第13話 協働(3)エリオス ノア
その夜、王宮の明かりがほとんど落ちたあとも、ノアの部屋には灯りが残っていた。
机の上には、王立図書館から借りてきた『王と聖女と、時の指輪』が開かれている。その横には数枚の控えがあり、歴代の王太子の名、王太子に定められた年、即位前に記録が途切れた年代、その後に誰が王位を継いだのかが書き込まれていた。
ノアは童話の頁をめくった。
若い王と、幼い頃からその隣に立っていた聖女。二人は互いに想い合っていたが、やがて灰色の魔女が聖女の場所を奪い、手に入らない王の心を求めて彼を呪い殺す。
聖女は時を戻す指輪を使い、王が名を授けられたばかりの頃まで時を巻き戻した。生き返った王と力を合わせて魔女を倒し、その後も二人で国を治め続ける。
王のそばに立つのは、選ばれた者だけ。
その場所を奪おうとする者は、必ず国を滅ぼす。
子どもの頃に読んだときは、王を救った聖女と、退治された魔女の話だとしか思わなかった。
扉が叩かれた。
「ノア、いるか」
エリオスの声だった。
ノアの手が止まる。机の端に広げていた控えを重ね、引き出しへしまった。
「ああ」
扉が開く。
ノアは本から顔を上げた。エリオスは寝る前らしく、昼間よりも簡素な衣服を着ている。
「まだ起きてたか」
部屋へ入ると、積み上がった本や机の上の資料を見回した。
「最近、図書館によく顔を出してるらしいな。中等部の授業もあるんだろ。平日だけじゃなく、休みの日まで図書館か」
ノアは椅子の背に体を預けた。
「必修課程は修了してる。卒業認定も出てる。残りの出席は任意だ」
「……相変わらずだな」
エリオスはそれ以上、授業については触れなかった。
「何を調べてる」
「歴史の記録を少し」
王太子の名のまま途切れている記録と、その後、弟や王弟へ移った王位。似た例はいくつか見つかったが、なぜそうなったのかは、まだ分かっていない。
兄は、自分に関わる問題だと知れば、周囲に負担をかけまいとして一人で抱え込む。今の段階で不確かな話を伝えても、余計な心配を増やすだけだった。
「そうか」
エリオスは問いを重ねなかった。
「無理してないか」
「問題ない」
しばらくノアの顔を見ていたが、やがて短く頷いた。言うつもりがないなら、今は聞かないつもりなのだろう。
ノアは話題を変えた。
「……そういえば、婚約式はもうすぐだったか」
「ああ。形式だけのものだ」
エリオスは近くの椅子へ腰を下ろした。
「サラの家が進めている国家規模の事業が本格的に動く前に、王家の後ろ盾を示しておきたいらしい。卒業後は互いに公務が増えるから、在学中に済ませる方が都合もいい、という話だ」
自分の婚約について語っているのに、声には期待も不満もなかった。すでに決められた予定を確認しているようだった。
「来年は俺が生徒会長だ。忙しくなる」
エリオスは続ける。
「高等部に進学したら、お前も生徒会に入るんだろ。少しは手伝え」
「状況次第だな」
「そう言うと思った」
エリオスの目が、机の上に開かれた童話へ移った。
「……それは?」
手に取って表紙を確かめる。
「『王と聖女と、時の指輪』か。子どもの頃に一度は読む話だな」
何頁かめくり、王と聖女、その間に指輪が描かれた挿絵で手を止めた。
「どうした、これ」
「目について、借りてきただけだ」
「童話を?」
エリオスが顔を上げる。
「お前が?」
ノアは答えを探し、図書館の棚の前に立っていたリリアナを思い出した。
「……読書仲間ができた」
エリオスの手が止まる。
「……仲間?」
「そいつが見てた」
名前は出さなかった。童話の前で何を尋ねられたのかも話さない。
エリオスはノアを見たあと、表情を和らげた。
「お前に仲間、か。珍しいな」
「調べている分野が重なっただけだ」
「それでも、お前が仲間と呼ぶなら、気が合うんだろう」
誰なのかまでは尋ねなかった。
エリオスは再び本へ目を落とした。
「この話、子どもの頃は、聖女が王を救う話だとしか思わなかったな」
「今は違うのか」
「いや。内容をほとんど覚えていないだけだ」
開いていた頁をもう一度眺める。
「悪い魔女がいて、聖女が勝つ。子ども向けなら、それくらい分かりやすい方がいいんだろう」
ノアは答えなかった。
一緒にいるだけで、不幸を呼ぶ人がいると思いますか。
リリアナの問いが、まだ耳に残っている。
彼女は自分を、童話に描かれた灰色の魔女と重ねているように見えた。灰色の髪を理由に何を言われてきたのか、ノアは詳しく知らない。それでも、自分が誰かの不幸を招くのではないかと疑うほど、その考えを長く植えつけられてきたのだろう。
エリオスは童話を机へ戻し、立ち上がった。
「遅くなるなよ」
「ああ」
扉へ向かいかけたエリオスは、机の上の童話へもう一度目を向けた。
開かれた頁には、王と聖女、その間をつなぐ時の指輪が描かれている。
それを見たまま、エリオスは右手を左の中指へ伸ばした。そこにはめられた指輪を、親指でなぞる。
けれど、自分が何をしているのか意識していないらしい。すぐに手を下ろすと、何も言わずに部屋を出ていった。
扉が閉まったあと、ノアはしばらく机の上の童話を見ていた。
やがて引き出しを開け、先ほどしまった控えを取り出す。
そこに記されているのは、王太子に定められた者の名と、その記録が即位前に途切れている年代だけだった。
ノアは控えを机へ戻し、もう一度、最初の行から読み直した。
その傍らでは、『王と聖女と、時の指輪』が、王と聖女の間に指輪が描かれた頁を開いたまま置かれていた。




