第1話 光が消えた日(3)
神殿は静かだった。祈りの声は続いているはずなのに、リリアナの耳には遠かった。
棺の中で、エリオスは眠っているように見えた。光を受けた金色の髪はやわらかく、伏せられたまつげの影が頬に落ちている。
――起きて。
そう言いかけて、リリアナは唇を閉じた。呼んでも返らないことを、もう知ってしまった。それなのに、まだどこかで、声をかければ目を開けてくれる気がしていた。
リリアナは百合の花を手に取った。白い花弁を、そっと棺の縁に置く。その向こうに、金色の髪がある。動かないまま横たわるエリオスがいる。
「……リリーの花だね」
幼いころに聞いた声が、耳の奥でよみがえった。百合の花を見て、少し照れたように笑った顔。それから自分を見る、あの優しいまなざし。
その声で名前を呼ばれるたび、胸の奥がきゅっと縮んだ。嬉しかった。
忘れた日はない。ひとつも。
リリアナは、エリオスの頬にそっと触れた。
冷たい。
指先が止まった。生きている人の温度では、もうなかった。それでも手を引けなかった。離したら、最後に残っているものまで消えてしまいそうだった。
朝は来る。人は歩く。王国は、次の支度を始める。その中に、エリオスだけがいない。
視線が、手元へ落ちた。
指輪があった。
飾り気のない、小さな輪。幼いころ、エリオスと二人で見つけたもの。落ちないようにと、彼がリリアナの左手の中指にはめてくれた。リリアナも、もうひとつの輪を彼の指にはめた。
今も、そこにある。
リリアナは、すがるようにその指輪に触れた。
王国には、指輪にまつわる古い言い伝えがある。
失った時を戻す、時戻りの指輪。
本当にそんなものがあるのか、リリアナには分からない。分からないのに、その話にすがらずにはいられなかった。
手の中にあるのは、エリオスと自分をまだつないでいるものだった。
リリアナは指輪を握った。手のひらに食い込むほど強く。
返して。
声にはならなかった。
返して。返して。お願いだから、返して。
まだ息をしている彼を。まだ目を開ける彼を。リリーと呼んでくれる彼を。
私の命でもいい。
恋でもいい。
未来でもいい。
全部持っていっていいから。
あの人だけは、返して。
指輪が、手の中で熱を持った。
リリアナは息を止めた。最初は、自分の手が震えているだけだと思った。けれど熱は逃げない。冷えきった神殿の中で、指輪だけが脈を打つように熱くなる。
リリアナは、さらに強く握った。指をほどくことができなかった。エリオスと自分をつないでいるものは、もうこの指輪しか残っていなかった。
光は走らなかった。風も吹かなかった。ただ、祈りの声が遠くなる。石の冷たさが足元から消えていく。香の匂いが薄れていく。
最後に見えたのは、エリオスの顔だった。
目を閉じたままの、もう二度とこちらを見ないはずの顔。
リリアナは、指輪を握ったまま目を閉じた。




