↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

26/123

第10話 守るための力(2)

 ある日、リリアナは父の前に立った。


「お願いがあります」


 父は書類から目を上げる。


「……なんだ」


 短い声だった。けれど、目は逸らさない。


「家庭教師を、付けてください」


 父の視線がわずかに揺れた。


 リリアナが自分から何かを望んだのは、初めてだった。


「なぜだ」


「分からないことが、多すぎるんです」


 リリアナは、握った手に少し力を込めた。


「商会の記録を見れば、いつもと違う動きは分かります。でも、どうしてそうなったのかが分かりません。税のことも、領地のことも、法のことも、薬のことも、知っているつもりで、知らないことばかりでした」


 父はすぐには返さなかった。


「このままでは、気づいても、何もできません。だから、学びたいんです」


 その場には叔父もいた。商会の件で、屋敷に滞在する時間が以前より増えていた頃だった。王都に拠点を移す準備が進み、仕事を任せる人間の教育も始まっている。


「……まだ付けていなかったのか」


 叔父の言葉に、父の眉がわずかに動く。


「必要ないと判断していた」


「付けろ」


 叔父はそれだけ言った。命令でも、説得でもない。必要なものを必要だと言っただけの声だった。


 父は長く息を吐いた。


「……分かった」


 それだけで、決まった。


 最初に来た教師は、読み書きと計算を教える者だった。けれど、数日で役目を終えた。


「……理解が早すぎる」


 計算は、途中式を追う前に答えへ辿り着く。歴史は出来事の並びではなく、国と家の関係として覚える。政治は名前ではなく、誰が何を決めるのかで捉える。教える側が、すぐに追いつかなくなった。


 その報告を聞いた叔父は、間を置かずに言った。


「もう一人呼べ」


 次に来たのは、専門の教師だった。


 領地経営。貨幣。税。法。外交史。医学の基礎。


 リリアナは、分からないところから順番に潰していった。なぜ値が動くのか。なぜ人が町を離れるのか。なぜ同じ薬でも、組み合わせを間違えれば毒になるのか。知りたいことはいくらでもあった。


 薬師のところへ通う回数も、自然と増えていった。怪我のためだけではない。知るためだった。


「……何を覚えようとしている」


 傷の具合を確かめながら、薬師が低く言った。


 リリアナは少しだけ考えた。


 守るために必要なもの。近づかず、それでも手を伸ばすための手段。そして、あの人を生かすための知識。


「……全部です」


 薬師の手が止まる。けれど、何のためにとは聞かなかった。


「なら、名前と効能だけ覚えるな」


 傷の手当てを終えると、棚からいくつかの薬草と小瓶を取り出し、机の上へ並べた。


「薬は量でも変わる。使う人間でも変わる。生か、乾かしたものかでも変わる。何と一緒に飲んだかでもな」


 最初に置かれたのは、細長い青緑の葉だった。


「青芯草。北で採れる解熱草だ」


 リリアナにも名前は聞き覚えがあった。


「王都でも使われていますよね」


「ああ。前から入ってはいたが、ここ数年でずいぶん増えた」


 薬師は、その隣に小瓶を置く。


「こっちは宵月花。南の薬草だ。眠りを助ける」


「どちらも、よく使われる薬なんですね」


「単独ならな。青芯草を使ったあと、効き目が身体に残っているうちに宵月花を重ねるな」


「どうなるんですか」


「食が落ちる。だるさが残る。熱は下がっているのに、身体だけがなかなか戻らん」


 リリアナの筆が止まった。


「よく知られていることですか」


「いや。俺も気づいたのは最近だ」


「最近?」


「ああ。北じゃ青芯草は昔から使われている。だが、南の宵月花まで一緒に使うことは滅多にない。逆も同じだ」


 産地が遠く離れている。それぞれの土地で使っている限り、二つが続けて処方されること自体が少なかった。


「でも、王都には両方ある」


 リリアナが言うと、薬師は頷いた。


「王都には北からも南からも、東からも西からも薬が来る。最近は道も商いも変わって、前より多くの物が入るようになった」


 薬師は二つの薬を指先で示す。


「流通が変われば、今まで出会わなかった薬同士まで出会う」


 リリアナは、もう一度青芯草と宵月花を見た。


「それで、最近になって分かったんですか」


「ああ。青芯草を使ったあと、宵月花を処方された患者が何人かいた。病気も年も違う。それなのに、妙に似た治り方をした」


「熱は下がるのに、身体が戻らない」


「そうだ。どちらも、それぞれはちゃんと効いている。青芯草で熱は下がるし、宵月花を使えば眠れる。だから余計に分かりにくい」


「宮廷医でも知らないことがあるんですか」


「あるさ。俺だって、つい最近まで知らなかった。入ってくる薬の種類が増える方が、知識が追いつくより早いこともある」


 リリアナの中を、ひとつの記憶がかすめた。


 熱は下がったのに、なかなか食事を取れなかった。夜も眠れず、そのために別の薬を使っていた。


 ――エリオスも。


 前の世界で、似たようなことが。


「……次は?」


 リリアナが尋ねると、薬師はもう別の草を取っていた。


「朱殻草。痛みを抑える。だが、生では使うな。十日は陰干ししろ」


「採ったばかりの方が効きそうですが」


「逆だ。生の汁が強すぎる。腹を壊す。量によっては吐く」


 リリアナは紙に、十日、と書き加えた。


「間違えて生のまま使ったら?」


「少量なら水を取らせて様子を見る。多ければ静流根だ」


 薬師は棚から、白っぽい細い根を取り出した。


「これは覚えておけ。使うことが多い」


「解毒薬ですか」


「そんな便利なものじゃない。強い薬草を摂りすぎたとき、作用を弱めて身体から抜けるのを助ける。朱殻草以外にも使えるが、何にでも効くわけじゃない。量が多すぎれば間に合わんこともある」


