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第6話 それぞれの場所で(1)

朝は、静かだった。


 夜の名残が、まだ少しだけ部屋の隅にある時間だった。窓の外は淡い光に満ち始め、屋敷の中もゆっくり目を覚ましていく。誰かの足音。遠くで開く扉の音。小さな生活の音が、少しずつ戻ってきていた。


 リリアナは、布団の中で目を開けたまま、しばらく動かなかった。


 夢は見なかった。ただ、昨夜見た挿絵が、まぶたの裏にまだ貼りついている。


 王と聖女の絡めた手。指に輝く指輪。光の中に立つ二人。そして、その隅にいた、自分と同じ色の魔女。


 涙は出ない。けれど、昨日までと同じ顔で朝を迎えることは、もうできなかった。


 ゆっくりと起き上がる。床に足をつけると、冷たさが伝わった。


 近づかなければ、エリオスは傷つかない。


 そう考えた瞬間、昨夜の挿絵が胸の奥で動かなくなった。王と聖女の隣ではなく、地面に伏した魔女のほうに、自分はいる。


 もう、見ないふりはできなかった。


 その日の昼前、リリアナは部屋の外へ出たところで、叔父と鉢合わせた。


「暇なら、来るか」


 突然、そう言われた。


 年に何度も顔を出す人ではない。領地にいることが多く、王都の屋敷で見ること自体が珍しい。何の用かは聞かなかった。聞くほどの関係でもない。ただ、断る理由もなかった。


「……はい」


 それだけ答える。叔父は頷きもせず、当然の顔で歩き出した。


 門を出ると、昼前の空気はまだ少し冷たかった。王都は、もう動いている。荷車の軋む音。店先で布を払う音。遠くで呼び合う声。人の流れが、ゆっくり広がっていた。


 叔父は振り返らない。歩幅も合わせない。それでも、置いていくつもりはないらしかった。リリアナは、半歩後ろを歩く。


 市場が近づくにつれて、匂いが変わった。焼いたパン。乾いた香草。水を打った木箱の匂い。声も増える。値を呼ぶ声。笑う声。言い争う声。生活の音だった。


 叔父は、迷いなく人の間へ入っていく。決まった店があるらしく、足が止まる場所にも迷いがない。布をめくる。縫い目を指でなぞる。重さを手のひらで受ける。値段を聞く。それだけだ。


 けれど、店の人間の態度が少し変わる。馴染みなのだと分かった。


 口数は多くない。値切りもしない。必要なものを、必要なだけ選ぶ。やり取りは短く、すぐに終わる。


 店の男は、叔父が代金を出す前から包みを作り始めていた。叔父も中身を改めない。軽く扱われている様子はない。何度も同じやり取りを重ねてきた者同士の手つきだった。


 隣の店では、別の男が声を張り上げている。


「高い! 祝日明けには安くなるだろう!」


 店主は笑顔のまま答える。


「恐れ入ります。本日の相場はこの値でございます」


 言葉は丁寧だ。けれど、押し返している。笑顔なのに、目は笑っていない。同じ買い物なのに、さっきの店とは声の硬さが違った。


 リリアナは、視線を巡らせる。人の流れ。声の強さ。足を止める場所。誰が急いでいて、誰が迷っていて、誰が周囲を見ていないのか。自然と、目に入ってきた。


 叔父が、次の店へ移る。果物の籠。香草の束。木箱の端の刻印。品物より先に、人の手を見ている。荒れた手。丁寧な手。急いでいる手。


「これ、今朝か」


 叔父が短く聞く。


「ええ、朝一で。水も替えてあります」


 張りのある声だった。嘘をついていないと分かる。


 叔父は頷かない。ただ、買う。それだけだ。けれど店の男は、背筋を伸ばしたまま見送った。


 市場の中を歩きながら、少しずつ分かってくる。どこに立てばぶつからないか。どの店が、すぐ売りたいのか。どの店が、明日も同じ客を待っているのか。覚えようとしたわけではない。ただ、見ていたら、見えてきた。


