第8話 伸ばした手の先に(2)エリオス
最初に気づいたのは、人の流れの乱れだった。
祝祭の喧騒は続いている。笑い声も、屋台の呼び込みも、行き交う足音も変わらない。けれど背後の近い場所で、誰かが踏み込んでくる気配がする。
近い。背後だ。
振り向くより早く、身体が反応した。視界の端に影が入り込んだ次の瞬間、胸を強く押される。身体が横へ弾かれた。
小さい。布に覆われた顔。子ども。誰か分からない。その子は、エリオスを押し出した勢いのまま、彼が立っていた場所へ滑り込む。
刃が振り下ろされた。
鈍い音がして、布が裂ける。赤が散った。
エリオスは動けなかった。
目の前で、その子が崩れ落ちる。石畳に倒れながら、布の隙間から覗いた目が、一瞬だけこちらを見た。淡い灰色の瞳。街灯を受けて、その奥に青とも紫ともつかない色がかすかに揺れる。
目が離れなかった。
「……よかっ、た」
かすれた声だった。ほとんど声になっていない。
どうして、その言葉が出るのか分からない。背中を斬られたのは、その子の方だ。倒れているのも、その子だ。痛いはずなのに、怖いはずなのに、それなのに、その目には安堵がにじんでいた。エリオスを確かめる目だった。
無事か、と。
手が勝手に伸びる。届かせなければならないと思った。理由を考える余裕などない。ただ、このまま離してはいけない気がした。
次の瞬間、兵士たちが動く。
「殿下を守れ!」
犯人が取り押さえられる。人の波が押し寄せ、護衛の腕がエリオスの肩を掴んだ。
「待って――!」
声が出た。
「待って!! その子……!」
届かない。
倒れた身体が、兵と人垣の向こうに隠されていく。エリオスはなおも手を伸ばした。指先が空を掴む。何かを奪われていくような焦りだけが、身体を突き動かしている。
灰色の瞳が、人の隙間の向こうへ消える。
そのまま、馬車に押し込まれた。扉が閉まり、外の音が厚い板の向こうへ遠ざかっていく。
揺れ始めた馬車の中で、エリオスは伸ばしたままの手を引き寄せた。指が、無意識に左手の中指へ触れる。そこにある輪を、強く握り込む。
あの子の手は、掴めなかった。
守られたのは、自分だ。それだけが、動かしようのない事実だった。
王宮に戻る頃には、祝祭のざわめきは遠い音になっていた。
馬車が止まり、扉が開く。侍従の声がして、兵の足音が近づいてくる。王宮の灯りは明るすぎるほどで、誰もがエリオスだけを見ていた。無事か、怪我はないか、顔色はどうか。差し出される手も、向けられる声も、すべて彼のためのものだった。
「殿下、お怪我は」
その言葉に、胸の奥がざらつく。
怪我をしたのは自分ではない。血を流して倒れた子がいた。けれど、ここで確かめられるのはエリオスの身体ばかりで、あの子の名前は誰の口からも出てこない。
差し出された手を振り払いかけて、直前で止める。何も言わず、そのまま歩き出した。
部屋に通されると、すぐに医師が呼ばれた。脈を取り、瞳を見て、呼吸を確かめ、衣服の上から外傷の有無を調べていく。手順は丁寧で、間違ってはいない。だからこそ、エリオスは何も言えなかった。
「外傷はございません。念のため、今夜はお休みください」
それだけだった。
「……殿下は無事です」
無事。
その言葉の外側に、あの子の血が置き去りにされた気がした。
医師が下がり、侍従たちも退室する。部屋に残ったのは、控えていた兵だけだった。エリオスはしばらく窓の前に立ち、外の方を見る。王宮の外には、まだ灯りが残っている。けれど、さっきまでの祝祭の声はもう届かない。通りは封鎖され、屋台の火も落とされ、人々は兵に誘導されている頃だろう。
その中で、あの子はどうなったのか。
誰が運んだのか。どこへ連れていかれたのか。あの石畳の上に倒れていた小さな身体のことを、今も誰かが見ているのか。
自分だけが、ここに戻されていた。
「……あの子は」
気づけば、声が出ていた。
兵が姿勢を正す。
「はい」
「今日、俺の前に出てきた子だ」
言葉を探す。うまく形にならない。
「……無事なのか」
兵の視線が、わずかに揺れた。
「それが……」
言い淀む声に、嫌な予感がする。
「分からないのか」
「はい」
兵は、正直に答えた。
「倒れている子どもがいたことは確認されています。ですが、混乱の中で、その後の所在が追えておりません。負傷者の確認も行いましたが、該当する者は見つかっていません」
エリオスは、すぐには意味を理解できなかった。
「……いない?」
「はい。名も、身元も、不明のままです」
いない。
死んだと告げられたわけではなく、助かったと言われたわけでもない。ただ分からない。確認できない。名前も身元もないまま、あの子だけが消えている。
あれほど近くにいたのに。自分の前に飛び込んできて、血を流して倒れたのに。
「……そう」
それだけ言って、兵を下がらせた。
扉が閉まり、部屋にひとりになる。助かったのは自分だと分かっている。けれど、その代わりに誰かが傷ついた。名前も知らず、顔もはっきりとは分からず、声もたった一言しか覚えていない。それでも、布の隙間から見えたあの目だけが消えなかった。
