第12話 蝕むものの気配(1)
十三歳の春の終わり、父が咳き込む姿を目にすることが増えた。
一度の咳は長く続かない。それでも日を置かず繰り返すようになり、やがて侍医が頻繁に出入りするようになった。診断は肺の病だった。無理を重ねれば悪化するため、仕事の途切れない王都を離れ、領地で養生することが決まった。
決定が下されてから、屋敷の空気は慌ただしく変わった。出入りする人間が増え、廊下では旅支度や領地への引き継ぎについて声が交わされる。父の判断を待っていた書類の中には、叔父へ回されるものも出てきた。
その中で、リリアナに向けられる視線も変わっていた。以前のように灰色の髪を避けるのではなく、この先、彼女がどう振る舞うのかを確かめるような目だった。
けれど、もう自分がどう見られるかは気にならなかった。不吉な娘だと思われても構わない。もし自分の持つ不吉がエリオスに及ぶのなら、近づかなければいい。守るために必要なことだけを考えればよかった。
出立の前日、リリアナは父の執務室へ呼ばれた。
扉を閉めると、紙とインクの匂いが満ちていた。父は椅子に座ったまま、しばらく口を開かなかった。以前より痩せ、衣服の下で肩の線が落ちている。
やがて、こちらを見ないまま言った。
「……悪かった」
短い言葉だった。
続きはなかった。何について謝っているのかも、父は口にしなかった。
もっと早く、その言葉を聞きたかったと思う。灰色の髪を疎まれ、母を死なせた娘として遠ざけられていた頃に、一度でも言ってくれていたなら、何かが違っていたかもしれない。
けれど、その言葉を待っていた時期は、もう過ぎていた。
リリアナは返事をしなかった。父もそれ以上は話さず、やがて視線を机へ戻した。
翌朝、玄関前に領地へ向かう馬車が用意された。義母が先に乗り込み、父がそのあとに続く。扉が閉じる直前、父は一度だけ振り返った。
互いに言葉はなかった。
馬車が動き出し、車輪の音が門の向こうへ消えていく。父の姿が見えなくなると、広い玄関だけが残された。
父の不在を補うため、叔父が後見として家の判断を引き受け、レオンが跡取りとしてその傍らに立った。誰も大きな声で役割を宣言したわけではない。それでも使用人たちは叔父へ指示を仰ぎ、商会から届く書類はレオンの手も通るようになった。
父と義母の出立を機に、長く屋敷に勤めていた年嵩の侍女も暇を願い出た。
リリアナの灰色の髪を嫌い、身の回りの世話を後回しにすることも、ほかの使用人の前で不吉な娘だと口にすることもあった女だった。
彼女がいなくなると、若い侍女たちの態度も少しずつ変わった。急に親しげになったわけではない。それでも、声をかければ返事をし、頼んだ物を黙って置き去りにすることも、食事が冷めるまで運ばれないこともなくなった。
これまでは義母や年長の侍女の顔色をうかがい、その振る舞いに倣っていた者も多かったのだろう。それに、叔父とレオンは、リリアナにだけ世話を怠ることを嫌った。返事をしない者や、頼まれた仕事を理由もなく後回しにする者がいれば、二人は見過ごさず、その場で改めさせた。
灰色だからといって、侯爵家の令嬢を粗末に扱う理由にはならない。そのことが屋敷に行き渡るにつれ、若い侍女たちもリリアナを、仕えるべき令嬢として扱うようになった。
バルディエ家は少しずつ別の形へ移り始めていた。
その夜、リリアナは机に向かい、左手の指輪へ触れた。かすかに残る感覚の先に、エリオスがいる。
父との間に失われたものは、もう取り戻せない。それでも、エリオスに訪れる未来まで失わせるわけにはいかなかった。
父が領地へ戻ってから、リリアナは学ぶ時間をさらに増やした。
言語、政治、歴史、礼法。本来なら王妃教育として何年もかけて身につけるはずの基礎が、すでに身体に馴染んでいる。初歩から積み上げ直す必要はなく、最初から理論や制度、その成り立ちについて学ぶことができた。
新しい知識を得ているというより、前の世界で身につけたものを確かめ、足りない部分を埋めている感覚に近かった。
叔父がリリアナのために招いたのは、王都でも名の通った学者だった。子どもを教える教育者というより、国の制度を研究し、表に出る決まりだけでなく、その裏側にある構造を読み解く人物である。本来なら、侯爵家の令嬢へ一般教養を教えるような立場ではなかった。
講義を始めて間もなく、学者は少女の異様さに気づいた。
飲み込みが早いというだけではない。知識を一つずつ暗記するのではなく、それが制度全体のどこに位置し、何と結びついているのかで捉えている。
「この制度は、どのような問題があって作られたのですか」
「決定する者が不在の場合、誰がその権限を引き継ぐのでしょう」
「書類に残らない調整は、実際にはどこで行われますか」
問いは、いつも講義で教えた範囲の一歩先へ進んでいた。一つ答えれば、その答えを踏まえて次を尋ねる。曖昧に説明した部分があれば、どこに矛盾があるのかを正確に見つけた。
何より、止まろうとしなかった。
一つの課題を終えれば、すぐ次の本を開く。理解したところで満足せず、その制度が機能しなくなった場合や、過去に起きた例外まで知ろうとする。
ある日、学者はとうとう口にした。
「……そこまでお学びになる必要は、ないかと思います」
侯爵家の令嬢に向けるには、ためらいの残る言葉だった。
リリアナが求めているのは、貴族の娘に必要とされる教養をすでに越えていた。制度の裏で行われる調整、決まりが機能しない場合の対処、記録には残らない判断。知ったところで、普通の令嬢には使う機会のないものばかりである。
リリアナは本から顔を上げた。
「必要です」
迷いのない返事だった。
何のために、と学者は聞きかけたが、言葉にはしなかった。
家のために学んでいるようには見えない。褒められたいわけでも、優れた成果を残したいわけでもない。知識を集めることを楽しんでいる様子さえなかった。
何かに間に合わせようとしている。
そのために必要な知識を選び取り、足りないものを埋めながら、休まず先へ進んでいる。
理由を尋ねれば、十三歳の少女が決して口にしようとしないものに触れてしまう。学者には、そんな気がした。
机の向こうでは、リリアナがすでに次の頁を開いていた。
これは、ただの学びではない。
執念だ。




