第9話 指に残る輪(1)
夢を見ていた。
巻き戻る前の、小さい頃の夢だった。薄暗い地下。冷たい石の匂い。小さな指に指輪が通される感触だけが、やけにはっきり残っている。
そこへ、背中を引き裂かれるような痛みが割り込んできた。
夢の輪郭がほどけ、リリアナは現実に引き戻される。
傷口が熱を持ち、皮膚の奥で痛みが脈打っていた。少し身じろぎしただけでも、背中から肩まで鋭い痛みが走る。まぶたを持ち上げると、ぼやけた灯りが視界の中で揺れていた。石の天井。知らない部屋。乾いた薬草の匂いと、煮詰めた油の匂い。その奥に、鉄のような血の気配もまだ残っている。
壁際には束ねられた薬草が逆さに吊られ、棚には小さな瓶がいくつも並んでいた。濁った色の液体、粉の入った袋、磨り減った乳鉢。ここが治療の場所だと、ぼんやりした頭でも分かった。
「……起きたか」
低い声が、すぐ近くから落ちてくる。視線を動かすと、年配の男が椅子に座っていた。深く刻まれた皺に、日に焼けた肌。伸びた無精髭。粗末な作業着の袖をまくり、まだ血のついた布を手にしている。太く節くれ立った指は、何度も命を繋いできた手に見えた。
薬師だ。
そう理解した瞬間、リリアナの胸の奥が跳ねる。
エリオスは。
起き上がろうと体に力を入れた瞬間、傷が裂けるように痛み、視界の端が白く滲んだ。
「動くな」
薬師の短い声に、身体が止まる。
「縫ってはある。だが、まだ開く」
背中に布を当て直される。染み込んだ薬が傷に触れた瞬間、焼けるような痛みが跳ねた。喉の奥まで声が上がりかけ、リリアナは奥歯を噛みしめる。薬師の手つきに無駄はなく、ためらいもなかった。
「……どうして、あそこにいた」
唐突な問いだった。責めているわけではない。ただ、見たものを確かめるような響きがある。リリアナは答えられず、唇を閉じた。
薬師は、リリアナの反応を見ながら続ける。
「昼間から、同じ場所を行き来していたな。屋台の近く、路地の入口、ベンチ。何度も」
見られていたのだと分かった。
「深刻な顔をしていた。子どもがする顔じゃない。何かを待っているように見えた」
布を絞る手が止まる。薬師は目をそらさない。
「それで、あの瞬間だ。あんた、迷わなかったな。刃が見えたわけでもない。叫びも、まだ出ていない。それなのに、一直線に飛び込んだ」
背中の奥が、びくりと強張る。傷が引きつれ、リリアナの指先に力がこもった。
「……まるで、起きると分かっていたみたいだった」
部屋の中に、その言葉だけが残る。
リリアナは何も言えなかった。言葉にしたら、何かが壊れてしまいそうだった。
薬師はしばらくリリアナを見ていたが、やがて小さく息を吐く。
「責めてるわけじゃない。あんな迷いのない踏み込み方をする子は、見たことがないだけだ」
布を畳みながら、薬師は続ける。
「普通は怖がる。逃げる。間に入るとしても、一瞬は止まる。あんたには、それがなかった」
痛みよりも先に、その言葉が胸に刺さった。
薬師は、それ以上追及しなかった。ただ、次に告げた声だけは、少しはっきりしていた。
「王太子は無事だ」
その一言で、リリアナの身体から力が抜ける。ほっとした拍子に背中が動き、また鋭い痛みが走った。
「護衛がすぐ動いた。犯人も取り押さえられた。あんたは、そのまま倒れた」
薬師の表情が、一瞬だけ和らぐ。
「運がいい」
低い声だった。
「厚手の服を着ていたのが、少しは刃を殺した。血は出たが、思ったより深くはない」
リリアナは、返事をしようとして、うまく声が出なかった。
薬師の目が、そこで厳しくなる。
「だが、背中だ。あの間合いで飛び込んだなら、刃の入り方が少し違っただけで命を落としていた。子どもが受けていい傷じゃない」
淡々とした声なのに、胸に響く。
「今夜は動くな。傷は縫ってあるが、無理をすれば開く」
