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第4話 会わなかった日(6)

あの日ーー


朝から、家の空気が少しだけ違っていた。

静かなのに、

どこか慌ただしい。


廊下を歩く足音が増え、

使用人の声が低く交わされる。


けれど、

リリアナには何も告げられなかった。


いつもと同じ。

名前も、予定も、理由も、

ここでは与えられない。


朝食は置かれていた。

冷めていた。

誰もいない。


椅子に座って、

しばらく眺めて、

そのまま立ち去った。


食べなくても、何も言われない。

生きていても、

いなくても、

同じだから。


部屋に戻る途中、

扉の向こうから声が聞こえた。


「本日、第一王子殿下が」


その言葉だけが、

耳に引っかかった。


王子。

それが、どれだけ遠い存在なのか、

リリアナは知っている。


自分とは関係のない、

光の中の人。

呼ばれない世界の、

向こう側の人。


しばらくして、

部屋の扉が開いた。


「着替えを」


短い言葉。

見慣れない服が運ばれてくる。

サイズは合っていない。

派手で、重たい。

身体の上に“乗せられる”。


鏡の前に立たされる。


「……これで」


それだけ。

靴も合っていない。


ただ、

「子どもがいる」と示すための

外側だけが作られる。


リリアナは、

何も言わなかった。

言っても、

変わらないから。


客間へ連れて行かれる途中、

ふと思う。


——ここに、いなくてもいい。


自分がいなくても、

この家は何も困らない。


その考えは、

怖くも悲しくもなかった。

ただ、

そういうものだと分かっていた。


客間の扉の前で、

足が止まる。

中から、声がする。


幼いのに、

はっきりと通る声。


王子の声だと、分かった。


形式的な言葉が続く。

扉が開く。

部屋の中に入る。


光が差し込んでいた。

その中央に、

ひとりの少年が立っていた。


金の髪。

まっすぐな姿勢。

整った服。


視線だけが、

こちらを見ていた。


——見られている。


その感覚に、

息が止まる。


まっすぐ。

逃げ場がないくらい、

まっすぐ。


椅子に座らされる。

沈黙。


周囲の大人たちが、

話をしている。

家の歴史。

忠誠。

未来。


自分の話は、

ひとつも出ない。

いつも通り。


やがて。


「……二人にしていただけますか」


その声が、落ちる。

空気が変わる。

扉が閉まる。

静かになる。


少年が、

ゆっくりと近づいてきた。

しゃがみ込む。


視線の高さが、

同じになる。


「……聞こえるか」


初めて、

自分に向けて言われた言葉。


頷くことも、

返事をすることも、

すぐにはできなかった。


喉が、動かない。


「名前は?」


間。


リリアナは、

口を開く。


「……あります」


自分でも、

変な答えだと思った。


名前はある。

でも、

呼ばれない。


だから、

あるのかないのか、

分からなくなる。


少年の眉が、

わずかに動いた。


「そうじゃない」


声は、

柔らかくなっていた。


「名前を、教えてほしい」


言葉を選ぶような、

慎重な声。


リリアナは、

少しだけ迷って、


「……リリアナ、です」


と答えた。


少年の口が、

小さく動く。


「リリアナ」


呼ばれた。

ちゃんと。

名前として。


その瞬間、

胸の奥に、

熱が落ちた。

強く。

でも、静かに。


少年は、

しばらく黙っていた。


それから、

少しだけ言葉を探すようにして


「ここで、生きていて、楽しいか」


そう聞いた。


分からなかった。

楽しい、の意味が。


「……分かりません」


正直に答える。


「じゃあ、生きたいか」


間。


考える。

理由がない。

それだけだった。


「……理由が、ないので」


そう言ったあと、

部屋の空気が少しだけ止まった。


少年は、

すぐには何も言わなかった。

視線だけが、

リリアナから外れない。


やがて、


「……じゃあ」


小さく、そう言った。


考えた末、というより、

口から落ちた言葉だった。


「俺が、なるよ」


一瞬、意味が分からない。


「……」


少年は、そのまま続けた。


「俺を、生きる理由にして」


静かな声だった。

まっすぐだった。

命令でも、慰めでもない。


何かを差し出すみたいに。


——願うように。


リリアナは、

言葉を返せなかった。


胸の奥に、

何かが落ちてくる。


はじめて、

「自分がここにいていい」と

言われた気がした。


——あのときから。


あの人は、

私の光だ。

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