第9話 指に残る輪(2)
部屋に戻っても、すぐには横になれなかった。
背中がずきずきと痛む。少し動くだけで縫い目が引きつれ、机に手をついたまま、リリアナはしばらく息を整えていた。
机に置いた手に力が入る。背中の痛みより先に、昨夜の光景が何度も戻ってきた。刃が振り下ろされた瞬間。背中を切り裂かれた感覚。石畳に倒れたこと。祭りの灯り。倒れながら見た、エリオスの顔。
間に合った。
エリオスは生きている。
それを思えば、胸の奥に残っていた強張りが少しほどける。けれど、安心だけで終わることはできなかった。
もし、自分があの場にいなかったら。
そばにいなくても、関わらなくても、小さな望みを口にしなくても、あの場所で、あの瞬間は起きた。偶然や不運だけで片づけるには、あまりにも刃は近すぎた。
危険は、最初からそこにあったのだ。
リリアナが近づいたから生まれたものではない。離れていれば消えるものでもなかった。
そのことが、怖かった。
母の顔も声も、リリアナは知らない。母はリリアナを産んですぐに亡くなった。その後ずっと、この灰色の髪と淡い瞳は、近しい者を不幸にすると言われてきた。
何度も言われるうちに、リリアナの中でも、それは否定しきれないものになっていた。
そして実際に、エリオスは一度、リリアナのそばで死んだ。
だから、離れた。
近づかなければ、同じことは起きないと思った。隣に立たなければ、名前を呼ばれなければ、あの人を巻き込まずに済むと思った。
でも、違った。
離れていても、刃はエリオスに向かった。知らない場所で、知らないうちに、また命を奪われるかもしれなかった。
それなら。
隣には立たない。
けれど、目は離さない。
光の中に立つことはできない。それでも、影の中からなら、手を伸ばせる。危険が迫るなら、誰にも気づかれない場所からでも、もう一度、間に入ればいい。
名前を呼ばれなくていい。覚えられなくていい。感謝されなくてもいい。
彼が生きているなら、それでいい。
もう、隣に立つ側には戻れないのだと、リリアナは分かっていた。
ふと、視線が手元へ落ちる。
左手の中指に、細い輪が残っていた。
あの地下で、互いの指に通した、ただそれだけのもの。約束もなかった。誓いの言葉もなかった。けれど、刃が迫ったあの瞬間、倒れ込む寸前の視界に、エリオスの手が見えた。
同じ指に、同じ輪があった。
まだ、そこにあった。
消えていなかった。
リリアナは、指先でそっと輪に触れる。
よかった。
生きている。
それだけではなかった。あの地下で過ごした時間も、名前を呼ばれた声も、差し出された手も、全部なかったことにはなっていない。
この輪がある。エリオスの指にも、同じものがある。
たったそれだけのことに、どうしようもなく救われてしまう。
戻さなければいけないのかもしれない。あるべき場所があるのかもしれない。
けれど、まだ無理だった。
これを外してしまったら、あの時間まで手放してしまうようで怖かった。あの声も、あの光も、自分があの人と同じ時間を生きたことさえ、全部失ってしまいそうだった。
指先に残る、小さな輪。
今は、まだ、このままでいさせてほしい。
繋がっていたあの光が、消えてしまわないように。




