、前へ」
足は動いた。顔も上げられた。
司祭が告げる。
「――リリアナ・バルディエ」
その名を、この世界が受け取る。
エリオスにこの名を呼んでもらう未来から、自分は離れなければならないのかもしれない。時が戻る前の彼は、何度もこの名を呼んでくれていたのに。
リリアナは、唇を結んだ。
祝福の言葉が続く。神の名。国の名。未来を願う、定められた言葉。それらは、遠くで鳴っているみたいだった。
リリアナは視線を落としたまま、一歩前へ出る。
儀式は滞りなく進む。
誰も気づかない。
少女が名を得ると同時に、その名を呼ばれる未来から、そっと離れようとしていたことなど。




