第10話 守るための力(1)
薬師の診療所から戻り、指に残った輪に触れた夜から、リリアナの中で、ひとつだけ変わらないものがある。
近づかない。でも、守る。
それは願いではなく、迷いでもなく、もう決めたことだった。
思い返せば、エリオスのまわりでは、危うい出来事が昔から多かった。落馬しかけたこと、式典の装飾が外れたこと、整備中の刃が外れかけたこと、体調を崩す薬の組み合わせが紛れたこと。
どれも、エリオス本人の不注意ではない。油断していたわけでも、判断を誤ったわけでもない。むしろ彼は、慎重な側の人間だった。それなのに危険は、いつも周囲から現れる。事故とも、人為とも、偶然とも言い切れない形で、彼のすぐそばに落ちてくる。
命を奪うほどではない。けれど、あと少し違っていたら。そう思わせる瞬間ばかりが、リリアナの中には残っていた。
もしかして、自分が関わったから起きたのではないか。
母のことも、屋敷の中で向けられる視線も、理由のない距離も、全部、自分のせいなのではないかと、リリアナは思い続けてきた。灰色の髪と淡い瞳は、近しい者を不幸にする。そばにいる人を壊してしまう。そう囁かれて育ったから、会わなかった。近づかなかった。
それでも、もし、それだけではないのだとしたら。
今回の出来事のように、リリアナが離れていても、別の何かがエリオスの命に近づいているのだとしたら。
背中の傷は、塞がっても消えなかった。朝の冷え込みで疼き、身体をひねると縫い目の奥が引きつれる。そのたびにリリアナは、薬師の診療所へ通った。
門が開く前。人の少ない時間。なるべく裏道を選ぶ。そうして歩くうちに、診療所へ向かうことは、いつの間にか習慣のようになっていった。
「……来たか」
薬師は、いつも顔も上げない。布を替え、薬を塗り、縫い目の具合を確かめる。それだけだった。
「動きすぎるな。縫った傷は、開けば治りが悪くなる。刃を受けたときより、後でこじらせる方が厄介なこともある」
リリアナは頷く。痛みはある。けれど、痛いからといって止まる理由にはならなかった。
ある日、薬師の手が止まった。縫い目の周囲を確かめていた指先が、少しだけ押す場所を変える。
「……残るな」
独り言みたいな声だった。
「普通の切り傷の治り方じゃない」
それ以上は言わない。けれど、リリアナには分かった。ただの怪我なら、少しずつ薄れていくはずのものが、まだ身体の奥に残っている。傷口は閉じても、違和感だけが消えない。
薬師は薬瓶を棚に戻しながら、低く言った。
「王宮付近で、似た傷が増えているらしい。なじみの宮廷医がぼやいていた」
リリアナの呼吸が止まる。薬師は視線を上げない。
「多くはない。兵士だの、女中だの、身の回りの者ばかりだそうだ。刃傷に近いものもあれば、事故のようなものもある。だが、治りが妙に遅い」
それ以上は言わない。
けれど、リリアナには分かった。
王太子のそばにいる者が傷を負っている。守ろうとして、間に入った者が。そして、その傷だけが残る。
背中の傷が、その言葉と重なった。
危険は終わっていない。近づかなくても、消えない。
なら、守るには別の方法がいる。
リリアナの色は、きっと不吉だ。近づけば、何かを壊してしまう気がする。あの童話の魔女のように、光の中に立つ側ではなく、遠ざけられる側なのだということも分かっている。
だから、近くで守るという選択は持たない。
けれど、離れて何もせずにいるだけでは、あの人のそばにある危険は消えない。
リリアナは動く。
手の届かない場所からでも、できることを探すために。
そのやり方を、初めて現実として見せてくれたのが叔父だった。
叔父は領地を本拠にしながら、王都にも商会の拠点を持つ人だった。行き来は多い。表舞台で目立つ人ではない。けれど、王都へ入る物資を扱う商会の中では、すでにかなり名の通った存在だった。
羊毛布、塩、薬草、鉄具、穀物。
叔父の商会には、そうした品の出入りがある。どの町から仕入れたのか。どの商家へ渡すのか。いつ王都へ運ぶのか。王宮へ納める者の手に渡る品もあれば、城下の商家に並ぶ品もある。医療院へ回る薬草や、工房へ届く鉄具もあった。
バルディエ家は侯爵位を持つ家ではある。祖父の代までは王宮の中枢に近く、政にも人事にも関わっていた。けれど今は、その頃とは立ち位置が違う。王宮の中心に常にいる家ではなく、領地を守りながら、王都の外側から関わる形へ移っている。
だからこそ、叔父は爵位だけに頼らず、商会を立ち上げた。
必要な物を、必要としている場所へ回す。不足が出そうなら早めに押さえる。余っている場所があれば、別の町へ流す。
冬の前に羊毛布が足りなくなりそうな町があれば、余裕のある倉から回す。城下に届く穀物が遅れそうなら、別の道を使える商人に声をかける。薬草の値が上がり始めれば、値が跳ねる前に買い付けておく。
