第12話 蝕むものの気配(2)
十四歳になっても、背中に残る違和感は消えていなかった。
七歳のときに受けた刃の傷は、とうに塞がっている。だが、その跡は黒く変色し、切り裂かれた形のまま禍々しく残っていた。薬を塗っても薄くならず、ときおり身体の奥まで疼く。
初めは治療のために通っていた薬師のもとへ、今では、この黒い痕と痛みの理由を知るために足を運んでいた。
その日も、薬師はリリアナの背中を確かめたあと、何もせずに衣服を戻すよう告げた。新たに塗る薬も、施す処置もない。
「……まだ調べているな」
リリアナは答えなかった。
薬師も追及せず、椅子から立ち上がった。棚の奥へ腕を伸ばし、紐で束ねた古い紙を取り出す。端が擦れ、ところどころ欠けた紙束を、机の上へ置いた。
「先代王の時代の記録だ。俺が侍医として王宮に上がっていた頃、手元に残せた分だけ控えを取った」
薬師は紙束に手を置いたまま、リリアナを見た。
「俺が持っているのは、これだけだ。読むなら止めはしない。ただ、知ったあとで、何も知らなかった頃には戻れないぞ」
リリアナは紙束を受け取った。古い紙を重ねただけのはずなのに、手に載せるとずしりと重かった。
紐をほどくと、日付や処置の内容、患者の名、その後の経過が細かく記されていた。先代王の周囲にいた護衛、侍女、従者。王族を庇って刃を受けた者、階段や馬から落ちた者、事故に巻き込まれた者。
起きた出来事はそれぞれ違う。それでも、その後の経過には似た記述が繰り返されていた。
熱が引かない。傷の塞がりが遅い。痛みが長く残り、治ったあとも古傷が疼く。
頁を追ううちに、リリアナは書き方にも一定の規則があることに気づいた。項目の順番や余白の取り方が揃い、紙の端には、王宮の記録官が使う小さな印まで写されている。
個人が残した覚え書きではない。王宮にあった正式な記録を、できるかぎり元の形のまま写したものだった。
ある頁で、リリアナの手が止まった。
王族を庇って刃を受けた者について書かれている。傷は背中に残り、塞がったあとも黒く変色していた。痛みは何年経っても消えず、寒さや疲れによって身体の奥から疼いたという。
刃を受けた場所も、その後の経過も、リリアナの背中に残るものとよく似ている。
さらに古い記録がないかと紙をめくったが、束はそこで終わっていた。
「これより前の記録は、俺の手元にはない」
顔を上げると、薬師が続けた。
「先代王より前のものなら、王宮に残っているかもしれない。外へ移されたものや、学びの場に紛れ込んだものもあるだろう。古い記録ほど表には出てこないが、残っているとすれば、そういう場所だ」
王宮と、学びの場。
リリアナは、その言葉を胸に刻んでから紙束を閉じた。
これまで、エリオスの周囲で起きる不幸は、すべて自分が原因だと思っていた。灰色の髪を持つ自分が近づき、関わったために、彼へ災いが及んだのだと。
けれど、同じような出来事は、リリアナが生まれるよりも前から王家の周囲で繰り返されていた。自分の灰色だけが原因なら、先代王の時代に残された記録には説明がつかない。
頁に並んでいたのは、王族を守ろうとした者ばかりだった。刃の前へ出た者。落下する身体を受け止めた者。事故に巻き込まれながら、王族を庇った者。
本来なら王族へ向かうはずだった災いを、そばにいる誰かが代わりに受けているようにも見えた。
偶然や人の悪意だけでは説明しきれない何かが、長いあいだ王家にまとわりついているのかもしれない。
それなら、エリオスの死も、自分だけが招いたものではない。
原因を突き止めることができれば、今度こそ彼を死なせずに済むかもしれない。近づかずに守るのではなく、もしかしたら、前の世界のようにもう一度、あの人のそばに立つこともできるのではないか。
名前を呼ばれる距離で並んで歩くことも、手を伸ばせば彼に届く場所にいることも、完全に失われたわけではないのかもしれない。
胸の奥に、押し込めていた願いがかすかに戻ってきた。
薬師のもとを出たあと、リリアナは叔父を訪ねるため、商会へ立ち寄った。
奥へ進むと、仕事をしている者たちの間から、普段より明るい声が聞こえてきた。
「王太子殿下と、サラ様の婚約が整ったそうだ」
書類へ伸ばしていた手が止まった。指先が無意識に左手へ動き、指輪に触れる。
「正式な披露は来年の春らしい」
「それなら、冬のうちに宝飾と布の候補を揃えておいた方がいいな」
「まだ依頼も来ていないぞ」
「王家の祝いだ。話が来てから品を探していたら間に合わない。今すぐ買い付ける必要はないが、仕入れ先の目星くらいはつけておこう」
「菓子や花も、いずれ話が回ってくるだろうな」
「披露の宴に使う品をまとめて揃えられるのは、結局うちくらいだからな」
紙をめくる音に、祝う声が重なっていく。
「ようやくだな」
「お似合いのお二人だ」
「これで国も落ち着く」
王太子と、聖女のようだと評判のサラ。
国の未来を託す相手として、最初から隣に並ぶことが決められていたような二人だった。
つい先ほどまで胸の中にあった、エリオスのそばに立つ自分の姿が消えた。
二人の婚約があり得ないと思っていたわけではない。自分から彼の隣には立たないと、ずっと前に決めていたはずだった。
それでも、自分だけが災いの原因ではないかもしれないと、ほんの一瞬だけ望んでしまった。
もう一度、あの人のそばへ戻れるかもしれないと。
その願いに居場所はなかった。
リリアナは何も言わず、自分の机へ戻った。
机の端に、銀色の丸い缶が置かれている。
いつ置かれたのかは分からない。けれど、レオンだと思った。彼は何も尋ねず、こうして菓子や飲み物だけを置いていくことがある。
叔父の商会が扱っているミルクチョコレートだった。
幼い頃、自分のために用意されるものは、ほとんどなかった。その中で、叔父がくれた銀色の缶に入ったこの菓子だけは、確かに自分のものだと思えた。
蓋を開けると、丸いチョコレートがきれいに並んでいる。ひとつ取り、口に含んだ。
舌の上で、ゆっくりと溶けていく。
子どもの頃と同じ味だった。
……ただ、甘いと思った。




