呼べない名前
夜、エリオスが自室へ戻ると、静けさだけが先に待っていた。
婚約式は、滞りなく終わった。
神殿で定められた誓いを述べ、祭壇の前でサラと一つの盃を交わした。彼女が口をつけた盃を受け取り、同じ酒を飲む。神官が二人の婚約成立を告げると、列席者たちは揃って祝福の言葉を捧げた。
指輪も、宝飾品の交換もない。交わした盃と、形式に則った言葉によって、王太子とアルヴェイン公爵令嬢が正式に婚約したことを国の内外へ示すための儀式だった。
結婚ではない。それでも、同じ盃に唇を触れた今日から、二人の名は将来の夫婦として並べて語られる。
政治として、必要な婚約だった。
アルヴェイン公爵家が進める鉄路計画は、国の行く末にも関わる大事業である。本格的に動き出す前に、王家が後ろ盾となることを公に示さなければならなかった。本来なら学院を卒業してからでもよかった婚約が、在学中に早められたのもそのためだ。
国の先を考えれば、遅らせる理由はなかった。
サラも事情を理解し、王太子の隣に立つ者として求められる責任を、迷いなく引き受けている。二人の間にあるのは、互いの立場を踏まえた合意であって、恋情ではない。エリオスもまた、国のために受け入れた。
それでいい。
そういうものだと、思っていた。
外套を脱いで机の脇へ置いたとき、窓辺の花瓶が目に入った。婚約式に使われた装花の残りを、侍女が運び込んだのだろう。白い百合が数本、月明かりの中に浮かんでいた。
胸の奥が、不意に締めつけられた。
理由は分からない。目を逸らそうとしても、白い花弁から離せなかった。
月明かりが花弁の縁をなぞり、その奥に淡い影を落としている。見つめているうちに、今夜とは別の夜が、記憶の底から浮かび上がった。
七年前。
祝祭の灯りに照らされた石畳。行き交う人々の声。こちらへ振り下ろされる刃。
その軌道へ、小さな身体が飛び込んできた。
強く突き飛ばされ、エリオスは石畳へ倒れた。代わりに刃を受けたその人が、目の前で崩れ落ちる。
『……よかっ、た』
息とともにこぼれた、かすかな声。
顔は思い出せない。名前も知らない。男だったのか女だったのかさえ、今となっては分からなかった。
それでも、最後にこちらを見ていた淡い瞳だけは、七年が過ぎた今も消えずに残っている。
あのあと、エリオスはその人を探した。
祝祭の通りや路地を調べ、診療所や商家を訪ね、兵士にも町の者にも話を聞いた。王太子自らが行う捜索としては異例なほど長く続けたが、手がかりは何一つ見つからなかった。
治療を受けた記録もない。誰かに運び込まれたという話もない。あれほど深い傷を負った者が、その夜のうちに街から消えてしまったかのようだった。
やがて、これ以上続ければ余計な憶測と混乱を招くとして、捜索は打ち切られた。
忘れていたわけではない。
見つけられなかったことを、考えないようにしてきただけだった。
なぜ自分を庇ったのかも分からない。礼を伝えることも、無事を確かめることもできなかった。その人が今もどこかで生きているのか、それともあの夜に命を落としたのかさえ、知らないままだ。
白い百合を見つめていると、胸の底へ沈めていたものが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
祝祭の灯り。石畳。淡い瞳。かすれた声。
途切れた記憶が、花弁の白に重なっては消えていく。
そのとき、ふいに名前を呼びたいと思った。
なぜそう思ったのかは分からない。
誰を呼ぼうとしているのかも、分からなかった。
それでも、今すぐ呼ばなければならないような焦りが胸の奥から込み上げ、喉元まで音を押し上げてくる。
「――」
けれど、その先が続かなかった。
唇は何かを探すようにわずかに動いた。あと一音あれば届くような気がするのに、その一音がどうしても見つからない。
呼ぶべき相手も、呼ぶべき名も知らない。それなのに、忘れてはいけない名前があったような気がした。
声にならない呼びかけが胸の内側を巡り、行き場を失って消えていく。
あとに残ったのは、誰かの名前を呼びたかったという、理由の分からない衝動だけだった。




