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第6話 それぞれの場所 で(2)エリオス

王宮の廊下は、朝から落ち着かなかった。


 布を抱えた侍女が行き交い、騎士たちはいつもより短い声で指示を交わしている。誕生祭が近づくと、城は少しずつ別の顔になる。祝うための飾りが増え、人の数が増え、エリオスを見つける目も増える。


 窓の外では、庭師たちが噴水の周りに白と金の布を掛けていた。花の籠が次々と運び込まれ、まだ途中なのに、そこだけもう祝う日の形に近づいている。エリオスは、しばらくそれを見ていた。


「……兄上。見つけた」


 軽い足音が近づいてくる。振り返らなくても、ノアだと分かった。


「ノア」


 七歳の弟は、まだ足音を隠せない。軽くて、速い。すぐ横に並ぶと、窓枠に肘をかけ、つま先を少し浮かせる。


「衣装係が探してたよ。兄上、逃げてる?」


「逃げてないよ」


「逃げてる顔」


 エリオスは、少しだけ笑った。


「顔で分かる?」


「分かる」


 即答だった。


「兄上の、嫌なときの顔」


 兄上。人前での呼び方だ。二人きりのとき、ノアはエリオスを名前で呼ぶ。少し生意気で、王宮の者が聞けば眉を上げるかもしれない。それでも、エリオスはその呼び方が嫌いではなかった。


 王太子でも、第一王子でもない。ただ兄弟でいられる呼び方だから。


「……エリオス、でいいよ」


 ノアが肩をすくめる。


「分かってる」


 そして、小さく続ける。


「でも……今は、兄上って言っといた方がいいかなって」


 エリオスは、それ以上突っ込まなかった。ノアの視線が、窓の外へ向く。


「すごい」


「なにが?」


「人」


 庭にも、通路にも、準備の人間が増えている。


「祝日だからな」


「エリオスの誕生日って、国の行事なんだよね」


「そうなるね」


 七歳のときの名授けの儀で、エリオスは第一王子として公に名を告げられた。その瞬間から、王太子と定められる。第一王子は、名授けを受けた時点で王太子になる。それ以来、誕生日は毎年、誕生祭として祝われてきた。


