第11話 見えない介入(2)
その日から、レオンは写し終えた記録だけでなく、まだ判断のついていない書類も、リリアナの机へ置くようになった。
やがて冬が来た。
庭の木々から葉が落ち、朝には窓の端が白く曇る。叔父とレオンが屋敷に泊まる日も多くなり、夕食を終えたあとまで仕事部屋から話し声が聞こえることがあった。
リリアナは朝に教師の授業を受け、午後は商会の記録を写した。薬師の診療所では、薬草の効き目だけでなく、同じ時期に使わない方がよい組み合わせも教わる。
前の世界でエリオスの身に起きた出来事も、思い出すたびに綴じた紙束へ書き加えていった。
冬のあいだに積もった雪が消え、庭の枝に新しい芽がつく頃には、書類の見方も以前とは変わっていた。品の名と数だけでなく、どこから来て、誰が求め、どこへ運ばれるのかまで確かめるようになっている。
春の終わり、リリアナの机へ置かれた書類の中に、王宮の厩務方から出された注文書が混じっていた。
携帯食、馬用の塩、馬具に塗る油。数日後、王都近郊の森にある休憩所へ届けるよう指示が添えられ、馬の数と同行する護衛の人数も記されている。
王太子の名はない。
注文書に押された印は、王太子付きの馬を預かる区画のものだった。
春の終わり。森へ向かう馬と護衛。
あの時の遠乗りかもしれない。
リリアナは部屋へ戻り、机の引き出しから綴じた紙束を取り出した。前の世界でエリオスの身に起きた危うい出来事を、思い出せる範囲で書き留めたものだ。日付が分からない出来事には、季節と覚えている事柄だけを書き残している。
紙をめくる指が、ひとつの項目で止まった。
春の終わり。遠乗り。落馬しかける。護衛の騎士が庇う。
時期が重なっている。
あの日、走り始めて間もなく、エリオスの馬が前脚をもつれさせた。身体が鞍から投げ出されかけたところへ、護衛の騎士が横から飛び込み、エリオスを抱えたまま地面へ落ちた。
騎士が間に入らなければ、エリオスは頭から硬い地面へ叩きつけられていた。
騎士は肩から腕を強く打ち、地面を滑ったときに右腕を擦りむいた。骨は折れていなかったものの、傷も痛みも長く残った。
前の世界では、その騎士が時折リリアナの護衛を務めていた。冷える日に右腕をさすっていたため尋ねると、遠乗りで殿下をお守りしたときの傷が、今も痛むことがあるのだと話してくれた。
あれも、薬師が話していた治りの遅い傷のひとつだったのかもしれない。
遠乗りを取りやめろとも、王太子の愛馬を使うなとも言えない。リリアナには、その予定に口を出す権限がなかった。
馬の状態を確かめてもらうことならできる。
王宮の厩へは、叔父の商会から馬用の膏薬や薬草を納めている。次の納品の日、リリアナも馬車に同行した。
荷を下ろしている間、厩の奥から一頭の白馬が引き出されてきた。
前の世界で何度も見た、エリオスの愛馬だった。
白馬は、右の後脚を地面につけるときだけ踏み込みが浅い。注意して見なければ気づかないほどの違いだが、あの日の落馬が頭から離れなかった。
厩のそばにいた馬医へ近づくと、相手はリリアナの灰色の髪に目を留め、バルディエ侯爵家の令嬢だと気づいて礼をした。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
「叔父の商会の納品に同行いたしました。お忙しいところ申し訳ありませんが、ひとつお伝えしたいことがございます」
リリアナは、先ほど通り過ぎた白馬の方を見た。
「王太子殿下の御馬だと思うのですが、歩いている姿を拝見したところ、右の後脚をかばっているように見えました」
「右の後脚を、ですか」
「私の見間違いなら、それで済みます。ですが、あのまま遠乗りへ出て、途中で足を取られ、殿下がお怪我をなさってからでは遅いでしょう。念のため、一度診ていただけませんか」
馬医は白馬の消えた厩の奥へ目を向け、すぐに表情を改めた。
「承知いたしました。ただちに確認いたします」
「お願いいたします」
