第13話 協働(1)
ふた月ほど図書館で顔を合わせるうちに、ノアは書架の奥に灰色の髪があるかどうかを確かめるようになっていた。
ところが、ここ数日はリリアナの姿を見かけない。
互いに来る日を決めているわけではなく、何日か会わないことはこれまでにもあった。それなのに、王国史の棚にも、いつも使う机にも彼女がいないと、文字を読んでいても集中が途切れる。
ノアは年代記を閉じ、机に重ねてあった別の巻を引き寄せた。
調べているのは、アストレア王家の歴史だった。歴代の王がいつ即位し、誰を王太子に定め、どのように次代へ王位を渡したのか。建国から六百年に及ぶ記録には、王家の歴史として必要な事柄が年代順に並んでいる。
その中で、何度か手が止まる箇所があった。
幼い頃から王太子として記されていた人物の名が、父王から王位を継ぐ前に消えている。次の王として現れるのは、その弟や王弟だった。
病により亡くなった者、不慮の事故に遭った者、療養を理由に継承権から退いた者。理由は書かれており、ひとつずつ見れば、王家の長い歴史の中で起こり得ることだった。
しかし、王太子が代わった経緯だけは、どの記録も妙に短い。病名も治療の経過もなく、事故が起きた場所や同行者の名も残されていない。次の継承者が定まると、記述はそのまま新たな治世へ移っていく。
書き手も、編まれた年代も違う。それなのに、王位を継ぐはずだった人物が消えた箇所だけは、揃って説明が薄かった。
何かが伏せられていると決めるには、まだ材料が足りない。一般の歴史書に載せる必要がないと判断されただけかもしれなかった。確かめるには、編纂前の記録や、同じ時代に書かれた別の資料を調べる必要がある。
ノアは本を棚へ戻し、一般書架のさらに奥へ向かった。
厚い扉の脇には、《特別資料閲覧室》と記されている。王家に関わる古い史料、研究者が残した草稿、正式な書物にまとめられる前の写本などが保管され、閲覧するには身分や研究目的の確認が必要だった。
受付で名を告げると、係員はすぐに扉を開けた。
中へ入ると、一般区画よりも古い紙の匂いが濃くなった。窓は小さく、壁際には天井近くまで書架が並んでいる。閲覧机の間隔も広く、利用者は二人しかいなかった。
その奥に、見慣れた灰色の髪があった。
――ここにいたのか。
姿を見つけた途端、ここ数日、王国史の棚へ何度も目を向けていた理由が分かった。自分は、思っていた以上にリリアナを探していたらしい。
リリアナは書架の前に立ち、開いた資料を読んでいた。一般書架で姿を見なかったのは、こちらへ通っていたからなのだろう。
彼女の手元にあるのは、王家の代替わりをまとめた記録だった。隣の棚には王族の病歴や宮廷内の事故報告、その時代の護衛名簿が並んでいる。
ノアが近づくと、気配に気づいたリリアナが振り返った。目を見開き、本を閉じて礼を取ろうとする。
「そのままでいい」
リリアナの手が止まった。
ノアは、彼女が開いていた頁を見た。王太子の任命と、別の王族へ継承権が移された年が記されている。
「何を調べている」
普段、図書館で話すときよりも声が硬くなった。王家の内情に関わる資料を読んでいる以上、理由を確かめなければならない。
リリアナは本に手を添えたまま、答えを急がなかった。
ノアに曖昧な言葉は通じない。下手にごまかせば、かえって疑われるだけだろう。
「王位が継がれる前後の記録です」
「なぜだ」
「年代記を読み比べると、話がつながらない箇所がありました。王太子が代わった理由だけが、ほかの出来事より短く書かれています」
リリアナは別の資料を開き、ノアの方へ向けた。
「こちらには、この王太子が病で亡くなったとあります。けれど、同じ年の宮廷医の記録には、病名も治療の経過も残っていません。事故死とされた例も、事故報告そのものが見つからないものがあります」
「元になった記録を探していたのか」
「はい」
ノアが感じていた違和感と同じだった。
彼は近くの棚から年代記を一冊抜き、索引から該当する王太子の名を探して頁を開いた。
「俺は、王太子の名が消えたあとの継承を調べていた。この人物が亡くなったあとも父王の在位は続き、十五年後に第二王子が即位している」
リリアナは年号を確かめ、自分が開いていた資料へ戻った。
「同じ時代です。王太子が亡くなる三日前、側近が二人交代しています」
「理由は?」
「記されていません」
二人は閲覧机へ移った。ノアが継承記録から時期を絞り、リリアナが同じ頃の病歴や事故報告を探す。片方の資料だけでは分からなかったことが、照らし合わせることで次々に見つかった。
王太子が病に伏したとされる月には、王宮へ運び込まれた薬草が増えている。事故死の直後には厩務方の馬が一頭処分されているのに、事故についての報告書は残っていない。主となる年代記には書かれていない人や物の動きが、別の記録には残されていた。
二人が資料へ戻ると、作業は自然に分かれた。ノアが年代や記述の食い違いを見つけ、リリアナがその時期の病歴、事故、人員の交代を調べる。一人で何冊もの本を往復するより、照合ははるかに早く進んだ。
窓から入る光が傾く頃、机には十冊を超える資料が開かれていた。
ノアは集めた年号を見直した。
