第12話 懐かしい人(2)ノア
その日、ノアが王立図書館を訪れたのは、アストレア王国の歴史を調べるためだった。
建国から六百年。
小さな領地が並び立っていた土地を初代王が統一して以来、王家の血統は一度も途絶えていない。内乱や継承争いはあったが、王統そのものは守られてきた。
歴史書には、歴代の王が何年国を治め、誰に王位を継いだのかが順に記されていた。
誰が王太子に立てられ、どの家から妃を迎え、次の王がいつ即位したのか。王家の歴史として必要な事柄は、過不足なく並んでいる。
それでも、読み進めるうちに、ノアは何度か指を止めた。
ある頁では、幼い頃から王太子として記されていた名が、代替わりを迎える前に消えている。次の頁で王位に就いているのは、弟や、別の王族だった。
理由は記されていた。
病死。不慮の事故。療養のため継承権を離れる。
どれも、王家の長い歴史の中では起こり得ることだった。ひとつずつ読めば、不自然とは言い切れない。
だが、王太子が代わった経緯については、どの記録も妙に短い。病名も、事故の詳しい様子も、その前後に何があったのかも残されていなかった。
次の王が即位すると、記述は何事もなかったように新しい治世へ移っていく。
何かが欠けていると断言できるほどではない。
それでも、王位が継がれる直前の出来事だけが、意図して薄く書かれているような気がした。
ノアは何度か同じ頁を読み返したあと、本を閉じた。
少し目を休めるために別の書架へ向かい、そこで灰色の髪を見つけた。
少女は棚の奥に立ち、一冊の本を手にしていた。
『境界を渡る旅人』
ノアが何度も読み返している本だった。
有名な物語ではない。文章も読みやすいとは言えず、誰かに薦めたこともなかった。
それを、見知らぬ少女が持っている。
ノアが思わず声をかけると、少女はわずかに驚き、すぐに礼を取った。
「リリアナ・バルディエと申します」
バルディエという名と、灰色の髪。
ノアは王宮の馬小屋で耳にした話を思い出した。
兄の遠乗りが終わった数日後、自分の馬を見に行ったときのことだった。奥の馬房で、馬医が厩務員に話していた。
「バルディエ家の令嬢が、エリオス殿下の白馬を見てな。右の後脚をかばっているんじゃないかと言ってきたんだ」
「令嬢が気づいたのですか」
「ああ。灰色の髪の方だ。念のため診たら、確かに疲れが溜まっていた。あのまま長く走らせていたら、途中で足を取られていたかもしれない」
「遠乗りの前に分かって、よかったですね」
「歩いているところを少し見ただけで気づいたらしい。馬を見慣れている者でも、あれは見落とす」
その話が妙に記憶に残っていた。
兄が乗る予定だった馬の異変を見つけた、灰色の髪の令嬢。
その後も、薬草や馬具、王宮へ入る物資について、バルディエ商会の名を耳にすることが増えた。ただ大きな商会だからだと思っていたが、その商会に自分と同い年の令嬢がいるらしいと知り、ノアは気になっていた。
そして今、その少女は自分の好きな本を持ち、どこに惹かれているのかまで言い当てた。
「なぜ、それを知っている」
尋ねると、リリアナは視線を落とした。
「……なんとなく、そう思っただけです」
到底、信じられる答えではなかった。
だが、初対面の令嬢を図書館で問い詰めるわけにもいかない。ノアはそれ以上尋ねず、短く「そうか」と答えた。
少女は本を抱え直して礼をすると、王国史の並ぶ書架の方へ戻っていった。
歴史を調べているのか。
馬の異変を見つけ、王宮に関わる物資に目を配り、今度は古い王国史を読んでいる。
偶然で片づけるには、少し重なりすぎている気がした。
王宮へ戻る途中、ノアは回廊でエリオスと行き合った。進む方向が同じだったため、そのまま並んで歩く。
「今日、図書館でバルディエ家の令嬢に会った」
エリオスの歩みが、ほんのわずかに緩んだ。
「バルディエ家の?」
「灰色の髪の令嬢だ。会ったことはあるか」
「いや。確か、名授けのあとに屋敷へ行ったことはあるが、そのときは体調を崩していると聞いて、顔は合わせなかった」