翌日、馬医から商会へ短い礼状が届いた。
右の後脚に疲れが溜まっており、長く走らせるには不安がある。早めに気づいたため大事には至らないが、しばらく休ませることにしたと記されていた。
遠乗りには、別の馬が選ばれた。
当日、一行は予定どおり森へ向かい、夕刻前には全員が無事に王宮へ戻った。王宮から帰ってきた納品係が、仕事の報告に添えて教えてくれた。
「殿下の遠乗りは、何事もなく終わったそうですよ。護衛にも怪我人はいないそうです」
部屋に戻ったリリアナは、紙束を開いた。
春の終わり。遠乗り。落馬しかける。護衛の騎士が庇う。
その項目の脇に小さな印をつけた。紙束には、まだ先の出来事がいくつも残っている。
♢
数週間後、初夏に入った頃、商会の記録を見ていたリリアナの目が、一つの品名で止まった。
青芯草。
北部で採れる解熱草で、初夏になると王都へ運ばれる量が増える。薬師のところで見せてもらった、あの細長い青緑の葉だった。
さらに記録を追っていくと、同じ頃、王宮の薬庫には宵月花を使った眠り薬も納められる予定になっている。北の青芯草と、南の宵月花。本来なら同じ土地で続けて使われることの少ない二つの薬だった。
『流通が変われば、今まで出会わなかった薬同士まで出会う』
薬師の言葉を思い出す。
青芯草は北では昔から使われてきたが、ここ数年で王都へ入る量が増えている。宵月花は南の薬草で、こちらも王都では珍しくない。北で青芯草を使っているだけなら、南の宵月花と近い時期に重なることは少ないし、南でも同じだった。
けれど、王都には各地から薬が集まる。遠く離れた土地でそれぞれ使われてきた薬が同じ薬庫に並び、同じ人間に続けて処方されることもある。
青芯草も宵月花も、単独で使う分には問題のない薬だった。青芯草は熱を下げ、宵月花は眠りを助ける。ただ、青芯草の作用が身体に残っているうちに宵月花を重ねると、食欲が落ち、だるさが抜けにくくなる。
すぐに倒れたり、激しい異変が出たりするわけではない。熱は下がるし、宵月花を使えば眠ることもできる。そのため、熱のあとの体力低下や、眠れない日が続いた疲れと見分けがつきにくい。薬師がその組み合わせに気づいたのも最近だと言っていた。なら、宮廷医がまだ知らなかったとしても不思議ではない。
前の世界の記憶が、そこにつながった。
エリオスが今頃、熱を出したことがあった。薬を飲めば熱そのものは下がったが、そのあと眠れない夜が続き、別の薬が加えられた。それから食事が進まなくなり、身体のだるさもなかなか抜けなくなった。
熱はもう高くないのに、起き上がるだけでつらそうにしていた。食事もほとんど取れず、少し身体を起こしていても、すぐに疲れて横になってしまう。結局、十日ほどはほとんどベッドから離れられなかった。
あの頃のリリアナには、何が悪いのかなど分からなかった。ただ毎日、今日は少し元気になっただろうかと気にして、早くよくなってほしいと願っていた。熱のあとの体力低下なのだと思っていたし、眠れない日が続いたせいで身体が弱っているのだとも考えていた。
けれど、もし、あのとき使われていたのが青芯草と宵月花だったのなら。
どちらの処方も、それぞれの症状に対しては間違っていない。問題は、使う時期が重なったことだった。
リリアナは引き出しから紙束を取り出した。
初夏。発熱。眠れない夜が続く。薬が重なり、回復が遅れる。
書き残していた出来事と、必死で学んだことがつながっていく。今年も、あのとき使われた青芯草が王宮へ届こうとしている。
なら、今年は届かなければいい。
もちろん、青芯草そのものが悪い薬なのではない。王宮への荷だけを理由もなく止めれば不自然だし、必要としている場所から薬を奪うことにもなる。
リリアナは各地から届いた注文と、青芯草の産地を記した書類を並べた。北で採れた青芯草は、いったん王都まで運び、そこから再び各地へ売る予定になっている。ところが北部では、いくつもの施療院から青芯草を求める注文が入っていた。
