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第7話 誕生祭(3)

時が巻き戻る前の、誕生祭の昼。


 リリアナが王宮に来て、まだ間もない頃だった。窓の外では、誕生祭の熱がゆっくりと街に満ちていく。王宮前のお披露目を終えた人の流れは、そのまま市場へ向かっていた。旗が揺れ、屋台の声が重なり、焼き上がる菓子の匂いが風に混ざる。


 リリアナは、窓辺で足を止めていた。


「誕生祭。夕方から、もっと人が増える」


 背後から、エリオスの声がした。彼はリリアナの隣まで来ると、同じように窓の外を見る。


「屋台も、夜まで出る。焼き菓子とか。この日だけのやつもある」


 輪の形に焼かれた、大きな菓子。蜂蜜を練り込み、刻んだドライフルーツを混ぜた、香ばしい匂いのするもの。


「……いいな」


 リリアナの声は小さかった。言ってしまってから、自分でも少し驚いて、すぐに視線を外す。


 欲しい、なんて。


 そういう言葉を、口にしたことがなかった。


「食べたこと、ない?」


 エリオスが尋ねる。


 リリアナは、首を振った。


「……お祭り、行ったことない」


 言葉が途切れる。外の喧騒だけが、窓の向こうで続いていた。リリアナは、もう一度だけ市場の方を見る。屋台の布が風に揺れ、人の流れが少しずつ太くなっていく。


「その焼き菓子、食べてみたいな」


 今度は、思ったよりしっかり声になった。


 エリオスが、リリアナを見る。


 すぐには何も言わない。その目が、少しだけ開く。驚いたように。それから、確かめるようにリリアナを見た。


「……甘いの、好き?」


「うん」


 即答だった。


 エリオスは、ほんの少しだけ口元を上げた。


「じゃあ、今夜、持ってくる」


 リリアナが、目を丸くする。


「……いいの?」


「いいよ」


 エリオスは、少し得意そうに笑った。


「誕生祭のやつ、市場のが一番うまいから」


 それから、窓の外へ視線を戻す。


「夜、街の様子を見て回ることになってる。王太子の務めだから、民の顔を見ておけって」


 務め、という言葉のところだけ、ほんの少し声が硬くなった。


 外では楽しそうな声が重なっている。人々は笑いながら屋台へ向かい、通りには旗が揺れていた。エリオスはそれを見ている。自分の誕生日なのに、その顔は、喜んでいるというより、遠くのものを眺めているように見えた。


 リリアナは、その横顔を見ていた。


「誕生日って、すごい日なんだね」


 エリオスが、わずかに目を動かす。


「人が集まって、祝ってくれて」


「……うれしいな」


 リリアナは、本当にうれしそうに笑った。


「エリオスが、生まれてきてくれてよかった」


 エリオスが、目を瞬かせる。


「……え?」


「生まれてきてくれて、ありがとう」


 誰かを喜ばせようとして出た言葉ではなかった。飾ったわけでも、慰めたわけでもない。ただ、本当にそう思ったから、口から出た。


 エリオスの動きが止まる。腕を組もうとしていた手が途中で止まり、そのまま下ろされた。視線が外から戻る。


 リリアナを見る。


 何も言わない。ただ、じっと見ている。


 瞬きが一度。少し遅れて、もう一度。


 泣きそうに見えたのは、一瞬だけだった。


 次の瞬間には、もう目を逸らしている。


「……大きいやつにする」


 声は、さっきより少し小さかった。


 リリアナが、首を傾げる。


「大きいの?」


「輪になってるから、皆で割って食べるんだって。幸せを分ける菓子なんだ」


「戻ったら、半分こして一緒に食べよう」


 それだけの会話だった。


 ただ、その言葉が残った。


 自分が、望んでしまった。


 普通の、小さな幸せを。


 その夜、王宮が騒がしくなった。


 廊下を走る足音。押し殺した声。


「道を開けろ!」


「医師を!」


 何が起きたのか、分からない。ただ、人の波の向こうから担架が運ばれてくるのが見えた。


 その上に横たわっているのは、エリオスだった。


 背のあたりから血が滲んでいる。顔は青く、意識はない。


 誰かが言う。


「視察の帰りに、屋台へ寄られたらしい」


「……寄り道?」


「ええ。殿下が、少しだけ、と」


 別の声が続く。


「持ち物が……」


 紙袋が、床に落ちた。中から、崩れた輪の菓子が転がり出る。


 蜂蜜の匂い。焼けた生地。ドライフルーツの甘い香り。


 みんなで分けるための、大きな輪菓子。


 それが、砕けていた。


 粉が、石の床に散っている。


 市場の焼き菓子。


 胸の奥が、強く引き絞られる。


 あの人は、屋台に寄った。


 私が、食べてみたいと言ったから。


 私が、望んだから。


 普通の幸せを、口にしてしまったから。


 だから、そこを通ってしまった。


 刃に、届く位置に。


 声は出なかった。ただ、胸の中にだけ、言葉が落ちる。


 私のせいだ。


 割れた輪菓子が、床に転がっている。


 形を失ったまま。


 あの日、自分が望んでしまったものの形のように。

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