第15話 再会(2)
入学式を終えた夜、王宮の自室で書類に目を通していたエリオスは、扉を叩く軽い音に顔を上げた。
「入っていい?」
「いいよ」
扉を開けて入ってきたノアは、すでに式の正装を脱ぎ、普段着へ着替えていた。つい先ほどまで新入生代表として壇上に立っていたとは思えない、いつもの弟の姿だった。
「進学おめでとう」
「見てただろ」
「一応な」
「一応か」
「王太子は忙しいんだ」
エリオスが笑うと、ノアは呆れたように肩をすくめた。
「話がある」
声が改まったのを聞き、エリオスはペンを置いた。
「聞こう」
「俺、生徒会に入ることにした」
「……今さら?」
「今さら」
「いいんじゃないか。お前には向いてる」
ノアはそれには答えず、続けた。
「あと、一人推薦したい」
「誰を?」
「読書仲間」
「ああ。前に言っていた」
弟が自分から誰かとのつながりを口にすること自体が珍しい。エリオスはあらためてノアの顔を見た。
「どんな人だ?」
「頭がいい」
「それだけ?」
「それだけ」
ノアがわずかに視線を逸らした。
エリオスはそこで、ようやく腑に落ちたように口元を上げる。
「……女性?」
ノアは答えない。
それを見て、エリオスの笑みが少し深くなった。
「なるほど」
「何が」
「いや。珍しいなと思って」
少し面白がるように笑ってから、エリオスは続けた。
「どこの令嬢?」
「バルディエ家」
さっきまでのからかう調子が、一瞬だけ止まった。
「ああ、バルディエか」
王都の流通に大きな影響力を持つ商会を抱える侯爵家だ。ここ数年、その力はさらに増している。
跡取りのレオンとは、以前学院で同じ時期を過ごしていた。人当たりがよく、誰とでもすぐに打ち解ける。気づけば相手の懐に入り込み、いつの間にか頼み事まで通しているような男だった。
その妹か。
エリオスの中で、先ほどとは別の意味で興味が湧いた。
「たぶらかされてないだろうな?」
「誰が」
「一応、兄として確認しておこうと思って」
ノアは鼻で笑った。
口調は軽かったが、エリオスの頭ではすでに家名や立場が整理されていた。大きな商会を持つ侯爵家の令嬢を、ノアが生徒会へ推薦する。その意味を考えないわけにはいかない。
「顧問にも伝えておいてくれ」
「分かった」
話を終えたノアが扉へ向かい、開きかけたところで振り返った。
「……いいと思うよ」
普段よりもわずかに温度のある声だった。
エリオスは小さく頷いた。
「そうか」
ノアが出ていったあと、エリオスは書類へ目を戻した。しかし、すぐにはペンを取らなかった。
「バルディエ、か」
ノアが誰かを推薦したことが、兄として少し嬉しかった。同時に、どのような人物なのかという興味も残った。
◇
入学式から数日後、学院の回廊を歩いていたリリアナは、背後から名前を呼ばれた。
「リリアナ」
振り向くと、ノアが近づいてくるところだった。
「ノア殿下」
「生徒会に入ることにした」
以前聞いていた話を、あらためて告げる。
「生徒会役員なら、研究棟の資料整理や調査の補助に入る機会がある。許可の必要な記録にも手が届く」
「あれから、王宮の資料も調べてくださったのですか」
「ああ。もう一度確かめたが、手がかりはなかった。残っているとすれば、学院の研究棟だ」
二人が探している記録へ近づくには、生徒会に入るのが最も確実だった。
しばらく歩いたあと、ノアが何でもないことのように言う。
「兄上に、君を推薦しておいた」
リリアナの足が止まりかけた。
「……勝手ですね」
「嫌なら断れる」
理由を問いただすことも、受けるよう説得することもなかった。選ぶのはリリアナだと分かっているのだろう。
王立図書館には残っていなかった記録。許可がなければ入れない研究棟。その先にあるかもしれない、王太子の死の原因。
学院へ進むと決めた時点で、いずれ踏み込まなければならないことは分かっていた。
