第4話 会わなかった日(7)エリオス
エリオスが屋敷に入った瞬間、
違和感があった。
整っている――ように見える。
床は磨かれている。
廊下も片付いている。
花も飾られている。
けれど。
どれも、
慌てて手を入れた跡だった。
隅の埃は残っている。
調度品の金具はくすんだまま。
壁の傷も、
そのまま。
噴水の水も、
澄んでいない。
手入れが積み重なった家の空気じゃない。
“取り繕った”だけの静けさ。
外側だけを整えて、
中身は追いついていない。
だから、
余計に落ち着かない。
視線の動きが、
揃いすぎている。
使用人の足音も、
言葉の落とし方も。
自然じゃない。
廊下の奥で、人の気配が慌ただしく動いた。
言葉までは聞こえない。
けれど。
誰かを探しているような、
落ち着かない空気だけが残った。
「バルディエ家は、
祖父の代までは王宮の中心に近かった家です」
隣を歩く側近が、
静かに説明する。
「王への功績も大きい。
今も名と実力は残っています」
残っている。
その言い方が、
少しだけ引っかかった。
「人は?」
短く聞く。
側近が、
わずかに言葉を選ぶ。
「……祖父の代を境に、
離れた者も多いと」
エリオスは、
それ以上は聞かなかった。
十分だった。
功績はある。
家格もある。
だが、
人が残らない家。
王家の血が、
ここに入るのは――
好ましくない。
政治として、
そう判断が落ちる。
客間に通される。
父親が、
すぐに頭を下げる。
継母も、
続く。
言葉は丁寧で、
形式も完璧だった。
だが。
視線が合わない。
笑顔が、
遅れてくる。
視線が、やけに低い。
王子を見る目だ。
人を見る目じゃない。
——面倒だな、とだけ思った。
「本日は、
名授けの後のご挨拶に参りました」
自分の声が、
いつもより少しだけ硬いと、
エリオスは気づいていた。
父親が頷き、
すぐに話を始める。
家の歴史。
忠誠。
祖父の功績。
全部、
準備されていた言葉だった。
継母も、
言葉を継ぐ。
「娘も、
日々学びを怠らず――」
そこで、
ほんのわずかに、
言葉が詰まった。
エリオスは、
見逃さなかった。
「子どもは?」
空気が、
止まる。
ほんの一瞬。
父親が、
すぐに笑顔を作る。
「……少し、
体調を崩しておりまして」
継母が、
横から言葉を重ねる。
「急なことで。
お目通りさせるには――」
言葉が、
揃いすぎていた。
その場で整えた説明だと、
すぐに分かる。
そのとき。
背後で、
控えめな足音。
止まる。
小さな声。
「……奥様」
継母が、
わずかに振り向く。
メイドが、
さらに声を落とす。
「やはりお嬢様が……
どこにも見当たりません」
空気が、
一瞬だけ凍る。
継母は、
すぐに笑顔を作り直した。
「部屋を移しております。
発熱が続いていて」
父親も、
重ねる。
「ご心配には及びません」
エリオスは、
何も言わなかった。
聞かなかったことにする。
それが、
礼儀でもあり、
判断でもあった。
もう、
十分だった。
立ち上がる。
「今日はこれで」
短く告げる。
父親も、
継母も、
深く頭を下げる。
客間を出る。
背後で、
慌ただしい気配が動く。
誰かを探す足音。
女の声が、低く飛ぶ。
「お嬢様が――」
そこで、
扉が閉まった。
それ以上は、
聞こえなかった。
振り返らない。
理由がない。
外へ出る。
屋敷の空気が、
背中から離れていく。
胸の奥の重さが、
少しだけほどける。
「少し、
寄ってもいい?」
側近に言う。
「時間はあります」
馬車を止めさせる。
屋敷から少し離れた、
草地。
木陰。
風が通る場所。
降りる。
一人になる。
足が、
自然に進む。
どこへ向かうのか、
自分でも分からないまま。
草が、
揺れる。
白い花が、
目に入る。
百合だった。
なぜか、
足が止まる。
細い茎が、
風に押されて揺れる。
白い花弁が、
重なって開いている。
派手じゃない。
香りも強くない。
ただ、
そこだけ空気が澄んでいる。
胸の奥が、
ゆっくり、
温かくなる。
「あ」
声が、
こぼれた。
「……好きだな」
自分の声だと、
遅れて気づく。
理由は、
分からない。
見ているだけで、
呼吸が深くなる。
それと同時に。
胸の奥に、
重い喪失感が広がる。
何かを、
決定的に取りこぼしてしまったような。
手のひらの上にあったはずのものが、
気づかないうちに、
消えていたみたいに。
けれど。
何も、
失っていない。
ここに来るまで、
何も起きていない。
なのに。
その感覚だけが、
消えない。
百合が、
静かに揺れている。
エリオスは、
しばらく、
そこから動けなかった。




