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第4話 会わなかった日(1)

あんなに泣いたのに、世界は続いていた。


 朝は、いつもどおり来た。屋敷も、いつもどおりだった。昨夜、遅く戻ってきても、誰も気づかなかった。声も、視線も、なかった。それが、この家の普通だった。


 リリアナは、目を覚ましたまま、しばらく動かなかった。


 泣いたあとだからといって、体が軽くなったわけでも、楽になったわけでもない。ただ、絡み合っていたものが、いったん静かに沈んでいた。


 消えたわけではない。


 巻き戻る前の記憶。思い出の中にしかいないエリオス。サラの存在。童話の挿絵。あの家での自分の位置。全部、そのまま、そこにある。


 けれど、残ったものもあった。


 生きている。


 あの人が。


 それだけが、動かずに残っている。理由も、答えも、まだ何もない。それでも、それだけで朝は来ていた。


 リリアナは起き上がり、足を床につけた。いつもと同じ冷たさ。いつもと同じ屋敷。何も変わらない。


 それでも、昨日までと同じではなかった。


 王都の空気は、いつも静かだった。


 人が少ないわけではない。むしろ、行き交う馬車も、出入りする貴族も多い。それでも、どこかで音が抑えられている。言葉の選び方も、視線の向け方も、距離の取り方も、最初からそういうものとして身についているみたいに。


 アストレア王国。


 王宮を中心に、貴族の屋敷が広がり、その外側に街と領地が続く。王と貴族の距離は近い。けれど、近すぎない。


 王宮は、見守る場所であり、同時に見定める場所でもある。その視線から外れることは、ほとんどない。


 名授けの制度も、そのひとつだった。


 子どもは、生まれたときから名で呼ばれる。けれど、神殿で正式に名を授けられて、はじめて王宮の記録に載る。家の中だけの呼び名ではなく、この国の中で、誰であるかを認められる。


 その日から、祝福の対象となり、同時に、見守られる側にもなる。


 名授けのあと、王宮と関わりの深い家には、王族が挨拶に訪れることがあった。すべての家ではない。王族との婚姻や、将来の政に関わる可能性のある家。あるいは、王宮が様子を見ておきたい家。


 そうした屋敷にだけ、静かに足が運ばれる。


 表向きは、名を授かった子どもへの祝福だった。けれど実際には、その子が確かにそこにいること、そして、どんな空気の中で育っているのかを、王宮が確かめるための訪問でもあった。


 王家と貴族が、互いの距離を測り続けるための、静かなやり取り。


 近くて、遠い。守られていて、同時に、見られている。


 そういう関係の上に、この国は成り立っている。


 そうした訪問に、年の近い王子が同行することもあった。王族として顔を覚え、貴族の家を自分の目で見るためでもある。


 そして、この国には、好まれない色があった。


 灰色。


 光を吸い、輪郭を曖昧にする色。昔から、祝福の席には置かれにくいと言われている。


 誰も、はっきりとは口にしない。けれど、視線が一瞬だけ逸れる。言葉が、わずかに止まる。それだけで、十分だった。


 リリアナは、鏡を見なくても、自分の色を知っている。灯りの下で、沈んで見える髪。感情を映さないように見える、灰色の瞳。


 名授けを受けても、それは変わらない。


 王宮と貴族の距離。制度としての祝福。色に向けられる沈黙。


 そのすべてが、朝の空気の中に、当たり前のものとして混ざっている。


 名授けが終わった以上、次に来るものも分かっていた。

 王宮からの訪問。

 それは、巻き戻る前と同じだった。


 けれど、その日、屋敷に来たのは王族ではなかった。


 その日、屋敷の空気が、ほんの少しだけ変わった。


 騒がしいわけでも、慌ただしいわけでもない。ただ、使用人たちの声が、いつもよりわずかに低くなる。廊下を歩く足音が、少しだけ慎重になる。


 この家の人間が、少しだけ構える相手だった。


 来客。


 それも、珍しい客。


 父の弟。領地にいることが多く、王都のこの屋敷に顔を出すのは年に何度もない。


 客間での挨拶が終わったあと、使用人に呼ばれ、リリアナもそこへ通された。


 叔父は、立ち上がらなかった。椅子に腰かけたまま、軽く視線だけを向ける。


「久しぶりだな」


 声は低いが、押しつける響きがない。それだけで、この屋敷では、少しだけ異質だった。


「……はい」


 リリアナは、形式どおりに頭を下げる。それ以上、言葉は続かない。叔父も、無理に話そうとはしなかった。


 沈黙が、気まずくならないまま、そこに落ちる。


 しばらくして、叔父はふと思い出したように、隣に置いていた包みを差し出した。


「土産だ」


 小さな缶だった。磨きすぎていない銀色。飾り気はないが、手に取ると、しっかりした重みがある。


「……あ」

 それは、見覚えのある、小さな缶だった。


 叔父は短く言った。


「甘いものだ。嫌いじゃなければ、食え」


 それだけだった。


 理由も、説明もない。褒めるでも、慰めるでもない。ただ、渡された。


 リリアナは、缶を受け取った。手のひらに、ほんの少し重さが乗る。


「……ありがとうございます」


 そう言うと、叔父は、わずかに頷いた。


 それで終わりだった。


 父も、継母も、特別な反応はしない。話題は、すぐに別のものへ移る。領地の収穫。王都の動き。貴族の家同士の噂。


 リリアナは、缶を抱えたまま、静かに席を外した。


 部屋に戻って、缶を机の上に置く。


 巻き戻る前の世界でも、叔父と多く話した記憶はない。


 あの頃のリリアナは、エリオスに見つけられて、手を引かれ、王宮へ連れていかれた。あの屋敷で過ごす時間は、そこで大きく形を変えた。


 それでも、その前にもらった小さな缶のことだけは覚えていた。


 優しい言葉ではなかった。抱きしめられたわけでもない。ただ、自分に向けて渡されたものだった。


 この屋敷で、そういうものはあまりにも少なかった。


 だから、忘れられなかった。


 そして、もうひとつ。


 叔父は、リリアナの髪にも、瞳にも、触れなかった。


 評価することも、言及することもなく。ただ、目の前にいる相手として見ていた。


 それが、妙に残った。

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