北では青芯草が昔から使われている。一方の宵月花は南の薬草だ。王都ほど各地の薬が集まらない北部なら、二つが近い時期に使われる可能性も低い。
それなら、北で採れた青芯草は、わざわざ王都まで運ばず、必要としている北部各地の施療院へそのまま送ればいい。産地から直接送れば、王都を経由するより早く届き、馬車代も抑えられる。
一方、王都の近くでは、青芯草と同じように熱を下げる別の薬草が採れた。効き目に大きな違いはなく、収穫量にも余裕があり、王都まで運ぶ日数も短い。
これなら、誰かから薬を取り上げる必要はない。北では必要としている人のもとへ早く届き、王都にも解熱草は入る。
そして、エリオスのもとへ青芯草は届かない。
リリアナは書類をまとめ、叔父とレオンの前に置いた。
「北で採れる青芯草は、王都を通さず、北部各地の施療院へ直接送った方がよいと思います。青芯草が不足しているところもありますし、産地から直接送れば今より早く届きます」
レオンが、荷の出発地と道程を見比べる。
「王都向けの分はどうする?」
「こちらを増やします。王都に近い村で採れるので、運ぶ日数も馬車代も少なく済みます。効き目もほとんど変わりません」
叔父は二種類の解熱草の値と、運送にかかる日数を確認した。
「王都で必要になる量は足りるのか」
「はい。北部の施療院には今より早く届きますし、王都にも必要な量を入れられます。それに、青芯草は北で使われてきた薬です。南の宵月花と近い時期に使われることも、王都より少ないと思います」
レオンが顔を上げた。
「宵月花と一緒にすると、何かあるのか?」
「青芯草の作用が残っているうちに使うと、食欲が落ちたり、回復が遅れたりすることがあるそうです。薬師が最近、何人かの患者を診て気づいたと教えてくれました」
叔父の目が、青芯草の名が書かれた書類へ落ちる。
「医者には知られていないのか」
「まだ知らない方も多いと思います。知り合いの薬師自身も最近気づいたことなので、確かなこととして広く知られているわけではありません」
リリアナは少し考えてから続けた。
「青芯草を送る施療院と王宮には、そのことも一緒に伝えていただけませんか。薬師からこういう話を聞いた、と。そのうえで、お医者様にも確かめていただければと思います」
レオンはもう一度、二つの薬草の産地と運送経路を見比べた。
「青芯草は北で使う。王都には近くで採れる方を入れる。その方が早くて安いし、宵月花と重なる可能性も減るわけか」
「はい。青芯草が悪い薬なわけではありませんから、必要としている場所で使ってもらうのが一番だと思います」
叔父は運送の日数と費用をもう一度確認してから、一度だけ頷いた。
「その通りにしよう」
こうして、北で採れた青芯草は王都を経由せず、必要としている北部各地の施療院へ直接送られることになった。王都には近郊で採れた別の解熱草が入り、その一部が王宮の薬庫にも納められた。
青芯草と宵月花の組み合わせについても、まだ確立された知識ではないことを含め、薬師から聞いた話として施療院と王宮へ伝えてもらった。あとは医師たちに確かめてもらえばいい。
その年の初夏、エリオスは一晩だけ熱を出したという。
知らせを聞いたリリアナは、前の世界の十日間を思い出した。熱が下がっても起き上がれず、ほとんど食事も取れなかった、小さなエリオス。あのときのようになったらどうしようと、その後の知らせを待った。
けれど、翌朝には熱が下がった。
その後、薬草の追加注文も来なかった。侍医が何度も呼ばれたという話もなく、食事が取れないという知らせも、何日も寝込んでいるという話も耳に入らなかった。
前の世界とは、違う。
リリアナは紙束を開き、「初夏の発熱」の項目の脇に、小さな印をつけた。
近づいてはいない。声もかけていない。エリオスは、リリアナが何をしたのか知らない。
それでも、ひとつ変えられた。
まだ印のない出来事は、いくつも残っている。リリアナは紙束を引き出しへ戻すと、その日届いた新しい書類を開いた。