 叔父が、ふと立ち止まる。振り返らないまま言った。


「……どう見える」


 問いというより、確認だった。


 リリアナは少しだけ考える。


「……急いでいる人が多いです」


 叔父は何も言わない。だから、続けた。


「買うものが決まっている人と、決まっていない人が、混ざっています」


「……それで?」


 短い返し。


「……値が、ばらつきます」


 口にした途端、理由が見えた。


 急いでいる人は、少しくらい高くても買う。迷っている人は、わずかな差で別の店へ流れる。店も、それを見て値を出している。


 人が多いだけではない。


 急ぐ人と、迷う人と、待てる人がいるから、声も、足取りも、値も変わる。


 叔父が、一瞬だけ視線を向けた。評価でも、驚きでもない。ただ、聞いたというだけの目だった。


「見てりゃ分かる」


 それだけだった。


 教える気も、褒める気もない。けれど、否定もしなかった。


 リリアナは何も言わず、また半歩後ろを歩く。市場の音が、さっきよりはっきり聞こえた。


 王宮の廊下で響く靴音とは違う。貴族の屋敷で交わされる言葉とも違う。ここでは、人が値をつけ、迷い、選び、買っていく。


 リリアナは、その流れを初めて意識して見ていた。


 市場を抜けて、少しだけ人通りが減ったところで、叔父が立ち止まった。振り返りもせず、持っていた紙袋を差し出す。


「……持て。土産だ」


 それだけだった。


 リリアナは受け取る。軽い。けれど、中で何かが転がる音がした。甘い匂いが、かすかに漏れる。


 さっき、店先で聞こえていた声が耳に残っていた。


「もうすぐ誕生祭ですね。輪菓子、今年も焼き上がりましたよ」


「少し気が早いな。子どもが楽しみにしてるやつだろ」


「祝福の輪ですからね。殿下の誕生を祝って、みんなで分けるものです」


 叔父が、前を向いたまま言う。


「誕生祭の試し焼きだと。馴染みの店が、余った分をよこした」


 リリアナは、袋を見下ろした。紙の端に、見覚えのある印が押されている。市場の奥の、あの店のものだ。指先に、わずかに温もりが残る。


 誕生祭。


 心臓が、強く打った。一度。もう一度。


 エリオスの誕生祭。十歳の誕生日。


 祝う日。人が集まる日。誰もが、笑っている日。


 そして、あの人が、血に倒れた日。


 私のせいで。


 誕生祭の夜。人混みの中、刃が走った。エリオスが、背を裂かれた。何が起きたのか、誰もすぐには分からなかった。


 三日間、高い熱にうなされていた。背の傷は深く、あとになっても、跡が消えることはなかった。


「……心配ないよ」


 エリオスは、そう言って笑った。眉が、ほんの少しだけ下がる。困った顔で、けれどリリアナを安心させようとする、いつもの癖。


 リリアナが不安そうな顔をするたび、エリオスは同じ言葉をくれた。それ以上、心配させるようなことは何も言わなかった。


 ただ、雨の日に、わずかに動きが鈍る背中を見て、季節の変わり目に、無意識に肩へ手をやる仕草を見て、分かった。


 古傷は、消えない。


 それを知ったとき、胸の奥が強く軋んだ。


 守れなかった。


 そう思った。


 本当に別れたのは、ずっと後だ。あの日ではない。あの夜は、終わりではなく、始まりだった。


 すべてが、少しずつ狂い始めた日の。


 そして今回は、名授けのあと、エリオスに会っていない。王宮からの迎えも来なかった。保護の名目で連れて行かれることもなかった。


 同じ流れには乗っていない。


 同じ未来にはならないはずだ。


 婚約者にもならない。近づかないと、決めている。


 だから、大丈夫なはずだ。


 そう思っている。


 思っているのに、胸の奥の不安だけが、どうしても消えなかった。


 袋は開けない。甘い匂いだけが残る。


 離れたから、大丈夫なはずだ。


 そう思い直すたび、心臓だけが落ち着かない。袋を持つ指が震える。落とさないように、握り直す。


 エリオスは無事なのか。


 その日を、何事もなく迎えられるのか。


 確かめたいと思ってしまう。けれど、確かめに行けば、また近づいてしまう。


 だからリリアナは、何も言えなかった。


 甘い匂いのする袋を抱えたまま、ただ叔父の半歩後ろを歩き続けた。

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