叔父が動かしているのは、王宮そのものではない。
けれど、王宮へ続く道の一部には、たしかに叔父の仕事が関わっていた。爵位ではなく、物を動かす力で場所を得ている人だった。
「時間があるなら、来い」
叔父はそれだけ言って歩き出した。振り返らない。説明もしない。リリアナは何も聞かずについていく。
連れて行かれたのは、商会だった。
部屋には、革表紙の分厚い記録簿が並んでいた。その横には、荷送りの控えや、馬車の割付を記した紙が重ねられている。売った品、買った品、値、数。明日の便に乗せる荷。どの馬車を、どの道へ出すか。リリアナにはまだ、その違いもよく分からなかった。
働く者たちは、叔父が来るとすぐに数枚の控えを運んできた。叔父はその一枚に目を通し、短く言う。
「これは明日の便に乗せろ。こっちは一日待たせていい」
それだけで、周りの人間が動き出した。荷を積む順番が変わり、馬車に乗る品が入れ替わる。先に出るはずだった荷が後ろへ回り、別の荷が前に出る。
ただ、それだけのことだった。
けれど、荷が変われば、使いに走る者が変わる。馬車の出る時間が変わる。荷を待つ商家へ向かう人も、通る道も少し変わる。ひとつの品を動かすだけで、そこに関わる人間の予定まで少しずつずれていく。
リリアナは、それを見ていた。
叔父が王宮に命じたわけではない。誰かを罰したわけでも、知らせを出したわけでもない。ただ、荷の順番を変えただけだ。
それでも、人は動く。
そこに立つはずだった人が、別の場所へ行く。
その瞬間、胸の奥で何かが噛み合った。
知っている。
王宮でも同じだった。誰に、いつ、どの順番で声をかけるか。それだけで、人の集まる場所や、話が通る相手が変わる。あの時は、王太子の隣に立つために覚えたことだった。
けれど、目の前にあるものは、王宮で見てきたものとは少し違っていた。
ここで動くのは、席順や挨拶の順番だけではない。荷が動き、馬車が動き、人が走り、金が動く。紙に書かれたひとつの品の後ろに、倉を開ける者がいて、馬を出す者がいて、品を待っている店や家がある。
その動きは、まだリリアナには追いきれない。
それでも、守るために使えるかもしれないと思った。
叔父は、ふとリリアナを見た。
「読めるか」
差し出されたのは、さきほど叔父が見ていた控えの一枚だった。
リリアナは両手で受け取る。紙には、日付と町の名、品の名、数、馬車の印が並んでいた。意味のすべては分からない。けれど、どの荷がいつ出るのか、そのくらいなら追える。
「……日付と品の名は、分かります」
「なら、見ていろ」
叔父はそれだけ言った。
リリアナは紙から目を逸らさなかった。今日出る荷。明日に回された荷。馬車の印が変わった荷。まだ何が重要なのかは分からない。ただ、叔父のひと言で紙の上の順番が変わり、その通りに人が動いていくことだけは分かった。
確認し終えたところで、叔父が控えを引き取る。何も言わない。代わりに、別の紙が差し出された。
「これも読め」
それが答えだった。口には出さない。褒めもしない。問いもしない。ただ、もう一枚、見ろと言われている。
それからリリアナは、商会の記録を写すようになった。
日付、品名、数、値、売った家の名、買った家の名。分厚い原本には、すでに終わった取引が並んでいる。それを傷めないための写しであり、後で確認するための控えでもある。最初はただ、書かれている通りに写すだけだった。
けれど、何日も続けるうちに、同じ名前が何度も目につくようになる。同じ商家の名が短い間に何度も出てくる。先月より、同じ品の値が少し下がっている。いつもなら買う側にいる家が、今月は売る側に回っている。
見えるものは、少しずつ増えていった。
けれど、見えれば見えるほど、分からないことも増えていく。
ある日、リリアナの手が止まった。
厚手の羊毛布の列だった。冬前に値が上がるはずの品で、寒くなる前にどの家も買い足す。なのに、同じ町の商家が、短い間に何度も売りに出している。しかも、前より値が下がっていた。
「……この家、また売っています」
叔父は顔を上げない。
「何を」
「羊毛布です。前より安く」
「どう見る」
リリアナは同じ商家の名を、指でゆっくり追った。
「買っているんじゃなくて、手放しているように見えます」
冬前に布を売る家は少ない。むしろ、買い足す時期だ。それなのに、値を下げてまで出している。
余裕がないのかもしれない。
倉を空けたいのか。金が要るのか。そこまでは分からない。けれど、いつも通りではないことだけは分かった。
叔父は、それ以上聞かなかった。ただ、
「続けろ」
とだけ言う。