それでも、生徒会はあまりにもエリオスに近い。
前の世界に置いてきたはずの、彼の隣へ立つ未来。入学式で顔を見て、声を聞いた瞬間、一度だけその未来を願ってしまった。すぐに胸の奥へ押し戻したものの、生徒会へ入れば、今度は日々同じ部屋で過ごすことになるかもしれない。
この距離で、揺れずにいられるのだろうか。
「……顧問の先生からも、声をかけられています」
「うん」
「迷っていました」
ノアは急かさず、リリアナが続きを口にするのを待った。
「入った方がいいことは、分かっています」
「必要になる」
命令でも励ましでもなく、事実を告げる声だった。
調べるために。原因を突き止め、今度こそエリオスを守るために、近づくと決めたのは自分だ。
リリアナは顔を上げた。
「……分かりました。面接を受けます」
「ああ」
二人は再び歩き始めた。並んでいるわけではないのに、石床へ落ちる足音は、いつしか同じ間隔になっていた。
◇
面接の日、放課後の生徒会室では、開始前の準備が進められていた。
一般の希望者は、成績と提出書類による選考を通過した者だけが面接を受ける。顧問推薦の特別枠は、書面選考を経ず、本人との面談によって採否を決めることになっていた。
机の上には、候補者の名簿と書類が順番に並べられている。
「今年の希望者は二十五名でした。例年より多いですね」
顧問の言葉を聞きながら、エリオスは名簿をめくった。
「書面を通過したのは?」
「十二名です」
家名、成績、所属課程、志望理由。すでに一度読んだ内容だったが、面接を前にもう一度確認しておく。
ここ数日は王太子としての公務と生徒会の仕事が重なり、睡眠も十分には取れていなかった。エリオスは目頭を押さえ、息を吐いてから次の書類へ手を伸ばした。
「もう一名、私から推薦したい学生がいます」
顧問の声に顔を上げる。
「民政課程の学生でしたね」
「ええ。バルディエ侯爵家の令嬢です」
聞き覚えのある家名に、エリオスの指が止まった。
「バルディエ……」
入学式の夜、ノアが口にした読書仲間も、同じ家の令嬢だった。
「入学試験の総合成績は、全課程を通して首席です。ただし、本人が順位の公表を辞退しました」
「首席を?」
「本人の希望です」
学院で立場を得るために、優れた成績を利用する者は多い。自ら手放す学生は珍しかった。
「記述試験の回答も確認しました。設問は、王都に物資が集中し、地方の交易が停滞している状況をどう改善するか、というものでした」
多くの受験者は、税率の変更や補助金について書いたという。
「彼女は、王都へ集中している人と物の動きそのものを変える案を出しています。地方に中継地と保管拠点を段階的に整備し、商人が王都を経由せずに取引できる仕組みまで書いていました」
「民政課程を選んだ理由は、それか」
「おそらく。王都の学者から個別に学んでいた記録もあります。実務に近い教育を受けていたようです」
エリオスが書類へ目を戻すと、顧問が続けた。
「ノア殿下からも、同じ人物を推薦されています」
「……聞いている」
「本人はぎりぎりまで迷っていたようですが、今朝、面接を受けると申し出ました」
「推薦書は?」
「最終確認をしています。面接が始まるまでにはお持ちします」
エリオスは候補者の名簿を閉じた。
「最後の枠に入れてください」
「承知しました」
まだ本人の名前も、詳しい書面も手元にはない。それでも、輪郭は見え始めていた。
王都の流通に大きな影響を持つバルディエ商会。その基盤となる侯爵家は、祖父の代まで王宮の中枢にも深く関わっていた。そこに、人と物の動きを読む才覚を持つ娘がいる。
首席になる成績を持ちながら、それを表へ出そうとしない。
目立ちたくないだけなのか、それとも別の理由があるのか。紙の上に書かれた情報だけでは判断できなかった。
今日の最後に、本人を見ればいい。