エリオスは少し考えてから、ノアを見た。
「それがどうかしたのか」
「最近、バルディエの名をよく聞く」
「王都でも大きな商会だからな。王宮へ卸している品も多い」
「それだけではない気がする」
ノアは、図書館で交わした短い会話を思い出した。
「不思議な人だった」
エリオスはわずかに目を細めた。
「珍しいな。ノアがそう思うんなら、何かあるんだろう」
会話はそこで終わった。
それから、ノアは図書館で何度もリリアナを見かけるようになった。
王国史と年代記の棚。その中でも古い本が集まり、足を止める者の少ない区画に、灰色の髪がある。
リリアナもノアに気づけば、軽く礼をする。だが、自分から話しかけてくることはなかった。ノアも、あの日のことを問い直さなかった。
同じ場所で、それぞれ別の本を読む。
初めは、それだけだった。
ある日、ノアがいつもの机へ行くと、リリアナがひとつ向こうの席に座っていた。分厚い年代記を開いているが、頁は長いあいだ動いていない。
文字を読んでいるのではなく、そこに書かれていない何かを考えているように見えた。
ノアは声をかけず、自分も王国史を開いた。
互いに話さないまま時間が過ぎたが、沈黙は気にならなかった。近くに人がいれば、衣擦れや椅子を動かす音が耳につくことがある。リリアナは本を扱う音まで小さく、そこにいてもノアの思考を妨げなかった。
別の日には、棚の前で同じ本へ手を伸ばした。
生成り色の手袋に覆われた左手と、ノアの指先が触れそうになる。
リリアナはすぐに手を引いた。
「どうぞ」
「先に取ったのは、そちらだろう」
「私は、急ぎませんので」
ノアは本を抜き取ったものの、その場を離れずに表紙を見た。
「読み終えたら、渡す」
「ありがとうございます」
ノアは本を持って席へ戻った。しばらくして最後の頁を閉じると、少し離れた机で別の本を読んでいたリリアナのもとへ運ぶ。
「待たせた」
「いいえ。ありがとうございます」
リリアナは両手で受け取り、空いた席へ本を広げた。
やがて、どちらかが相手の探していそうな本を見つけると、題名や棚の場所を伝えるようになった。同じ机を使っているときには、何も言わず、その手元へそっと差し出すこともあった。
言葉で約束したわけではない。
リリアナが王統について書かれた古い記録を読んでいれば、ノアは関連する年代記をそばに置く。ノアが建国以前の諸領について調べていれば、リリアナが別の書架から地誌を持ってくる。
礼を言うことはあっても、長く話すことはなかった。
それでも、同じ机で本を読む時間が増えていった。
ある日、リリアナは読み終えた本を閉じる前に、背表紙を指先でひと撫でした。傷んだ箇所がないか確かめるような、丁寧な動きだった。
ノアの視線が止まる。
自分も、本を閉じるときに同じことをする。
誰かに教えられたわけではない。いつから始めたのかも覚えていない癖だった。
リリアナはノアの視線に気づかないまま、本を机へ置いて次の一冊を開いた。
ノアも手元へ目を戻したが、先ほどの仕草がしばらく頭に残った。初めて会ったはずなのに、知っている本の好みも、本を扱うときの癖も、自分とどこか似ている。
それから、図書館へ足を運ぶたび、ノアは書架の奥へ目を向けるようになった。
読書も調べものも、以前から日常の一部だった。けれど今は、灰色の髪があるかどうかを無意識に確かめている。姿を見つけると、なぜかほっとして、いつもの席へ向かった。
リリアナも、ときどき向かいか、ひとつ隣の席へ本を運んでくる。
二人で何かを話し合うわけではない。互いに別の本を開き、必要なときだけ資料を渡す。それでも、同じ灯りの下で頁をめくる時間は、不思議なほど落ち着いた。
ふた月が過ぎる頃には、図書館で並んで本を読むことが、当たり前になっていた。
初めて会ったはずなのに、以前にもこうして同じ机を囲んでいたような気がする。
理由は分からない。
ただ、その時間だけが、ひどく懐かしかった。




