第4話 会わなかった日(2)
叔父の来訪から数日後。
その日は朝から、屋敷の中が張りつめていた。玄関広間には新しい花が運び込まれ、客間の燭台はいつもより念入りに磨かれていた。廊下の絨毯の端を直す者がいて、扉の取っ手を拭く者がいる。誰も大きな声は出さないのに、足音だけが何度も行き来していた。
叔父が来たときとは違う。あのときは、屋敷の者たちが少しだけ気を張っていた。けれど今日は、玄関も、客間も、廊下も、誰かに見られる前に急いで飾り直されているようだった。
短い指示が、声を低くして交わされる。扉が開いては閉じ、また開く。やがて、控えめなノックがあった。
「お嬢様。本日は王太子殿下が、名授けのあとのご挨拶でお越しになります。お支度を」
その言葉を聞いた瞬間、リリアナの胸が強く軋んだ。
やっぱり、同じだ。
廊下を急ぐ足音。低く抑えた使用人たちの声。普段は開かれない箱が運ばれてくる気配。部屋の前で待つメイドの姿。全部、巻き戻る前のあの日と同じだった。
同じ道を、また辿ろうとしている。
湯が運ばれ、髪を整えられ、普段は触れない衣装箱が開かれる。広げられた服は、少しだけ大きくて、少しだけ似合わなかった。急いで選ばれたのだと、すぐに分かる。
鏡の前に立たされても、自分の顔はよく見えなかった。
会いたいのか、怖いのか。自分でも分からなかった。
エリオスが来る。
巻き戻る前、自分を見つけてくれた人。名前を呼んでくれた人。生きる理由になってくれた人。そして、不幸を呼ぶ灰色の自分がそばに立ってしまった未来の先で、死んでしまった人。
考えようとした。
どうすればいいのか。ここにいていいのか。こんな自分が、また出会ってもいいのか。
けれど、考えるより先に、体が動いていた。気づいたときには、立ち上がっていた。足が勝手に廊下へ向かう。
客間の隣。人の気配のない細い通路。その先にある、使われていない物置の前で、足が止まった。
ここに。
なぜか、そう思った。
会いたい。
会いたい。
でも、不幸を呼ぶ自分が近づいてはいけない。
その二つが同時に胸にあるまま、リリアナは扉をそっと押し開けた。中は、ほとんど使われていない空間だった。棚と、古い箱と、使われなくなった布。窓はなく、外の光も届かない。
扉を閉めると、屋敷の音が少しだけ遠くなった。廊下を走る足音も、誰かを呼ぶ声も、扉が開いて閉じる音も、壁の向こうでくぐもって聞こえる。
リリアナは、扉に背を預けたまま動かなかった。
ここなら、会わなくて済む。
そう思った。
扉の外で、慌ただしい声が重なる。
「お嬢様がいないわ」
「どこへ行ったの」
「さっきまで、こちらに……」
メイドたちの声だった。
「王太子殿下は、もうお着きになるのよ。私が応対します。あなたたちは、早くあの子を見つけなさい!」
継母の声は、いつもより高かった。言葉の終わりが少し乱れている。
遠くで、玄関の扉が開く音がした。
足音がいくつも止まる。父の硬い挨拶。継母の作ったような明るい声。使用人たちが一斉に頭を下げる衣擦れの音。それから、落ち着いた大人の声。この家の人間ではないと、すぐに分かる声だった。
そして、もうひとつ。
年の近い、まだ幼い声。けれど、はっきりしていて、ためらいがない。
何度も聞いた声だった。
リリアナは、息を止めた。
エリオスだ。
扉一枚を隔てただけの場所に、エリオスがいる。
その声を聞いた瞬間、記憶の中の声が重なった。
リリー。
そう呼ばれたときの、あの響き。
胸が、強く揺れた。
会いたい。
名前を呼んでほしい。
もう一度、あの目で見てほしい。
けれど、顔を見れば、きっと近づいてしまう。名前を呼ばれれば、きっと返事をしてしまう。手を差し出されたら、もう一度、その手を取ってしまう。
そして、その先で何が起きたのかを、リリアナは知っている。
自分がそばにいた未来の先で、彼は倒れた。呪いのような病に侵され、少しずつ弱って、最後に呼吸が止まった。
理由は分からない。けれど、自分が関わった未来の先で、彼は死んだ。
その事実だけが、消えずに残っている。
扉の向こうから届く声に触れた瞬間、別の朝がよみがえった。
今ではない。ここではない。巻き戻る前の、あの日。
まだエリオスがリリアナの名を知らず、リリアナもまた、彼が自分の人生を照らす人になるとは知らなかった日。
◇
朝から、家の中が少しだけ違っていた。静かなのに、どこか慌ただしい。廊下を歩く足音が増え、使用人の声が低く交わされる。
けれど、リリアナに与えられたのは用件だけだった。
王太子殿下が来る。
支度をする。
それだけ。
なぜ自分が呼ばれるのか。何をすればいいのか。誰の前に出るのか。そういうことは、何ひとつ教えられなかった。