「一人で調べるには、量が多い」
リリアナが顔を上げる。
「この先も共同で進めないか」
彼女はすぐには返事をしなかった。
ノアと王家の記録を追い続ければ、調査はいずれ現在の王太子であるエリオスへ及ぶ。そうなれば、彼と無関係のままではいられない。
そばへ近づかないと決めたはずだった。それでも、エリオスを救うための手がかりを、ここで手放すことはできなかった。
「……お願いします」
「では、俺は継承記録を追う。バルディエ嬢は、同じ時期の病歴と事故を調べてくれ」
ノアは継承に関する資料を自分の側へ寄せ、病歴と事故報告をリリアナの前に置いた。
その日から、二人は特別資料閲覧室で同じ机を使うようになった。
会う日時を決めてはいない。それでも、授業や公務のない日にノアが扉を開けると、リリアナが先に資料を広げていることがあり、彼女が遅れて来れば、ノアの斜め向かいへ座った。
二人が調べたのは、王宮で作られた年代記だけではない。王族の病歴、護衛の交代名簿、葬送の布告、地方官から王宮へ提出された報告の控えまで範囲を広げた。推測と確認できた事実を混ぜないよう、出典と頁を必ず書き添えることも決めた。
最初のうち、ノアは彼女を「バルディエ嬢」と呼んでいた。
それが何度も資料を受け渡し、同じ頁を覗き込むうちに、いつからか「リリアナ」へ変わっていた。どちらも、その日を覚えていない。
ある日、ノアは編年史の途中で文章の調子が変わっていることに気づいた。
「リリアナ、ここを見てくれ」
前半には、誰がどこへ向かい、何が王宮へ報告されたのかが日付順に書かれている。ところが、途中からは結果だけが短くまとめられていた。
「王太子が病に伏してから亡くなるまでが、一つの段落になっていますね」
「使われている言葉も違う。後から書き直されている」
「元の記述が残っていないか、探してみます」
王宮の編年史を編む際、参考資料として各地から集められた記録の写しも、この閲覧室に保管されていた。
二人が同じ時代の地方編年史を調べると、王太子が亡くなる前に、宮廷内で複数の事故が起きていたことが記されていた。王宮の編年史では、その部分がまとめて抜け落ちている。
こうした照合を重ねるうち、二人は半日近く閲覧室で過ごすことも増えた。
調査の合間には、最近読んだ物語について話すこともあった。二人とも、小説を読むのは勉強や調べ物の息抜きだったが、選ぶ作品の好みはよく重なった。
その日、リリアナが読み終えた頁に紙片を挟んだ。向かいでは、ノアも書き留めた年号を確認し、ペンを置く。二人とも、ちょうど区切りのよいところまで来たらしい。
ノアが椅子の背へ体を預けた。
「……『夜鐘館の記録』、続きは読んだ?」
最近、続巻が出た推理小説だった。
「……まだです」
「まだ?」
「注文はしました。届くのを待っています」
「犯人は――」
「言わないでください」
リリアナがすぐに遮ると、ノアは口元を緩めた。
「前巻で推理は済んでいるだろう」
「候補はいます」
「教えようか?」
リリアナは首を横に振った。
「まだ、知りたくありません」
「そう?」
「はい」
「外れているかもしれないぞ」
「それでも、自分で読みます」
「分かった。届くまでは黙っておく」
「お願いします」
前の世界でも、二人はよく同じ本を読み、読み終えたあとに感想を語り合った。ノアはその時間を覚えていない。それでも、結末を先に教えようとするところも、リリアナの予想を聞きたがるところも、あの頃と変わらなかった。
懐かしいやり取りに、リリアナは久しぶりに肩の力を抜いた。
調査中は、エリオスを救う手がかりを見落とさないよう、年号も記述も一つずつ確かめている。ノアと物語について話す数分だけは、前の世界で二人並んで本を読んだ頃を思い出し、素直に息をつくことができた。
リリアナが再び資料を開くと、ノアも椅子へ座り直した。
共に調べる時間が増えるにつれ、作業に必要な言葉も短くなっていた。
「第十五代の三年目。王太子が倒れた月だ」
ノアが告げると、リリアナは該当する年の地方編年史を開いた。王宮の記録と日付を照らし合わせ、指で二つの行を押さえる。
「王宮の記録では十日ですが、こちらでは二十一日になっています。十一日ずれています」
「元の布告を探そう」
「葬送の記録も確認します」
調査は進んだが、王太子が亡くなった理由を示す決定的な記録は見つからない。病死とされながら病名のない例も、事故死と書かれているのに事故報告が存在しない例もあった。
リリアナは机いっぱいに並んだ資料を見渡し、置き方を変えた。
「王になったあとの記録を外してみます」
これまでは国王ごとに、即位から死去までを一つのまとまりとしていた。そこから、王太子に任命されてから即位するまでの部分だけを抜き出し、年代順に並べ直す。
即位した者の記録は、父王の死去まで続いている。ところが、途中で別の王族へ継承が移った例では、王太子の名が即位前に途切れていた。
「この人もです」
リリアナが示した頁を確かめ、ノアも別の資料を机の中央へ置いた。
「こちらも、王太子のまま終わっている」
ばらばらだった記録に、同じ終わり方がいくつも並び始めていた。