記録を写せば、いつもと違う動きは拾える。けれど、理由までは分からない。どうして、その商家は冬前に羊毛布を売ったのか。どうして、その町だけ薬草の値が上がっているのか。どうして、いつも買う側だった家が、今は売る側に回っているのか。
税が重くなったのか。不作があったのか。借りを返すためなのか。道が悪くなって荷が遅れているのか。それとも、どこかの誰かが先に買い占めているのか。
記録には、そこまでは書かれていない。残っているのは、品が動いた後の跡だけだった。
リリアナは指先で数字をなぞりながら、何度も同じところで止まった。
おかしいことは分かる。けれど、なぜおかしいのかが分からない。次にどこへ広がるのかも分からない。
かつて王宮で学んだことは、たしかにリリアナの中に残っている。文字も、計算も、歴史も、礼法も、貴族の家同士の関係も。誰に先に挨拶をするのか。どの席に誰が座るのか。どの家とどの家の間に、どんな距離があるのか。王太子の隣に立つために、必死に覚えたことだった。
けれど、商会の記録に出てくるものは違った。羊毛布を手放す家。値が上がる薬草。道を変える荷。予定より遅れる馬車。そこには、礼儀や歴史だけでは読めないものがあった。
紙の上で学んだことと、目の前で荷が動き、人が走り、金が動くことは、つながっている。けれど、まだリリアナの中では、そのつながりが細すぎた。
このままでは、見つけても遅い。気づいても、何もできない。
足りない。
何も知らないわけではない。けれど、今のリリアナには、現場を読むための知識が足りなかった。
ある日、リリアナは父の前に立った。
「お願いがあります」
父は書類から目を上げる。
「……なんだ」
短い声だった。けれど、目は逸らさない。
「家庭教師を、付けてください」
父の視線がわずかに揺れた。
リリアナが自分から何かを望んだのは、初めてだった。
「なぜだ」
「分からないことが、多すぎるんです」
リリアナは、握った手に少し力を込めた。
「商会の記録を見れば、いつもと違う動きは分かります。でも、どうしてそうなったのかが分かりません。税のことも、領地のことも、法のことも、薬のことも、知っているつもりで、知らないことばかりでした」
父はすぐには返さなかった。
「このままでは、気づいても、何もできません」
だから、とリリアナは続ける。
「学びたいんです」
その場には叔父もいた。商会の件で、屋敷に滞在する時間が以前より増えていた頃だった。王都に拠点を移す準備が進み、仕事を任せる人間の教育も始まっている。
叔父が口を開いた。
「……まだ付けていなかったのか」
父の眉がわずかに動く。
「必要ないと判断していた」
「付けろ」
叔父はそれだけ言った。命令でも、説得でもない。必要なものを必要だと言っただけの声だった。
父は長く息を吐く。
「……分かった」
それだけで、決まった。
最初に来た教師は、読み書きと計算を教える者だった。けれど、数日で役目を終えた。
「……理解が早すぎる」
計算は、途中式を追う前に答えへ辿り着く。歴史は出来事の並びではなく、国と家の関係として覚える。政治は名前ではなく、誰が何を決めるのかで捉える。教える側が、すぐに追いつかなくなった。
その報告を聞いた叔父は、間を置かずに言う。
「もう一人呼べ」
次に来たのは、専門の教師だった。
領地経営。貨幣。税。法。外交史。医学の基礎。
リリアナは、分からないところから順番に潰していった。なぜ値が動くのか。なぜ人が町を離れるのか。なぜ同じ薬でも、組み合わせを間違えれば毒になるのか。知りたいことはいくらでもあった。
薬師のところへ通う回数も、自然と増えていく。怪我のためだけではない。知るためだった。
「……何を覚えようとしている」
薬師が低く言う。
リリアナは少しだけ考えて答えた。
守るために必要なもの。近づかず、それでも手を伸ばすための手段。そして、あの人を生かすための知識。
「……全部です」
薬師はそれ以上聞かなかった。ただ、一度だけ頷く。
家庭教師は驚き、父は何も言わない。叔父もまた、評価を口にしなかった。ただ、必要だと判断した教師だけが増えていく。
朝は教師の前に座り、午後は商会の記録を写す。夜明け前には薬師の診療所へ向かい、傷の手当てを受けながら薬の名を覚えた。
何の薬が熱を下げるのか。何の草が血を止めるのか。何を混ぜれば身体に悪いのか。どの傷は急ぎ、どの痛みは後から悪くなるのか。
ひとつずつ、リリアナは自分の中へ入れていった。
身体が、思い出しているようだった。
王宮での日々。王太子教育。隣に立つために、必死に掴んだ時間。
けれど今は、隣に立つためじゃない。
近づかないまま、守るために使う。
リリアナの日々は、その日から少しずつ変わっていった。




