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第5話 私の場所ではなかった(2)

部屋に戻る。


 灯りは、もう落とされていた。窓の外は暗く、家の中も静まり返っている。リリアナは足音を立てないようにして扉を閉め、息をひとつだけ吐いた。叱られたことも、廊下の声も、胸の奥には残らない。残っているのは、ただ、分かってしまったという感覚だけだった。


 机の上に、古い本がある。角の擦れた、分厚い童話。何度も読んだ、あの本。手に取ると、重みが指に馴染んだ。リリアナはページを開く。


 ――王と聖女と、時の指輪。


 むかし、この国が、まだ今ほど豊かではなかった頃のことです。若い王と、そのそばには、聖女と呼ばれる少女がいました。


 名を授けられたその日から、聖女は王の隣に立っていました。聖女は、清らかな心と、神に祝福された力を持ち、王を深く想っていました。王もまた、聖女を大切にし、二人の想いは、ひそやかに通じ合っていたのです。国の人々は、二人を見て、こう言いました。


 ――この国は、きっと幸せになる。


 けれど、聖女の隣にいたはずの場所に、いつしか、別の女が立っていました。灰色の魔女です。


 魔女は、その場所を奪い、王のそばに居続けようとしました。けれど、王の心だけは、どうしても手に入りませんでした。王の心は、変わらず、聖女のものでした。届かない想いは、やがて歪みます。


「どうして、私ではないの」


 執着は、怒りへ。怒りは、呪いへ。魔女は、王を呪い、その命を奪いました。国は嘆き、人々は泣き、聖女は深く悲しみました。


 けれど、聖女は立ち上がります。聖女は、不思議な指輪を持っていました。その指輪は、時を戻す力を持つ、神の遺した遺物でした。愛する人を救うために。正しい想いのために。時は巻き戻され、王は、すべてが始まる前の刻へと戻されました。まだ、名を授けられたばかりの、幼い日の時間へ。


 生き返った王と聖女は、力を合わせ、魔女と対峙します。そして、ついに、魔女は打ち倒されました。魔女の呪いは消え、国には再び光が戻ったのです。


 やがて王は国を治め、聖女はその隣に立ち続けました。国は栄え、人々は豊かになり、この国は長く平和を保ちました。人々は、今も語ります。


 ――王を救ったのは、聖女の愛だった。


 ――国を治めたのは、二人の正しい心だった。


 そして、こう付け加えるのです。


 ――王のそばに立つのは、選ばれた者だけ。


 ――その場所を奪おうとする者は、必ず国を滅ぼす、と。


 リリアナはページをめくった。挿絵が、ひとつだけあった。


 王と聖女が、手を取り合っている。指を絡めるように、強く結ばれた手。二人で、魔女を打ち倒した場面。倒れた魔女は、地面に伏したまま、二人を見上げている。その目には、はっきりと恨みが描かれていた。


 長い髪。薄い色の瞳。


 自分と、同じ色。


 王と聖女の指には、指輪があった。絡めた手のまま、同じ形のものが光を受けている。王は、聖女のほうへ体を傾けていて、庇うように立っていた。聖女もまた、王の手を離さない。


 それだけの絵。それだけなのに、胸の奥に何かが落ちた。音もなく。


 ああ。そうか。


 分かった。


 時戻り前。エリオスが家に来た日。


 会った。名前を呼ばれて、目を合わせて、あの人が光になった。


 私は、生きる理由を探していた。だから、あの人は、自分を差し出してくれた。


「俺を、生きる理由にして」


 あの言葉が、胸の中に残っている。


 エリオスの来訪から、数週間。王宮から迎えが来た。私は、婚約者候補として、王宮の来客室に移された。保護、という形で。けれど、そこは、もともとサラの場所だった。


 静かに、息を吸う。吐く。胸は、もう揺れない。


 私は、あの場所を奪った。


 ああ。そうか。


 分かった。


 けれど、今回は、エリオスに会わなかった。会えなかった。それで、きっとよかった。


 胸の奥で、ひとつ、何かが静かに収まる。


 ここが、私の本来の場所。光の隣じゃない。物語の中央でもない。最初から、そこには立たない側。近づけば、壊れる。そういう側。


 私が生まれたせいで、生きようとしたせいで、母がいなくなったように。同じことが、また起きるかもしれない。


 怖い。悲しい。でも、それより先に、分かってしまったという感覚だけが残る。


 だから、近づかない。


 光のそばには、行かない。


 それが、私の場所。


 ――エリオスの隣は、私の場所ではなかった。

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