第10話 守るための力(2)
ある日、リリアナは父の前に立った。
「お願いがあります」
父は書類から目を上げる。
「……なんだ」
短い声だった。けれど、目は逸らさない。
「家庭教師を、付けてください」
父の視線がわずかに揺れた。
リリアナが自分から何かを望んだのは、初めてだった。
「なぜだ」
「分からないことが、多すぎるんです」
リリアナは、握った手に少し力を込めた。
「商会の記録を見れば、いつもと違う動きは分かります。でも、どうしてそうなったのかが分かりません。税のことも、領地のことも、法のことも、薬のことも、知っているつもりで、知らないことばかりでした」
父はすぐには返さなかった。
「このままでは、気づいても、何もできません。だから、学びたいんです」
その場には叔父もいた。商会の件で、屋敷に滞在する時間が以前より増えていた頃だった。王都に拠点を移す準備が進み、仕事を任せる人間の教育も始まっている。
「……まだ付けていなかったのか」
叔父の言葉に、父の眉がわずかに動く。
「必要ないと判断していた」
「付けろ」
叔父はそれだけ言った。命令でも、説得でもない。必要なものを必要だと言っただけの声だった。
父は長く息を吐いた。
「……分かった」
それだけで、決まった。
最初に来た教師は、読み書きと計算を教える者だった。けれど、数日で役目を終えた。
「……理解が早すぎる」
計算は、途中式を追う前に答えへ辿り着く。歴史は出来事の並びではなく、国と家の関係として覚える。政治は名前ではなく、誰が何を決めるのかで捉える。教える側が、すぐに追いつかなくなった。
その報告を聞いた叔父は、間を置かずに言った。
「もう一人呼べ」
次に来たのは、専門の教師だった。
領地経営。貨幣。税。法。外交史。医学の基礎。
リリアナは、分からないところから順番に潰していった。なぜ値が動くのか。なぜ人が町を離れるのか。なぜ同じ薬でも、組み合わせを間違えれば毒になるのか。知りたいことはいくらでもあった。
薬師のところへ通う回数も、自然と増えていった。怪我のためだけではない。知るためだった。
「……何を覚えようとしている」
傷の具合を確かめながら、薬師が低く言った。
リリアナは少しだけ考えた。
守るために必要なもの。近づかず、それでも手を伸ばすための手段。そして、あの人を生かすための知識。
「……全部です」
薬師の手が止まる。けれど、何のためにとは聞かなかった。
「なら、名前と効能だけ覚えるな」
傷の手当てを終えると、棚からいくつかの薬草と小瓶を取り出し、机の上へ並べた。
「薬は量でも変わる。使う人間でも変わる。生か、乾かしたものかでも変わる。何と一緒に飲んだかでもな」
最初に置かれたのは、細長い青緑の葉だった。
「青芯草。北で採れる解熱草だ」
リリアナにも名前は聞き覚えがあった。
「王都でも使われていますよね」
「ああ。前から入ってはいたが、ここ数年でずいぶん増えた」
薬師は、その隣に小瓶を置く。
「こっちは宵月花。南の薬草だ。眠りを助ける」
「どちらも、よく使われる薬なんですね」
「単独ならな。青芯草を使ったあと、効き目が身体に残っているうちに宵月花を重ねるな」
「どうなるんですか」
「食が落ちる。だるさが残る。熱は下がっているのに、身体だけがなかなか戻らん」
リリアナの筆が止まった。
「よく知られていることですか」
「いや。俺も気づいたのは最近だ」
「最近?」
「ああ。北じゃ青芯草は昔から使われている。だが、南の宵月花まで一緒に使うことは滅多にない。逆も同じだ」
産地が遠く離れている。それぞれの土地で使っている限り、二つが続けて処方されること自体が少なかった。
「でも、王都には両方ある」
リリアナが言うと、薬師は頷いた。
「王都には北からも南からも、東からも西からも薬が来る。最近は道も商いも変わって、前より多くの物が入るようになった」
薬師は二つの薬を指先で示す。
「流通が変われば、今まで出会わなかった薬同士まで出会う」
リリアナは、もう一度青芯草と宵月花を見た。
「それで、最近になって分かったんですか」
「ああ。青芯草を使ったあと、宵月花を処方された患者が何人かいた。病気も年も違う。それなのに、妙に似た治り方をした」
「熱は下がるのに、身体が戻らない」
「そうだ。どちらも、それぞれはちゃんと効いている。青芯草で熱は下がるし、宵月花を使えば眠れる。だから余計に分かりにくい」
「宮廷医でも知らないことがあるんですか」
「あるさ。俺だって、つい最近まで知らなかった。入ってくる薬の種類が増える方が、知識が追いつくより早いこともある」
リリアナの中を、ひとつの記憶がかすめた。
熱は下がったのに、なかなか食事を取れなかった。夜も眠れず、そのために別の薬を使っていた。
――エリオスも。
前の世界で、似たようなことが。
「……次は?」
リリアナが尋ねると、薬師はもう別の草を取っていた。
「朱殻草。痛みを抑える。だが、生では使うな。十日は陰干ししろ」
「採ったばかりの方が効きそうですが」
「逆だ。生の汁が強すぎる。腹を壊す。量によっては吐く」
リリアナは紙に、十日、と書き加えた。
「間違えて生のまま使ったら?」
