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第5話 私の場所ではなかった(1)

エリオスが帰ったあと、リリアナは客間に呼ばれた。


 中に入ると、継母が立っていた。扉の近くではなく、客間の中央に。最初から、リリアナをそこへ立たせるつもりで待っていたのだと分かる。


「……どういうつもり?」


 声は低い。怒鳴ってはいない。それでも、机の上に置かれた指先は固く揃えられていた。


「王太子殿下がいらした日に、姿を見せないなんて。家中がどれだけ慌てたか、分かっているの?」


 リリアナは、何も言えなかった。


「体調が悪いなら、そう言えばよかったでしょう。わざわざ隠れるような真似をして」


 継母の眉が、ほんの少し寄る。深くはない。けれど、それだけで十分だった。リリアナを見る目に、心配はない。


「……それとも」


 視線が、リリアナの髪で止まった。次に、瞳へ移る。すぐに逸らされた。


「この家が、どれだけのものを背負っているか、分かっている? 名だけで立っている家よ。軽い振る舞いは許されないの」


 返事は待たれなかった。


「ただでさえ、あなたは――」


 そこで、継母の言葉が止まった。言わなかった言葉の方が、はっきり聞こえた気がした。


 灰色だから。不吉だから。生まれたときに、母を連れていった子だから。


「……いいわ」


 継母は、それ以上を飲み込んだ。


「あなたは、余計なことをしなくていい。目立たないで。騒ぎを起こさないで。ここにいるなら、静かにしていなさい」


 そこで一度、継母は口を閉じた。視線がリリアナの姿を上から下まで確かめ、また髪のあたりで止まる。


「あなたにとっても、お会いしなくてよかったのかもしれないわね。……この家にとっても」


 静かな声だった。だからこそ、逃げ場がない。


「この家は、跡継ぎを絶やさないことだけを考えていかなければならないの。家を継がせられる子がいれば、よかったのだけれど」


 ほんのわずかに、間が落ちる。


「……いずれにしても、あなたは余計なことをしなくていい」


 継母の指先が、机の縁を軽く押さえた。


「息をしているだけでいいの」


 気遣いではなかった。慰めでもなかった。ここに置いてはおく。けれど、それ以上は何もするな。そういう意味だった。


「部屋に戻りなさい」


 それで終わった。


 部屋を出ると、廊下の端に父が立っていた。声はかけられない。視線も合わない。叱ることも、慰めることも、問いただすこともしない。


 父はいつも、何も言わなかった。母がいなくなった日のことも。リリアナの髪の色のことも。この家で、誰もリリアナを跡継ぎとは呼ばないことも。言わないまま、そこに置いておく。


 それが答えなのだと、リリアナは知っていた。


 リリアナは、父の横を静かに通り過ぎた。そのとき、ほんの一瞬だけ、見られていると思った。けれど、振り返らない。振り返っても、何も変わらない。


 廊下の角で、小さな声が重なって聞こえた。


「王太子殿下がいらしたのに、お嬢様は最後まで出てこなかったのね」


「家中があんなに慌てていたもの」


 声は低い。ひそめながらも、どこか確かめ合う調子だった。


「結果的には、お会いしなくてよかったのかもしれないわね」


「……え?」


「だって、あの髪の色でしょう。あの目の色でしょう。殿下のお目に触れたら、厭われるかもしれない」


 短い沈黙が落ちた。否定する声は、出なかった。


「それに……前の奥様のこともあるし」


 誰も、すぐには返さない。


「……やめなさいよ」


 止める声はあった。でも、強くはなかった。


「でも、本当でしょう。前の奥様は、お産みになる前まではお元気だったのに」


 そこで声が少し小さくなる。


「お嬢様を産んですぐに、亡くなられたでしょう」


 言葉は最後まで濁されなかった。


 リリアナは、廊下の陰で足を止めた。


 母が死んだ。そのあとに、自分の名が置かれる。


 それは初めて聞く話ではなかった。直接そう言われたことは少ない。けれど、この家では昔から、母の死のあとにリリアナの髪の色が続いた。リリアナの瞳の色が続いた。父が目を合わせない理由も、誰も口にしないまま、そこへ置かれていた。


 エリオスに連れ出されてから、その声は遠くなっていた。エリオスの前では、見ないでいられた。忘れたふりもできた。


 でも、この家に戻ると、同じ場所へ戻される。


「昔から言うでしょう。あの色は、近くにいる人に不幸を呼ぶって」


「そんなこと、今どき……」


「でも、前の奥様は?」


 そこで、誰も何も言わなくなった。


「親しい人ほど、近い人ほど、悪いことが起きるって。呪いが移ると聞いたことがあるわ」


 親しい人ほど。近い人ほど。呪いが移る。


 その言葉だけが、胸の中に落ちた。リリアナの指先が冷えていく。


 母だけではない。


 巻き戻る前、リリアナのそばにいたエリオスも死んだ。あの人は、リリアナの名前を呼んでくれた。居場所をくれた。生きる理由になってくれた。


 いちばん近くにいてくれた。


 その人が、死んだ。


 呪いのような病に侵され、少しずつ弱って、最後に呼吸が止まった。


 偶然かもしれない。理由は分からない。けれど、母の死と、父の沈黙と、エリオスの最期が、同じ言葉の下に並んでしまった。


 近い人ほど。親しい人ほど。悪いことが起きる。


「旦那様も、お嬢様のこと……」


「声に出さないで」


 叱るように言いながら、否定はしない。少し間が空いた。


「……今日だって、そうじゃない」


「殿下が来たのに、お嬢様が出てこなくて、家中があんなに慌てて」


「よくないことばかり続く、って、そういう……」


 また、言葉が濁る。濁ったところにだけ、噂は残った。


 リリアナは、廊下の陰に立ったまま動けなかった。


 やっぱり、そうなのだ。


 自分は、いるだけで何かを悪くする。近づけば、誰かを困らせる。そばにいれば、大切なものを壊してしまう。


「――奥様がさっき、言ってたわ」


「何を?」


「この家の跡継ぎは、叔父様のところから養子をもらうって」


「……本当に?」


「お嬢様じゃないのよ」


 誰も笑わない。ただ、決まったことを確認する調子で告げられる。


「じゃあ――」


 言いかけて、誰も続きを言わなかった。


 言われなくても、分かる。リリアナは、この家の未来にも入っていない。


 母を失わせた子。父に見られない子。跡継ぎにもなれない子。王太子に会わなくてよかったと言われる子。


 この家で、リリアナに残されている場所は、部屋の隅だけだった。


 廊下の向こうで、扉が閉まる音がした。それに合わせて、声も散っていく。静けさだけが戻った。


 何も起きなかった顔で、屋敷はまた元に戻っていく。


 リリアナだけが、そこから動けなかった。


 そうだ。


 やっぱり、そうだ。


 自分は、不幸を呼ぶ人間なのだ。


 エリオスが連れ出してくれたから、しばらく見ないでいられただけ。温かい場所にいたから、忘れたふりができただけ。


 ここに戻れば、ちゃんと分かる。


 私は、近づいてはいけない側の人間なのだ。

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