第1話 光が消えた日(1)
寝台に横たわるエリオスの呼吸は、もうひどく浅かった。掛布の下でかすかに上下する胸は、目を凝らしていなければ見落としてしまいそうなほど小さい。
リリアナは、その一つ一つを数えていた。息が途切れ、少し待つと、また胸が上がる。それを確かめてから、ようやく自分も息をする。次の呼吸までの間は少しずつ長くなっていた。それでも数えている限りは、まだ続いてくれるような気がした。
握っている手には、まだ温もりがある。まだここにいる。まだ、自分を置いていってはいない。
そう思いたくて指先に力を込めかけたが、強く握ることはできなかった。痛いかもしれない。苦しいかもしれない。少しでも楽にしてあげたいのに、何をすればいいのか分からない。水を飲ませることも、身体を起こしてあげることもできない。今のリリアナにできるのは、そばにいて、この手を握っていることだけだった。
やがて、閉じかけていたエリオスの瞳がわずかに動いた。焦点を探すように揺れた視線が、ゆっくりとリリアナのところで止まる。眉が、ほんの少しだけ下がった。
困ったような、心配するような、昔から変わらない癖だった。死にかけているのは彼の方なのに、それでもその目は、大丈夫か、とリリアナに問いかけているように見えた。
胸の奥が強く締めつけられた。大丈夫だと言ってあげたかった。安心して、と笑ってみせたかった。けれど、できなかった。今ここで大丈夫だと言ったところで、エリオスにはきっと分かってしまう。無理に笑えば、かえって心配させるだけだ。
リリアナは何も言わず、彼の手を包み込んだ。ここにいる。一人ではない。せめて、それだけは伝わってほしかった。
その時、エリオスの指先がかすかに動いた。握り返そうとしたのだと思う。けれど、もう力が足りない。リリアナの指にほんの少し触れ返しただけで、その指から再び力が抜けていく。
たったそれだけのことに、喉の奥が詰まった。まだ届いている。自分がここにいることを、分かってくれている。
エリオスの目元がわずかに緩んだ。安心したようにも見えるその顔を見て、リリアナは泣くことができなくなった。最後くらい、安心していてほしい。涙を見せれば、また自分のことを気にしてしまう。だから唇を噛み、込み上げてくるものを押し戻しながら、手だけは離さなかった。
呼吸が、ひとつ。しばらくして、もうひとつ。その間が、さっきより長い。
リリアナは掛布の上へ目を凝らした。お願いだから、もうひとつ。ほんの少しでいい。もう一度だけ、胸が上がって。
長い間のあと、かすかな呼吸があった。リリアナはそこで初めて、自分も息をした。
けれど、その次が来ない。
待った。さっきも長かった。その前だって、随分待った。だから、今度も同じだ。もう少しすれば、また息をする。そう思いながら、胸の動きだけを見つめ続ける。
けれど、いつまで待っても掛布は動かなかった。握っている指にも、力は戻らない。
リリアナはそれでも待った。あと少しだけ。もう一度息を吸えば、目を開けてくれるかもしれない。また眉を少し下げて、こちらを見るかもしれない。
名前を呼おうとして、唇が開いた。けれど、声にはしなかった。呼んでしまえば、返事を待たなければならない。もし返ってこなかったら。そこから先を考えることができなかった。
寝台の反対側で、医師が動いた。エリオスの手首へ指を当て、続いて胸元へ手を添える。しばらくそのまま確かめたあと、医師はゆっくりと手を離した。
「……殿下は、お亡くなりになりました」
その声は、もうリリアナの耳には届いていなかった。
誰かが扉へ向かい、部屋の中で人が動き始める。廊下にも足音が増えていき、低い声がいくつも行き交う。それまで息を潜めていた王宮が、何かを境に動き出したようだった。
けれど、リリアナは顔を上げない。見ているのは、エリオスの胸だけだった。もう一度、上がるのを待っている。
やがて遠くで鐘が鳴った。一度。少し間を置いて、もう一度。
この国の次の王となるはずだった者の命が尽きたことを告げる鐘だった。それでも、その意味はリリアナの中まで届かなかった。
目の前にはエリオスがいる。手の中には、まだ彼の指がある。温もりだって残っている。つい先ほどまで、その指はほんの少しだけ握り返してくれた。
リリアナは彼の手の甲へ親指を滑らせた。まだ温かいところを探すように、同じ場所を何度もなぞる。
きっと、もう一度呼吸する。もう一度だけ、指が動く。そう思っていれば、まだここにいられる気がした。
だからリリアナは手を離さなかった。もう動かないエリオスの手を握ったまま、次の呼吸が来るのを、ただ待ち続けた。