 王と王太子の誕生日だけが、城の内外を挙げて祝われる日になる。王都全体が、その日を祝う。露店が並び、楽師が呼ばれ、民は王家の未来を祝う。十歳の誕生日も、同じだ。


 祝われるのはエリオスであって、エリオスだけではない。王太子という名で、この国の先を祝う日になる。そのことを、ノアはもう分かっている。


 エリオスは、どこか自分ではない誰かの話をするように言った。


 ノアが、窓の外を見たまま言う。


「……逃げ場、なくなっちゃった?」


 冗談に聞こえる。けれど、冗談だけではない。


 エリオスは笑った。


「もともとないよ」


 今年で、四回目だ。ノアが、ちらっとエリオスを見る。


「面倒?」


「まあ」


 正直だった。


「逃げたい?」


「逃げないよ」


「逃げればいいのに」


 エリオスが笑う。


「父上が怒る」


「それはそうだ」


 少しだけ、二人の間が緩む。けれどノアは、そのまま、ぽつりと言った。


「……そんなに大変なら、俺が代わってあげてもいいのに」


 軽く言ったつもりなのは分かる。けれど、軽く流せる言葉ではなかった。


 エリオスは、間を置かない。


「馬鹿言うな」


 反射だった。役目を惜しんだのではない。王太子の席に執着したのでもない。ただ、兄として、ノアへ向けた否定だった。


 ノアが、少しだけ目を丸くする。エリオスは続けた。ほんの少しだけ、声が低くなる。


「……お前には、背負わせない」


 その声に、迷いはなかった。ノアに渡すつもりはない。その一点だけは、もう決まっている。


 ノアが、一瞬だけ黙る。冗談を返そうとして、言葉を止めた。


 窓の外で、庭師の一人が花の鉢を抱えて通り過ぎる。白い花が、まだ結ばれていない飾り紐のそばで揺れていた。エリオスは、その花へ視線を移す。


「花、今年は多いな」


 ノアも、それ以上踏み込まない。


「十歳だもん」


「そうだな」


「エリオス、子ども、終わり?」


「終わらないよ」


 エリオスが笑う。


「まだ子どもだ」


「そう?」


「うん」


 ノアが、じっと見る。


「……でも、王太子だ」


 短い言葉。それが全部だった。


 エリオスは、何も返さない。代わりに、無意識に左手の指へ触れた。


 中指。指輪。


 いつから、そこにあったのか。気づいたときには、もうつけていた。外そうと思ったこともない。理由は、自分でも分からない。ただ、そこにあると落ち着く。


 ノアの視線が、そこへ落ちる。何も言わない。ただ、少しだけ目を細めた。見慣れた仕草だった。触れられたくないときの、兄の癖。だから、何も聞かない。


「衣装合わせ、いかないの?」


 ノアが言う。


「行く」


 エリオスは、体を起こした。窓から離れる。


 背中に向けて、ノアが言った。


「……逃げてもいいよ」


 足が、ほんのわずかに止まる。


「俺、黙っとくから」


 衣装合わせのことを言っている。でも、それだけではない。


 エリオスは振り返らなかった。


「逃げないよ」


 短く返して、歩き出す。途中で、もう一度だけ指に触れた。癖のように。


 理由は、やっぱり分からない。ただ、そこにあると、少しだけ息がしやすかった。


 通路の中央へ出ると、城のざわめきが近くなる。誕生祭の準備に追われる者たちは、エリオスの姿を見るたび足を止め、頭を下げ、すぐにまた持ち場へ戻っていく。それも、もう見慣れた光景だった。


 近づく足音が一つ、途中で止まる。騎士が礼をした。


「殿下」


 エリオスも、同じだけ視線を向ける。


「警備の配置、増員が完了しました」


「どの区画?」


「庭園側と、正門付近を重点的に」


「……分かった。人が増える。中も頼む」


「は」


 騎士は深く頭を下げる。エリオスは、そのまま歩き出した。曲がり角の手前で、今度は侍女が控えめに声をかける。


「殿下。衣装係が控えております」


「今行く」


 短く返し、一度だけ目を合わせ、そのまま通り過ぎる。


 控えの間の扉が開いた。中には、布の音がある。針の音がある。声を潜めて待つ人々の気配がある。エリオスが入ると、一斉に頭が下がった。


「殿下」


「失礼いたします」


 広げられた衣装が、白と金の光を受けている。重い装飾。王太子の色。


 エリオスは、中央に立つ。触れられても動かない。言われる前に腕を上げる。言われる前に一歩出る。衣装係たちは、余計な指示をほとんど必要としなかった。


 誰かが息を呑む。すぐに静まる。エリオスは、何も反応しない。


 鏡の前に立つ。そこに映っているのは、王太子だった。


 まだ十歳。それでも、誰も子どもとは見ない。


「問題ありません」


 衣装係が言う。


「動きも制限ありません」


「そう」


 短い返答。


 そのとき、別の侍女が控えめに口を開いた。


「殿下。その指輪……」


 視線が、左手へ落ちる。


 中指。細い輪。装飾のない指輪。王太子の正装には、あまりにも質素だった。


「式典用のものを、別にご用意できます」


 衣装係が続ける。


「宝石をあしらったものを」


 一瞬、間が落ちる。それだけで、部屋の中の音が止まった。


 エリオスは、指を見る。自分の指。そこにある指輪。


 いつから付けていたのか、はっきり覚えていない。気づいたときには、そこにあった。外そうと思ったこともない。


「……いい」


 即答だった。声が、わずかに低い。


「これでいい」


 理由は言わない。説明もしない。ただ、それ以上触れさせない、というだけの声だった。


 衣装係が口を閉じる。侍女も、それ以上言わない。誰も、視線をそこへ向けなくなる。エリオスは、もう一度だけ指を見て、手を下ろした。


「続けて」


 止まっていた手が動き出す。布が重ねられ、飾りが付けられる。針の音が戻る。


 やがて、準備が終わった。


「以上です、殿下」


「ありがとう」


 エリオスは一歩下がり、振り返る。そのまま、部屋を出た。


 扉が閉まる。張りつめていた息が、部屋の中でゆっくりほどけた。誰もすぐには話さない。


 やがて、小さな声がこぼれる。


「……ご覧になりました?」


「ええ」


「やっぱり、外されないんですね」


「そうですね」


 少し間が空く。


「とても大事にされているようでした」


 別の侍女が、小さく続ける。


「殿下がああいうふうに身につけていらっしゃるものって、あまりないですから」


 誰も、軽くは返さない。


「……サラ様でしょうか」


 ぽつりと、誰かが言った。


 すぐに、別の侍女が首を振る。


「分かりません。でも」


 視線が、閉まった扉へ向く。


「殿下が外されないってことは、それだけの意味があるんでしょうね」


 別の侍女が、静かに言う。


「中指の指輪には、意味があると聞きました」


「意味?」


「繋ぎ止める指、だそうです。大切なものとか、離したくないものとか」


 小さな沈黙が落ちた。誰も、深くは踏み込まない。


 ただ、王太子の指にあるそれが、ただの飾りではないことだけは、誰にも分かってしまった。

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