あの目に、恐怖は薄かった。助けを求める目でもなかった。
「……よかっ、た」
かすれた声が、耳に残っている。あの子は倒れながらエリオスを見ていた。自分の傷より先に、エリオスが無事かどうかを確かめていた。
「……なぜ」
答える者はいない。
エリオスは左手を握った。指先に触れる小さな輪。金属の冷たさだけが、今夜の中で確かなもののように思える。
その夜、眠ることはできなかった。
目を閉じれば、石畳に倒れた小さな身体が浮かぶ。灰を薄く溶かしたような瞳。灯りの中で一瞬だけ揺れた、青と紫の色。かすれた声。伸ばしたのに、届かなかった手。
夜が明けても、同じだった。あの子は誰だったのか。どこへ消えたのか。なぜ、自分を庇ったのか。答えのない問いだけが、何度も戻ってくる。
数日後、祝祭の片付けは終わっていた。旗も灯りも跡形もなく、街はいつもの顔に戻っている。それなのに、あの日の場所だけが、エリオスの目には別のものに見えた。
探しに来たのだ。
あの日、自分の前に飛び込んできた、あの子を。
王太子襲撃から、まだ日も経っていない。本来なら外出など許されるはずがなかった。それでもエリオスが押し切った。警護の数は普段の倍以上で、自由に歩いているというより、囲われて進んでいるに近い。
それでも、歩く。
名前も知らない。顔も分からない。分かっているのは、背中に刃を受けて、それでも最後にこちらを見たこと。そして、「……よかった」と言って、安心したように意識を手放したことだけだった。
「このあたりだ」
足を止める。
あの日と同じ路地。血の跡は、もうない。石畳は洗われ、店先にはいつも通り品物が並び、通りを行く人々は足早に過ぎていく。何も残っていない。確かにあの子が倒れていた場所なのに、その跡だけが、先に消されてしまったように見えた。
警護の一人が、近くの店に声をかける。
「祝祭の日、このあたりで怪我をした子どもを見ませんでしたか」
店主の顔が強ばる。
「王太子殿下の……あの……」
そこまでは口にできても、その先は続かない。
「いえ……兵の方々がすぐに来られて……その後のことは……」
別の店にも聞いた。菓子屋。服屋。通りを行き交う人。答えはほとんど同じだった。
誰も、はっきりとは見ていない。
人々の口から出てくるのは、王太子が襲われたことと、犯人が取り押さえられた騒ぎばかりだった。小さな身体がその前に飛び込んだことも、倒れたことも、誰かの目には入っていたはずなのに、そこから先を説明できる者はいない。
「……そんなはずはない」
声がこぼれた。
「確かに、いた。俺の前で倒れた」
言葉にしても、何も変わらない。それでも言わずにはいられなかった。探しても、探しても、見つからない。けれど、あの日伸ばした手の感覚だけは残っている。
通りの奥に、小さな診療所があった。窓は閉じられ、扉も半ば閉ざされている。干した薬草が、軒先で揺れていた。警護が声をかける。
「祝祭の日、怪我人が運び込まれたりは?」
中から現れた年配の薬師は、すぐに首を振った。
「……いえ。あの日は来ていません」
それだけを告げて、奥へ引っ込む。
エリオスは、その閉じた扉をしばらく見ていた。何か言うべきことがある気がした。けれど、言葉は出てこない。
少し離れた場所で、ノアも捜索に加わっていた。命じられたわけではない。それでも、そこにいた。
ノアは、兄の様子を見ていた。路地の入口、石畳、人が立っていた位置。エリオスは同じ場所ばかり見ている。ただ思い出しているのではない。今もまだ、そこに何かが残っていると信じて探している目だった。
日が傾いてきた頃、ノアが小さく呼ぶ。
「……兄上」
エリオスが振り向く。
「日が落ちる」
止めるための言葉ではなかった。ただ、気づいたことを口にしただけだ。エリオスは少し黙ったあと、視線を路地へ戻す。
「……もう少しだけ」
ノアは、それ以上言わなかった。
そんなにか、と思う。理由は分からない。けれど、あの日のことが兄の中で終わっていないのは、見ていれば分かった。
「……もう一度、あっちだ」
エリオスが言うと、警護の足が半歩だけ遅れた。
「殿下、先ほども――」
「いい」
声は大きくない。それでも、退くつもりがないことだけは伝わった。
同じ路地へ戻る。同じ場所を見る。同じ問いを繰り返す。それでも、答えはどこにもない。
人が減っていく。店先の音が遠のき、光が傾く。エリオスは、あの日、手を伸ばした場所で立ち止まった。
掴めなかった距離。灰色の瞳が、人の隙間の向こうへ消えていった瞬間。指先が、わずかに動く。
届かなかった感触だけが、今も残っている。
「……もういい」
ぽつりと、こぼれた。
諦めたわけではない。ただ、今日はここまでだと、自分に言い聞かせるための声だった。
踵を返す。警護が動き、ノアも何も言わずに並んだ。
手がかりは、なにも得られなかった。何ひとつ。
それでも、あの瞳だけが、エリオスの中に残った。
忘れようとしても、消えない場所に。




