第8話 伸ばした手の先に(1)
夕刻。日が傾き、通りの影が長く伸びはじめていた。空にはまだ青みが残っている。それでも建物の隙間には、少しずつ夜の色が降りてきている。
屋台の火、街灯、誕生祭の飾り灯。ひとつ、またひとつと明かりがともり、露店の声が重なっていく。昼の明るさとは違う、夜の祭りが始まろうとしていた。
大通りは混雑している。笑い声、酒の匂い、屋台の呼び込み。祝祭の熱が、通りいっぱいに満ちていた。
エリオスは、護衛に囲まれたまま歩いている。王太子としての視察。街の様子を見る、それだけの役目だった。
護衛たちは、人の流れを読みながら進む。露店の配置、通りの幅、灯りの位置、死角になる建物の影。警備に必要なことを、ひとつずつ確かめていく。
「北側、混雑が強い」
「南は抜けやすい」
「夜半は人が偏るな」
短い報告が低く交わされる。エリオスはそれに頷くだけで、立ち止まらない。声もかけない。ただ、人の表情、店の灯り、酔い始めた者の足取りを目で追っていた。祝祭の熱がどこで濃くなり、どこで緩むのか。そういうものを見るのも、王太子の務めの一つなのだろう。
前方で、人の流れが詰まっていた。
焼き菓子の屋台だ。昼から出ていた人気の店に人が集まり、輪の形の菓子を求めて列が伸びている。焼き上がりを知らせる声が上がるたび、集まった客が前へ押し出される。甘い匂いが、風に乗って流れてきた。
護衛同士が、すばやく視線を交わす。
「この先、通りにくいな」
「横路へ迂回する」
短い確認のあと、一人がエリオスの斜め前へ出る。
「こちらの通りを通ります」
一本横の通りへ入った。人通りはある。祭りの延長線にある道だ。ただ、露店の並びが少し薄くなり、大通りの熱から、わずかに外れている。
エリオスは、何も言わず従った。
足音が少し控えめになる。灯りの間隔が広くなり、人の流れも、押し合うほどの密集から、まばらな動きへ変わっていく。護衛の一人が、周囲を見ながら小さく告げる。
「この先で、再び大通りへ戻ります」
予定の微調整。それだけのことだった。視察は、そのまま続くはずだった。
少し離れた場所で、リリアナは立ち止まっていた。
大通りには、昼よりも濃い賑わいが満ちている。露店の声、笑い声、人の流れ。焼き菓子の屋台の前には、まだ長い列ができていた。
リリアナは、通りの様子を見る。人の流れ。露店の影。行き交う声。どこにも、異変はない。
胸の奥のざわつきが、少しずつ収まっていく。
大丈夫そう。
肩の力が、ほんの少し抜けた。
帰ろう。そう思って、体の向きを変えた、そのときだった。
人の隙間の向こうに、見覚えのある色が揺れた。
金の髪。護衛の影。王太子の外套。
エリオス。
その名が、胸の中で跳ねる。
なんで。ここに。
足が動かない。視線だけが、そちらへ向いた。護衛に囲まれ、ゆっくりと進んでくる。灯りの中で、その姿が揺れる。
そのすぐ近くで、人の流れに逆らう影があった。
祭りを楽しむ客ではない。屋台を見るでも、誰かを探すでもない。ただ、身体を低くして、護衛の隙間へ滑り込むように近づいていく。手元が、布の影に隠れている。
リリアナの視線が、その一点に吸い寄せられた。
次の瞬間、影が動く。
速い。
考えるより先に、体が走っていた。人の間を抜け、一直線に飛び込む。
刃が、振り下ろされる。
リリアナは、エリオスの胸を強く押した。エリオスの身体が横へ弾かれる。その隙間に、自分が入る。
背中に、焼けるような痛みが走った。
身体が前へ崩れ、石畳にうつ伏せに落ちる。灯りが揺れ、人の声が遠くなる。
間に合った。
顔を上げる。すぐ目の前に、エリオスがいる。
無事だ。
傷はない。
それを確かめた瞬間、胸の奥に張りついていたものがほどけていった。
「……よかっ、た」
かすれた声が、こぼれる。
エリオスの手が、こちらへ伸びた。反射のように。触れようとして、指先が灯りを受ける。
小さな光が見えた。
輪。
指輪。
視界が、白く弾ける。遅れて、痛みが押し寄せてきた。手足から力が抜け、音が遠ざかる。灯りが滲む。
