第12話 懐かしい人(1)
王立図書館の扉の前で、リリアナは足を止めた。
ここへ来るのは久しぶりだった。
探したいのは、先代王よりも前の記録だ。王家の周囲で起きた事故、そのそばにいた者たちが負った傷、薬師の紙束には残されていなかった続き。王宮の外へ移されたものや、学びの場に紛れ込んだものがあるなら、この図書館にも何か残っているかもしれない。
リリアナは左手を右手で包んだ。
外へ出るときは、左手だけに薄手の手袋をするようになっていた。生成り色の布が、指輪を覆っている。
指輪を外すつもりはなかった。けれど、誰かに見られることも、意味を尋ねられることも避けたかった。
エリオスを守るために、王家にまとわりつくものの正体を探す。
今日は、そのために来た。
重い扉を押すと、紙と乾いた木の匂いがした。高い天井の下に書架が並び、歩く者たちも声を潜めている。
中へ足を踏み入れた途端、胸の奥がわずかに揺れた。
懐かしかった。
前の世界では、何度もここへ来ている。
幼い頃は、エリオスと弟のノアを交えた三人で、王宮の庭や回廊を走り回った。成長するにつれてエリオスと二人で過ごす時間が増えたが、本のある場所では、ノアと並ぶことも多かった。
二人とも、読むことが好きだった。
王宮の書庫や王立図書館で、同じ机に本を広げる。互いに読み終えるまで急かさず、ときおり気に入った箇所について短く言葉を交わす。会話が途切れても気まずくはなく、頁をめくる音だけが続いた。
あの頃の静けさが、今も書架の間に残っているような気がした。
リリアナは王国史と年代記が並ぶ区画へ向かった。建国以来の王統、王族の病歴、崩御や事故について記された本を一冊ずつ確かめていく。
だが、表に並ぶ歴史書には、薬師の記録にあったような話は見つからなかった。
先代王の周囲で何人もの者が傷を負っていたことも、その傷が不自然なほど長引いたことも書かれていない。王自身については残されても、庇った護衛や仕えた者たちの経過までは、歴史として扱われなかったのだろう。
さらに奥へ進むと、光が少なくなり、手に取る者の少ない古い本が並んでいた。
指先で背表紙を追っていたリリアナの手が止まる。
見覚えのある一冊があった。
『境界を渡る旅人』
派手な冒険も、大きな戦いもない物語だった。
帰る場所を持たない旅人が、国と国の境を渡りながら歩き続ける。誰かに認められるためでも、偉業を成し遂げるためでもない。それでも歩くことだけはやめない男の話だ。
前の世界で、ノアが何度も読み返していた。
読み終えるたび、決まって同じ場面を話した。旅人がどこにも居場所を持てないまま、それでも次の土地へ向かって歩き出す場面だった。
居場所がなくても、歩き続けていいと思えるから好きなのだと、ノアは言っていた。
ノアらしい本だと思った。
リリアナは棚から本を抜き取り、表紙を開こうとしたとき、背後から声がした。
「その本」
振り返ると、高い窓から差し込む淡い光の中に、一人の少年が立っていた。
濃紺の髪と、深い青の瞳。強い色を持ちながら、静かな印象を与える顔立ちだった。
リリアナは息を止めた。
七年ぶりに見る、ノアだった。
「……ノア殿下」
名前を呼んでから、今の自分たちは初対面なのだと思い出す。リリアナは本を持ったまま姿勢を正し、礼を取った。
「リリアナ・バルディエと申します」
「バルディエ家の」
ノアの視線が、灰色の髪から手にした本へ移った。
「それを読むのか」
「ええ」
「その本を読む者は、あまりいないと思っていた」
その声も、話す速さも、記憶の中とほとんど変わらなかった。
懐かしさに気を取られ、リリアナの口元がわずかに緩んだ。
「お好きでしたよね。居場所がなくても、歩き続けていいと思える物語だから、と……」
最後まで言い切る前に、声が途切れた。
ノアの目が止まる。
口にしてから、リリアナは自分の失言に気づいた。
今のノアとは、今日初めて会ったのだ。
それなのに、好きな本を知っているだけでなく、以前から親しかったような言い方をしてしまった。
これは、ノア自身が前の世界で話したことだ。本を読んだだけでは、彼がどこに惹かれたかまでは分からない。
言い過ぎた。
「なぜ、それを知っている」
ノアの問いに責める響きはなかったが、青い瞳はまっすぐリリアナを見ていた。
答えられるはずがない。
「……なんとなく、そう思っただけです」
苦しい答えだった。
短い沈黙のあと、ノアは本の表紙へ目を落とした。
「……そうか」
ノアはそれ以上尋ねず、書架へ視線を戻した。




