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第16話 生徒会(1)

 入学して、まだ日も浅い。


 大講堂は昼前の光で満たされていた。今日は共通講義の日で、民政課程も統治学課程も同じ講義を受ける。


 中央から後ろには学生が集まっているのに、前列には空席が多い。誰もあまり前には座りたがらないらしいが、リリアナは迷わず前の席を選んだ。


 講義は聞き逃さない。


 ――本質に近づけ。分からないところを取りに行け。


 叔父に繰り返し言われてきた言葉だった。他の学生がノートを取る準備をする中、リリアナは先に配られた史料へ目を通していく。


 ほどなくして、一つ後ろの列に誰かが座る気配がした。


 ノアだった。


 最前列ではない。それでも王族が講堂の前方に座るのは少し珍しいらしく、あちこちからちらりと視線が集まっている。本人は気にした様子もなく、すでに史料へ目を落としていた。


 やがて歴史教授が教壇に立つ。


「今日は史料の解釈について話します」


 黒板に書かれたのは、古い王朝史の一節だった。


「この記録は長く、『北方同盟の締結』を記した外交文書と解釈されてきました。しかし、近年は解釈が変わっています」


 ノートを取っていた学生の何人かが顔を上げた。


「この文書は外交ではなく、王位継承争いの停戦協定だったと考えられるようになりました。つまり、かつては『同盟』と読まれていたものが、今では『内戦の一時停止』と解釈されている。では、その根拠はどこにあると思いますか」


 講堂が静まり、学生たちは手元の史料を見返す。リリアナも文章をもう一度追っていると、教授の視線が学生たちの間を巡り、こちらで止まった。


 入学試験の順位は公表されていない。それでも、教員には結果が伝わっているらしい。


「バルディエ」


 名指しされ、リリアナは席を立った。史料の三行目を確かめてから答える。


「三行目の語です。ここは長く『盟約』と訳されてきましたが、原語では『期限付き誓約』を意味します。ですから、恒久的な同盟ではなく、暫定的な停戦と読む方が自然です」


 教授の眉がわずかに上がった。


「ほかには?」


「この語は、王家内部の協定でもよく使われています。外交上の同盟ではなく、王位継承を争っていた者同士が一定期間だけ争いを止めた、と考える方が用例にも合います」


「その通りです。……そこまで読めましたか」


 講堂のあちこちから、小さく息を呑む気配がした。


 講義はそのまま続き、やがて終了の鐘が鳴る。学生たちが席を立ち始める中、リリアナもノートを閉じた。


「リリアナ」


 振り向けば、ノアがいた。


 こうして何の前置きもなく自然に声を掛けてくる距離にいるのは、この学院では彼くらいのものだった。


「さっきの史料。三行目の語までは俺も読んだ。でも、王家内部の協定で使われる語だってところまでは知らなかった」


「史料の用例にありました。以前、似た語を見たことがあったので」


「なるほど」


 それで話が終わるかと思ったが、ノアはふと思い出したように言った。


「君、本当は首席だったんだって?」


 リリアナの手が止まる。


「生徒会顧問から聞いた。公表してないって」


「あまり目立ちたくなかったので」


「もう十分目立ってる」


「そうでしょうか」


「……参ったな。代表挨拶、俺だったのに。実は次点だったのか」


 何と返せばいいのか分からず黙っていると、ノアは少し楽しそうに言った。


「やられたな。……次は負けない」


 その声音に悔しさよりも楽しさが混じっているのが、リリアナにも分かった。


 それからノアは、周囲に聞かせる話でもないと思ったのか、少し声を落とした。


「ところで、研究棟の件」


「はい。早めに見たいです」


「閲覧許可が要る。生徒会経由で申請すれば通るはずだ。今日、顔合わせだろ。そのときに出そう」


「ええ」


「じゃあ放課後、生徒会で」


 ノアは軽く手を上げ、講堂を出ていった。


 リリアナも荷物をまとめて廊下へ出る。昼食の時間が近づき、学生たちは食堂や中庭へ向かって思い思いに散っていた。


「――バルディエ商会のご令嬢」


 柔らかな声に呼び止められた。


 振り向くと、数人の令嬢が立っている。その中心から、赤銅色の髪を美しく整え、隙のない微笑みを浮かべた少女がゆっくり歩み出た。


「わたくし、レイヴンハルト公爵家のイザベラと申します」


 レイヴンハルト公爵家。王家に最も近い名門の一つであり、社交界ではノア殿下の婚約候補としてたびたび名が挙がる家でもある。イザベラ自身も、その位置に立つことを隠そうとはしていなかった。


 リリアナは一歩下がり、礼を返す。


「バルディエ家のリリアナでございます」


「実は少し驚いてしまって。先ほど講堂で、ノア殿下とお話しされていましたわよね。殿下とはお顔見知りでいらっしゃいますの?」


「生徒会でご一緒しております」


「まあ」


 イザベラは微笑みを崩さない。


「わたくし、社交界ではお見かけしたことがなくて。お顔をお出しできないご事情がおありなのではと、皆さま色々とご想像なさっていましたの」


 その言葉に、取り巻きの令嬢たちの間から、くすくすと笑い声が漏れた。


「学院へいらして間もないのに、もう殿下と親しくお話しされるなんて。さすがバルディエ商会のご令嬢ですわ。人とのご縁を結ぶことにも、よく慣れていらっしゃるのね」


 それから、ごく自然に話題を変える。


「それにしても、先ほどの講義。本当に見事でした」


「ありがとうございます」


「てっきり、商会のご令嬢ですから、金勘定のことしかご存知ないのかと思っておりましたの。ですが、あれほどの教養をお持ちだなんて。きっと家庭教師に、大変お金をおかけになったのでしょうね」


 取り巻きの令嬢たちの間から、また小さな笑いが漏れた。


「さすがバルディエ商会。財力は本当に素晴らしいですもの」


 言葉はどこまでも丁寧だった。


 ――金で買った教養。


 そう言いたいのだろう。


 リリアナは言い返さなかった。ただ半歩下がると、かつて王宮で何度も叩き込まれた通りに礼をした。背筋を伸ばし、足の位置を定め、指先まで揃える。角度も、動きも、一つとして崩さない。


 周囲の令嬢たちから、今度は笑いではなく息を呑む音がした。


 イザベラの笑みが、ほんのわずかに固くなる。


「お言葉、ありがとうございます」


 それ以上は言わない。


 一瞬、誰も言葉を継がなかった。


「……またお話できるのを楽しみにしておりますわ」


 リリアナはもう一度だけ礼をして、その場を離れた。廊下を曲がるまで、背筋を崩すことはなかった。


 イザベラは笑みを浮かべたまま、その後ろ姿を見送った。


 ――気に入らない。


 とても。

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