最後に見えたのは、伸ばされた手と、その中指で光る小さな輪だった。
◇
夢を見ていた。
巻き戻る前の、小さい頃の夢だ。宮殿に来て、しばらく経った頃。人の名前や、長い廊下の曲がり方を覚え、ようやく自分の居場所を少しだけ見つけ始めた頃。エリオスやノアと、宮殿の中を歩くことにも慣れてきた頃だった。
その日は、好奇心のまま、エリオスと二人で地下へ降りた。
宮殿の奥、人の気配の途切れる区画。重い扉の先に、使われなくなった保管室があった。古い石の匂い、積まれた箱、布をかけられた棚。忘れられたものが、ここで長い時間を眠っている。
その奥で、エリオスが半ば崩れた台の上に置かれた王冠を見つけた。
「……重いな、これ」
試しに頭に乗せて、すぐに苦笑する。似合っているのに、嬉しそうではなかった。
少し黙ったあと、エリオスがぽつりと言う。
「これを被ったら、俺、俺じゃなくなる気がする」
リリアナは、その顔を見上げた。理由は分からない。でも、目を離せなかった。
「王様でも、王様じゃなくても、エリオスはエリオスだよ」
言葉は、考えるより先に出ていた。
エリオスは言葉をなくしたようにリリアナを見て、それから小さく笑う。
「……そっか」
王冠を台の上へ戻すと、エリオスは隣に置かれていた箱へ目を向けた。古びた留め金を外して蓋を開ける。中には、細い指輪が二つ並んでいた。
飾り気のない、同じ形の輪。
「……あ」
リリアナが、小さく声をこぼす。そっとひとつ手に取って、光にかざした。
「童話の、王様と聖女さまの指輪みたい……」
一人で何度も読んだ物語に出てきた、あの輪。自分には触れることのないものだと思っていた。
リリアナは、しばらく指輪を見つめていた。小さな輪の向こうに光を透かして、何度も角度を変える。エリオスは、その横顔を見ていた。
やがて、リリアナの手からその指輪を受け取る。
そして、リリアナの手に触れた。
壊れやすいものに触れるように、指先をそっと取る。小さな指に輪を通すと、指輪はするりと滑り落ちて、左手の中指の根元まで来たところで、かろうじて止まった。
合っているわけではない。少し手を動かせば、すぐに抜けてしまいそうだった。それでも、ぎりぎりのところで落ちない。
リリアナが顔を上げる。目が合う。
エリオスは、視線を逸らさないまま言った。
「……リリー」
その呼び方は、胸の奥へまっすぐ落ちてきた。名前を呼ばれた、というより、自分がそこにいていいと、置かれたようだった。指先に残る体温と、重ならないはずの鼓動が、少しだけ早くなる。
エリオスは、何か言いかけて、やめる。
言葉にならないまま、輪を押さえた。ほんの少し動けば落ちてしまいそうな輪を、そこに留めておくように。
「……ここなら、落ちない」
それだけを告げると、エリオスは箱に残っていたもうひとつの指輪を取って、リリアナの手のひらに置いた。
「……それ」
言いにくそうにしながらも、エリオスは左手を差し出したままだった。
「俺にも」
リリアナは、うなずく。少し背伸びして、エリオスの左手を取った。同じ中指に指輪を通す。大きくて、指の根元まで落ちる。そこで止まった。
二人の手は、そのまま少しだけ重なっていた。
約束の言葉は、交わしていない。意味も、知らないまま。
ただ、そこに、輪だけが残った。
どうして。
この光景が、いま、こんなにもはっきり浮かぶのだろう。
灯りの中。伸ばされた手。その先で、かすかに光っていた小さな輪。意識を手放す直前、最後に見えた光と重なっている。
まだ、出会っていないはずなのに。
どうして、あの人の手にあったのだろう。
理由なんて分からない。指輪のことも。あのとき、エリオスが飲み込んだ言葉のことも。
でも、あの時間は、確かにあった。
あの場所で過ごした日々が、消えないまま胸の奥に残っている。
思い出すと、胸が温かくなる。けれど、同じ場所が痛む。
もう、戻れない。
あの頃には。あの場所には。あの人の隣には。
それでも、灯りの中で見たあの輪の光だけが、夢の底でいつまでも揺れていた。