部屋には、朝食が置かれていた。いつもの冷めたスープと、固くなったパン。リリアナは椅子に座って、しばらくそれを眺めた。それから、ほとんど手をつけなかった。
食べなくても、何も言われない。
生きていても、いなくても、同じだから。
今日は王太子が来る。
王太子。
それが、どれだけ遠い存在なのか、リリアナは知っている。自分とは関係のない、光の中の人。呼ばれない世界の、向こう側の人。
しばらくして、部屋の扉が開いた。
「王太子殿下をお迎えします。着替えを」
短い言葉だった。
見慣れない服が運ばれてくる。サイズは合っていない。派手で、重たい。着るというより、身体の上に乗せられるような服だった。
鏡の前に立たされる。
「……これで」
それだけだった。
靴も合っていない。ただ、この家に子どもがいると示すための外側だけが作られていく。
リリアナは、何も言わなかった。言っても、変わらないから。
客間へ連れて行かれる途中、ふと思った。
ここに、いなくてもいい。
自分がいなくても、この家は何も困らない。
その考えは、怖くも悲しくもなかった。ただ、そういうものだと分かっていた。
客間の扉の前で、足が止まる。中から、声がした。幼いのに、はっきりと通る声。
王太子の声だと、分かった。
形式的な言葉が続く。
扉が開く。
部屋の中に入る。
光が差し込んでいた。その中央に、ひとりの少年が立っていた。
金の髪。まっすぐな姿勢。整った服。
視線だけが、こちらを見ていた。
見られている。
その感覚に、息が止まる。
まっすぐ。
逃げ場がないくらい、まっすぐ。
椅子に座らされる。
周囲の大人たちが話をしている。王家への忠誠。バルディエ家が代々守ってきた領地のこと。父が王都で任されている役目のこと。名授けを無事に終えたことへの感謝。
言葉は丁寧で、何度もリリアナの名が出た。けれど、自分の話ではなかった。
この家に、名授けを終えた子どもがいる。
ただ、それを示すためだけに、自分はここに座らされている。
いつも通りだった。
やがて、少年が口を開いた。
「……二人にしていただけますか」
その声が落ちた瞬間、部屋の中が変わった。大人たちは一瞬だけ黙り、それから従った。
扉が閉まる。
静かになる。
少年が、ゆっくりと近づいてきた。リリアナの前でしゃがみ込む。
視線の高さが、同じになる。
「……聞こえるか」
初めて、自分に向けて言われた言葉だった。
頷くことも、返事をすることも、すぐにはできなかった。喉が動かない。
少年は、責めなかった。ただ、もう一度、こちらを見た。
「名前は?」
リリアナは、口を開く。
「……あります」
自分でも、変な答えだと思った。
名前はある。でも、呼ばれない。だから、あるのかないのか、分からなくなる。
少年の眉が、わずかに動いた。
「そうじゃない」
声は、さっきより少し柔らかくなっていた。
「名前を、教えてほしい」
言葉を選ぶような、慎重な声だった。
リリアナは、少しだけ迷った。それから、小さく答えた。
「……リリアナ、です」
少年の口が、小さく動く。
「リリアナ」
呼ばれた。
ちゃんと。
名前として。
その瞬間、胸の奥に熱が落ちた。強く。でも、静かに。
少年は、しばらく黙っていた。それから、少しだけ言葉を探すようにして聞いた。
「ここで、生きていて、楽しいか」
分からなかった。
楽しい、の意味が。
「……分かりません」
正直に答える。
「じゃあ、生きたいか」
答えは、すぐには出なかった。考える。でも、浮かぶものは何もない。
理由がない。
それだけだった。
「……生きる理由が、ないので」
そう言ったあと、部屋の中が少しだけ静かになった。
少年は、すぐには何も言わなかった。視線だけが、リリアナから外れない。
やがて、小さく言った。
「……じゃあ」
考えた末というより、口から落ちた言葉のようだった。
「俺が、なるよ」
一瞬、意味が分からなかった。
リリアナが何も言えないでいると、少年はそのまま続けた。
「俺を、生きる理由にして」
静かな声だった。まっすぐだった。
命令でも、慰めでもない。何かを差し出すみたいに。願うみたいに。
リリアナは、言葉を返せなかった。
胸の奥に、何かが落ちてくる。はじめて、自分がここにいていいと言われた気がした。
あのときから。
あの人は、私の光だ。
◇
暗い物置の中で、リリアナは目を開けた。
向こう側には、まだ人の気配がある。父の声。継母の声。使用人たちの足音。そして、その奥に、エリオスがいる。
会いたい。
名前を呼んでほしい。
もう一度、あの目で見てほしい。
けれど、リリアナは扉に触れた手を握りしめた。
会ってはいけない。
あの光を、もう一度消したくない。
だから、その日、リリアナはエリオスに会わなかった。




