第1話 光が消えた日(2)
世界は、何事もなかったかのように続いていた。
誰かが歩き、誰かが声を交わし、夜は静かに深まっていく。リリアナだけが、動けなかった。エリオスの手を握ったまま。
どれくらいの時間が経ったのかは分からない。長かったのか、ほんの一瞬だったのか。それすら思い出せなかった。
ただ、離れる理由だけが見つからなかった。手を離したら、もう一度だけ握り返してくれるものを、取りこぼしてしまう気がした。
だから、離せなかった。
肩に、そっと手が置かれた。
「……少し、休まれたほうが」
低く抑えた声だった。
リリアナは返事をしなかった。聞こえなかったわけではない。ただ、自分に向けられた言葉だと思えなかった。
少し休む。
何から休めばいいのだろう。どこへ戻ればいいのだろう。休んだあと、何が戻ってくるというのだろう。
肩に置かれた手が、そのまま背に回る。促されるまま、リリアナは立ち上がった。足は動いた。けれど、自分で歩いている感じはしなかった。
振り返らなかった。
振り返れば、そこに何が残っているのかを見てしまう。見てしまえば、何かが決まってしまう気がした。
部屋に戻されても、何が変わったわけでもなかった。椅子に座らされ、上着を外され、水を勧められる。
リリアナは杯を受け取った。けれど、飲まなかった。口をつけることを忘れていた。手の中で水面が小さく揺れているのを、ただ見ていた。
「お休みください」
そう言われた。
誰も、泣けとは言わなかった。誰も、しっかりしろとも言わなかった。
リリアナは、ベッドに腰を下ろしたまま動かなかった。泣く理由が見つからなかった。怒る理由も。嘆く理由も。
喉の奥に、何かが詰まっていた。息はできるのに、声だけが通らない。
どれくらい、そうしていたのか分からない。夜だったのか、朝だったのか。窓の外が明るくなっていたのかどうかも、覚えていない。
気づくと、喪服が運び込まれていた。
王家の格式に合わせて整えられた、婚約者という立場のための黒い装いだった。
黒い布が広げられる。誰かが髪を梳いた。誰かが袖を通させた。誰かが襟元を直した。
リリアナがうなずく前に、次の支度が進んでいく。首を横に振る前に、髪が結われる。自分の体だけが、どこかへ運ばれていくみたいだった。
葬儀の準備だと、説明された気がする。
葬儀。
言われたことは分かった。けれど、その言葉をエリオスに結びつけることができなかった。
神殿に入ったとき、空気が変わった。
香の匂い。
石の冷たさ。
低く響く祈りの声。
そして――棺。
その前に立った瞬間、初めて足が止まった。
そこにいる。
動かないまま、横たえられている。
知っているはずの姿だった。見慣れた輪郭だった。けれど、違った。
さっきまでのエリオスなら、目が合えば少し困ったように眉を下げた。名前を呼べば、こちらを見た。手を伸ばせば、弱くても触れ返してくれた。
棺の中のエリオスは、何もしなかった。
何も返してくれなかった。
ああ。
これは。
これは――もう、眠っている姿じゃない。
歩み寄ろうとして、すぐにはできなかった。触れたら、取り返しがつかない気がした。
名前を呼ぼうとして、息だけが漏れる。
呼ぶ前から、分かってしまった。
応えは、返らない。
ここにあるのは、もう終わったあとの姿なのだと。
リリアナは、棺の前で静かに膝を折った。声は出なかった。涙も、まだ落ちなかった。
目をそらしても、もう消えてくれなかった。
エリオスは眠っているのではない。
待っていても、目を開けない。
名前を呼んでも、こちらを見ない。
失ったのだ。
エリオスを。
もう一度手を伸ばしても、届かない場所へ。
そこで初めて、リリアナはそれを知った。




