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呼ばれない名前

 その日、商会の帳場はいつもより慌ただしかった。人の足取りも、交わされる声も、どこか落ち着かない。机の上には納品書の束が積まれ、布や装飾品、香料、花の手配をめぐって、何人もの使用人が行き来していた。


「神殿行きは先に分けておけ」

「室内装花の分、足りるか?」

「百合の追加が入ったぞ」


 リリアナは手近な納品書を引き寄せた。


 王家御婚約式 納品書。


 分かっていたはずの言葉が、紙の上に記された途端、胸の奥へ重く沈んだ。


 頁をめくる。神殿用、室内装花、祝賀列席分、予備。どの欄にも百合と書かれている。十、二十、三十。追記された数量の横に、さらに追加の文字が重なっていた。


 婚約を祝う神殿を、白い百合が埋め尽くす。


 その光景を思い浮かべた瞬間、別の神殿が記憶の中に浮かんだ。


 あの日も、神殿には、リリアナとエリオスの婚約式を祝う白い百合が飾られていた。


『幸せにするから』


 エリオスは一度も目を逸らさず、そう言った。


 リリアナの指が、納品書の文字の上で止まる。無意識になぞった先で、書き足されたばかりの墨がかすかに滲んだ。


「……もういい。帰れ」


 背後から叔父の声がした。


 振り向くと、叔父は帳場の奥からこちらを見ていた。


「ですが、まだ仕事が」


「今の顔で帳場に立つな」


 叱る声ではなかった。慰めようとする様子もない。見えているものを、そのまま口にしただけだった。


「……はい」


 リリアナは納品書を元の場所へ戻し、帳場を出た。


 外にはまだ高い陽が残っていた。神殿へ送られる荷が、馬車へ次々と積み込まれている。布を包んだ長箱、装飾具の入った木箱、その隣には白い布で覆われた花籠が並んでいた。


 包みの隙間から、白い花弁がのぞいている。


 百合だった。


 屋敷へ戻る馬車が待っていたが、今は乗る気になれなかった。リリアナは御者に先に帰るよう告げ、一人で歩き始めた。


 百合を見ないように通り過ぎても、胸に沈んだものは消えなかった。屋敷まで歩いて帰るつもりだったのに、気づけばいつもの道を外れていた。


 草と湿った土の匂いがする。風の通る野原には、小ぶりな白い百合が点々と咲いていた。


 婚約を祝うために飾られた花ではない。誰かに選ばれたわけでもなく、ここで季節を迎え、咲いているだけの花だった。


 ここは、時を戻ったばかりの頃、声を抑えることもできずに泣いた場所だった。


 リリアナは一輪のそばへ膝をつき、そっと花弁に触れた。陽の下に咲いているのに、指先にはひんやりとして、やわらかかった。


『じゃあさ、これはリリーの花だよ』


 幼いエリオスが白い花を指し、笑っていた。


『ちゃんと、呼ぶ』


 誰も呼んでくれなかった名を、彼だけが何度も呼んだ。


『百合の花を見たら、リリーを思い出すね』


 振り返った目には光が満ちていて、まっすぐにリリアナだけを見ていた。


 風に吹かれ、目の前の百合が揺れる。


 あの頃と同じ白い花だった。


 けれど、そばにいるはずの人だけがいない。あの声で名前を呼ばれることも、もうない。


 指先が震え、花弁の上に涙が落ちた。白が濡れて、わずかに色を深くする。次の雫も、その次も、同じ場所へ落ちていった。


 分かっている。


 エリオスは何も裏切っていない。覚えていない約束を、守れるはずもない。


 それでも、リリアナの唇からこぼれたのは、幼い子どものような言葉だった。


「……嘘つき」

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