薬師は立ち上がり、戸口へ向かいかけて、最後に振り返った。
「……だが、次はあんな真似はするな。生きている人間が、わざわざ刃の前に出るもんじゃない」
叱るでも、諭すでもない。ただ事実を置くような声だった。
「それでも、あの迷いのなさは、忘れられんだろうな」
そう言い残して、薬師は部屋を出ていく。戸が閉まると、灯りの揺れる音だけが残った。
背中は、まだ焼けている。
布の下で傷が脈打ち、少し体をずらすだけで痛みが跳ねた。けれど、その奥で、別の熱も消えずに残っている。
無事。
それだけでいい。
そう思ったはずなのに、胸の奥で名前のない感情が動き続けていた。
そこから先のことは、よく覚えていない。
痛みは何度も襲ってきた。傷口を内側から握り潰されるような痛みに、意識が浮いたり沈んだりする。薬草の匂い、灯りの揺れ、背中に当てられた布の感触。それらが遠くなったり、近くなったりを繰り返して、いつの間にか朝になっていた。
目が覚めたとき、外はまだ薄暗かった。灯りは消えていて、窓の向こうに淡い朝の気配だけがある。
背中は、眠る前よりはましになっていた。それでも体を起こすと、縫われた皮膚が引きつれ、冷や汗が首筋を伝う。リリアナは寝台の縁を掴み、しばらく動けなかった。
帰らなければ。
ここに長くいれば、必ず誰かの目に触れる。
「……帰るのか」
背後から低い声がした。振り向くと、薬師が戸口に立っている。
「まだ動くなと言ったはずだが」
責める声音ではない。ただ、分かりきったことを口にしているだけだった。
リリアナは少しだけ目を伏せる。
「……帰ります」
それだけ言うと、薬師はしばらく黙っていた。それから、ゆっくり歩み寄り、背中に触れて包帯を確かめる。
「……熱が出るかもしれん」
ぼそりと告げられた言葉に、リリアナはわずかに顔を上げた。
「傷そのものは、思ったより浅く済んでいる。だが、妙な腫れ方をしている。刃で裂かれた傷というより、内側からじわじわ悪くなる類だ」
説明というより、観察だった。薬師の指先が傷の周囲を確かめていく。触れられるたびに痛みが走り、リリアナは膝の上で手を握った。
「数日、様子を見ろ。痛みが増す。熱が続く。夢見が悪くなる。そのどれかが出たら、また来い」
少し間を置いて、薬師は眉を寄せた。
「……理由は、まだ分からんがな」
言葉は軽い。だが、視線は鋭いままだった。
「王家の周りでは、昔から似た話がある。傷が妙に残る。治りが遅い。原因が分からない。そういうのは、薬だけじゃ、どうにもならんことが多い」
リリアナは、顔を上げた。
薬師は、それ以上詳しくは言わない。包帯を整えながら、淡々と続ける。
「古い記録なら、多少ある。解決できるとは限らんが、知っておく意味はあるだろう。来たければ来い。追い返しはせん」
それだけ言って、手を離した。
リリアナは小さくうなずいた。礼を言おうとしたが、声にすれば、こらえていたものまでこぼれそうだった。
戸口へ向かう足取りは、まだ覚束ない。外は夜と朝の境目で、人のいない通りに冷たい空気が流れていた。
振り返らない。
屋敷へ向かう道を、ただ歩く。一歩踏み出すたび、背中の傷が引きつれる。包帯の下で熱が膨らみ、足元が何度もふらついた。それでも、歩けないほどではない。壁に手をつきながら、リリアナは前だけを見る。
門はまだ開ききっておらず、使用人の気配もほとんどない。リリアナは足音を殺して中へ入り、灯りの落ちた廊下を抜けた。 誰にも会わない。誰にも呼び止められない。
幼い娘が夜明けに戻ってきても、この屋敷では大きな騒ぎにはならない。リリアナがどこにいて、いつ帰ったのかを気にする大人は、最初からほとんどいなかった。
自分の部屋の扉を、そっと閉める。
それで、終わりだった。
誰も、何も知らないまま。