「少量なら水を取らせて様子を見る。多ければ静流根だ」
薬師は棚から、白っぽい細い根を取り出した。
「これは覚えておけ。使うことが多い」
「解毒薬ですか」
「そんな便利なものじゃない。強い薬草を摂りすぎたとき、作用を弱めて身体から抜けるのを助ける。朱殻草以外にも使えるが、何にでも効くわけじゃない。量が多すぎれば間に合わんこともある」
リリアナは静流根の形も書き留めた。
次に置かれたのは、赤褐色の根と細い朱色の茎だった。
「赤角根と火脈草。どちらも身体を温める」
「なら、一緒に使えば――」
「よく効く、と思うだろう」
薬師は二つの薬を並べたまま言った。
「だから駄目だ」
「駄目なんですか」
「作用が重なる。動悸が出る。顔が火照る。手が震える。酷ければ熱まで上がる」
リリアナは二つを見比べた。
「薬は足し算じゃない」
薬師はそう言って、次の薬草を出した。
灰白色の、細い葉だった。
「氷蜜草。北の奥で採れる」
リリアナは鼻を近づけた。
甘い。けれど、柔らかな甘さではない。鼻の奥へすっと鋭く抜け、その場所だけ冷たくなったような、妙に鮮明な香りが残る。
「……覚えやすい香りですね」
「匂いで覚えろ。乾燥すると白霜草とよく似る」
薬師は棚から別の葉を取り、隣へ置いた。並べてみると、色も形もよく似ている。
「白霜草は?」
「こっちは珍しくない。身体を温める薬だ。薬酒にも使う」
リリアナは白霜草にも鼻を近づけた。青臭さに、乾いた木の皮を混ぜたような、いかにも薬らしい強い匂いがする。
「見た目は似ていますけど、匂いは全然違いますね」
「だから鼻も使え」
薬師は氷蜜草に指を戻した。
「少量なら、冷えで胸が苦しいときなんかに使える。だが量を間違えるな。多ければ腹を痛める。吐く。熱が出ることもある」
「これも静流根を使えますか」
「ああ。早ければな。ただし、酒と一緒にしたときは特に急げ」
「お酒と?」
「酒に漬けるな。酒を飲みながら使うのも避けろ。普通に煎じて使える量でも、酒が入ると作用が強く出る。量まで多ければ、命を落とすこともある」
リリアナは、もう一度氷蜜草を見た。これほど甘い香りなのに。
「もし、飲んでしまったら?」
「静流根を濃く煎じる。早ければ作用を弱められる」
「それで大丈夫ですか」
「大丈夫になるとは言っていない。一度身体に入ったものを、なかったことにはできん。飲んだ量と酒の量にもよる。熱や吐き気が残ることはある」
「……分かりました」
「もっとも、氷蜜草は北でも採れる場所が限られている。王都まで来ることは滅多にない。お前が口にする心配はまずないだろう」
そう言うと、薬師は氷蜜草と白霜草をまとめて片づけた。
「次。月影実。咳を鎮める。ただし煮詰めすぎるな。効き目が強くなりすぎる」
「どのくらいまで?」
「水が半分になる前に火から下ろせ。それ以上は眠気が出る」
リリアナはまた書く。
その次は黄色い花だった。
「金灯花。傷を洗う。これは飲む薬じゃない」
さらに別の包みが開かれる。
「これは子どもには使うな。こっちは空腹のときに飲ませるな。これは逆だ。食事のあとでは効きが悪い」
リリアナは、ひとつずつ書き留めていった。
薬師が教えたのは、その日机に並べたものだけではなかった。熱を下げるもの。血を止めるもの。痛みを鈍らせるもの。眠りを助けるもの。傷口に使うもの。呼吸を楽にするもの。腹を整えるもの。
乾かしてから使う草もあれば、採ったその日にしか使えない草もある。煮る時間で効き方が変わるもの。大人と子どもで量が大きく違うもの。持病によって避けなければならないもの。
単独なら何の問題もない薬が、別の薬と重なった途端に身体を害することもあった。食べ物との相性が悪いものもあれば、酒と合わせてはいけないものもある。
そして、間違えたときの対処も一つではない。静流根のように、いくつかの薬草の作用を弱めるものもある。水を多く取らせるもの。身体を冷やすもの。逆に吐かせてはいけないもの。すぐに医者へ運ばなければならない兆候もあった。
「薬を覚えるなら、効く方だけ見るな」
ある日、薬師が言った。
「効かなかったときと、間違えたときまで覚えろ」
リリアナは、その言葉も覚えた。
一日で終わるはずもない。何日も、何週間も、診療所へ通うたび、棚に並ぶ知らない薬が少しずつ減っていった。
薬草を見れば名前を覚える。似たものなら葉の形を比べ、匂いを嗅ぐ。どれだけ使うのか。どう扱うのか。何と合わせてはいけないのか。もし身体を害したなら、最初に何をするのか。
ひとつ覚えれば、また次を教わった。
必要になるかどうかは分からない。それでもリリアナは、一つずつ、自分の中へ入れていった。
朝は教師の前に座り、午後は商会の記録を写す。夜明け前には薬師の診療所へ向かう。家庭教師は驚き、父は何も言わない。叔父も評価を口にしない。ただ、必要だと判断した教師だけが増えていった。
身体が、思い出しているようだった。
王宮での日々。王太子教育。隣に立つために、必死に掴んだ時間。
けれど今は、隣に立つためじゃない。
近づかないまま、守るために使う。
リリアナの日々は、その日から少しずつ変わっていった。




