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第4話 会わなかった日(3)エリオス

馬車がバルディエ家の門へ近づいたころ、年配の側近が小さく口を開いた。


「バルディエ家は、祖父の代までは王宮の中心に近かった家です」


 王宮に長く仕えている男だった。必要以上のことは言わない。けれど、見たものはよく覚えている。


「王への功績も大きい。今も名と実力は残っています」


 残っている。


 その言い方が、少しだけ引っかかった。


「人は?」


 短く聞く。側近が、わずかに言葉を選ぶ。


「……祖父の代を境に、離れた者も多いと」


 エリオスは、それ以上は聞かなかった。十分だった。


 功績はある。家格もある。だが、人が残らない家。王家の血がここに入るのは、好ましくない。


 政治として考えれば、そう判断するしかない。


 馬車が門をくぐった。


 玄関へ向かう途中で、違和感はさらに強くなった。道に面した庭木は枝を払われているのに、奥の葉は伸びたままだった。玄関前には新しい花が置かれている。けれど、石段の端には古い泥の跡が残っていた。噴水のそばを通ったときも、水面に落ち葉が浮いているのが見えた。


 屋敷の中も同じだった。床は磨かれている。廊下に余分なものは出ていない。客間へ続く道には花も飾られている。けれど、廊下の隅には拭き残した埃があった。調度品の金具はくすんだままで、壁の古い傷も隠されていない。


 普段から手をかけている屋敷ではない。


 今日、見られるところだけを慌てて直したのだと分かった。


 使用人たちは、大きな失礼をしない。頭を下げる角度も、足を止める位置も、よく揃っている。けれど、こちらを見る前に視線を伏せ、顔を上げる時も、誰かに合わせるように同じ間を置く。


 客を迎えているというより、叱られないように動いている。


 そう見えた。


 廊下の奥で、誰かが小走りに動いた。すぐに別の足音が追う。声までは聞こえない。ただ、使用人の一人が角を曲がる前にこちらを見て、慌てて目を伏せた。


 何かを探している。


 エリオスは、そう思った。


 客間に通されると、父親がすぐに頭を下げた。深すぎるほどの礼だった。継母もそれに続く。言葉は丁寧で、形式も崩れていない。


 だが、視線が合わない。笑顔が、遅れて出てくる。頭を下げて、顔を上げて、それからようやく口元だけを作る。


 エリオスを見る目ではない。


 王太子を見る目だ。


 人を見る目ではなかった。


 面倒だな、とだけ思った。


「本日は、名授けを終えた御息女に、王家の祝意を伝えに来た」


 自分の声が、いつもより少しだけ硬いと、エリオスは気づいていた。


 父親はもう一度、深く頭を下げた。


「王太子殿下にお運びいただけますとは、身に余る光栄にございます。バルディエ家一同、王家への忠誠を新たにする思いで……」


 顔を上げると、すぐに話を始める。家の歴史。忠誠。祖父の功績。領地がどれほど長く王国に尽くしてきたか。どの言葉も、事前に用意していたものだった。


 継母も、言葉を継ぐ。


「娘も、日々学びを怠らず――」


 そこで、ほんのわずかに言葉が詰まった。


 エリオスは、見逃さなかった。


「子どもは?」


 客間が静かになる。


 本当に短い間だった。けれど、父親の笑顔が戻るまでには、わずかな間があった。


「……少し、体調を崩しておりまして」


 継母が、すぐに横から言葉を重ねる。


「急なことで。お目通りさせるには、少々――」


 言葉が揃いすぎていた。その場で合わせた説明だと、すぐに分かる。


 そのとき、背後で控えめな足音が止まった。


「……奥様」


 小さな声だった。


 継母が振り向く。メイドはさらに声を落としたが、部屋が静かすぎた。


「やはりお嬢様が……どこにも見当たりません」


 父親の指が、椅子の肘掛けを強く押さえた。


 継母は、すぐに笑顔を作り直す。


「急に熱が出まして。うつしてはいけませんから、別室に移しております」


 父親も重ねる。


「ご心配には及びません」


 エリオスは、何も言わなかった。


 聞かなかったことにする。それが、礼儀でもあり、判断でもあった。


 もう、十分だった。


 立ち上がる。


「今日はこれで」


 短く告げると、父親も継母も深く頭を下げた。


 客間を出る。背後で、慌ただしい足音が動いた。誰かを探す声。女の低い声。


「お嬢様が――」


 そこで、扉が閉まった。


 それ以上は、聞こえなかった。


 振り返れば、また何かを聞くことになる。それをする理由は、もうなかった。


 外へ出る。


 帰るべきだと思った。あの家は、王家が近づくには危うい。そう判断した。それで終わりのはずだった。


 なのに、門を出ても、背中の奥に細い糸が引っかかったような感じが消えなかった。


「少し、寄ってもいい?」


 側近に言う。


「時間はあります」


 馬車を止めさせる。


 屋敷から少し離れた、草地。木陰。風が通る場所。


 降りる。


 一人になる。


 足が、自然に進む。どこへ向かうのか、自分でも分からないまま。


 草が、揺れる。


 白い花が、目に入る。


 百合だった。


 なぜか、足が止まる。


 細い茎が、風に押されて揺れる。白い花弁が、重なって開いている。派手じゃない。香りも強くない。ただ、そこだけ空気が澄んでいる。


 胸の奥が、ゆっくり、温かくなる。


「あ」


 声が、こぼれた。


「……好きだな」


 自分の声だと、遅れて気づく。


 理由は、分からない。


 見ているだけで、呼吸が深くなる。


 それと同時に、胸の奥に、重い喪失感が広がる。


 何かを、決定的に取りこぼしてしまったような。


 手のひらの上にあったはずのものが、気づかないうちに、消えていたみたいに。


 けれど、何も、失っていない。


 今日は、名授けを終えた子どものいる家を何軒か訪ねた。挨拶をして、祝福の言葉を述べ、帰る。それだけの日だった。


 最後に訪ねたバルディエ家では、子どもに会えなかった。


 ただ、それだけだ。


 ここに来るまで、何も起きていない。


 なのに、その感覚だけが、消えない。


 百合が、静かに揺れている。


 エリオスは、しばらく、そこから動けなかった。

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