 リリアナは静流根の形も書き留めた。


 次に置かれたのは、赤褐色の根と細い朱色の茎だった。


「赤角根と火脈草。どちらも身体を温める」


「なら、一緒に使えば――」


「よく効く、と思うだろう」


 薬師は二つの薬を並べたまま言った。


「だから駄目だ」


「駄目なんですか」


「作用が重なる。動悸が出る。顔が火照る。手が震える。酷ければ熱まで上がる」


 リリアナは二つを見比べた。


「薬は足し算じゃない」


 薬師はそう言って、次の薬草を出した。


 灰白色の、細い葉だった。


「氷蜜草。北の奥で採れる」


 リリアナは鼻を近づけた。


 甘い。けれど、柔らかな甘さではない。鼻の奥へすっと鋭く抜け、その場所だけ冷たくなったような、妙に鮮明な香りが残る。


「……覚えやすい香りですね」


「匂いで覚えろ。乾燥すると白霜草とよく似る」


 薬師は棚から別の葉を取り、隣へ置いた。並べてみると、色も形もよく似ている。


「白霜草は?」


「こっちは珍しくない。身体を温める薬だ。薬酒にも使う」


 リリアナは白霜草にも鼻を近づけた。青臭さに、乾いた木の皮を混ぜたような、いかにも薬らしい強い匂いがする。


「見た目は似ていますけど、匂いは全然違いますね」


「だから鼻も使え」


 薬師は氷蜜草に指を戻した。


「少量なら、冷えで胸が苦しいときなんかに使える。だが量を間違えるな。多ければ腹を痛める。吐く。熱が出ることもある」


「これも静流根を使えますか」


「ああ。早ければな。ただし、酒と一緒にしたときは特に急げ」


「お酒と?」


「酒に漬けるな。酒を飲みながら使うのも避けろ。普通に煎じて使える量でも、酒が入ると作用が強く出る。量まで多ければ、命を落とすこともある」


 リリアナは、もう一度氷蜜草を見た。これほど甘い香りなのに。


「もし、飲んでしまったら?」


「静流根を濃く煎じる。早ければ作用を弱められる」


「それで大丈夫ですか」


「大丈夫になるとは言っていない。一度身体に入ったものを、なかったことにはできん。飲んだ量と酒の量にもよる。熱や吐き気が残ることはある」


「……分かりました」


「もっとも、氷蜜草は北でも採れる場所が限られている。王都まで来ることは滅多にない。お前が口にする心配はまずないだろう」


 そう言うと、薬師は氷蜜草と白霜草をまとめて片づけた。


「次。月影実。咳を鎮める。ただし煮詰めすぎるな。効き目が強くなりすぎる」


「どのくらいまで?」


「水が半分になる前に火から下ろせ。それ以上は眠気が出る」


 リリアナはまた書く。


 その次は黄色い花だった。


「金灯花。傷を洗う。これは飲む薬じゃない」


 さらに別の包みが開かれる。


「これは子どもには使うな。こっちは空腹のときに飲ませるな。これは逆だ。食事のあとでは効きが悪い」


 リリアナは、ひとつずつ書き留めていった。


 薬師が教えたのは、その日机に並べたものだけではなかった。熱を下げるもの。血を止めるもの。痛みを鈍らせるもの。眠りを助けるもの。傷口に使うもの。呼吸を楽にするもの。腹を整えるもの。


 乾かしてから使う草もあれば、採ったその日にしか使えない草もある。煮る時間で効き方が変わるもの。大人と子どもで量が大きく違うもの。持病によって避けなければならないもの。


 単独なら何の問題もない薬が、別の薬と重なった途端に身体を害することもあった。食べ物との相性が悪いものもあれば、酒と合わせてはいけないものもある。


 そして、間違えたときの対処も一つではない。静流根のように、いくつかの薬草の作用を弱めるものもある。水を多く取らせるもの。身体を冷やすもの。逆に吐かせてはいけないもの。すぐに医者へ運ばなければならない兆候もあった。


「薬を覚えるなら、効く方だけ見るな」


 ある日、薬師が言った。


「効かなかったときと、間違えたときまで覚えろ」


 リリアナは、その言葉も覚えた。


 一日で終わるはずもない。何日も、何週間も、診療所へ通うたび、棚に並ぶ知らない薬が少しずつ減っていった。


 薬草を見れば名前を覚える。似たものなら葉の形を比べ、匂いを嗅ぐ。どれだけ使うのか。どう扱うのか。何と合わせてはいけないのか。もし身体を害したなら、最初に何をするのか。


 ひとつ覚えれば、また次を教わった。


 必要になるかどうかは分からない。それでもリリアナは、一つずつ、自分の中へ入れていった。


 朝は教師の前に座り、午後は商会の記録を写す。夜明け前には薬師の診療所へ向かう。家庭教師は驚き、父は何も言わない。叔父も評価を口にしない。ただ、必要だと判断した教師だけが増えていった。


 身体が、思い出しているようだった。


 王宮での日々。王太子教育。隣に立つために、必死に掴んだ時間。


 けれど今は、隣に立つためじゃない。


 近づかないまま、守るために使う。


 リリアナの日々は、その日から少しずつ変わっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。