第3話 百合の咲く場所(3)
野原の奥で、白い花が風に揺れていた。細い茎が、ゆっくりと傾いて、また戻る。
リリアナは、その場に立ったまま、息を止めた。
――百合。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。あの声がよみがえる。
――リリーの花だ。
幼い頃のエリオスの声。
リリアナは、引き寄せられるように一歩近づき、そっと腰を落とした。白く、静かな花。主張するような香りではないのに、そこだけ空気が澄んでいる。
震える指先が、そっと花びらに触れた。
◇
陽の光が、やわらかく草の上に落ちていた。
王宮の近くにある、よく遊びに行く草原だった。背の高い草が、二人の足元で静かに揺れている。風の音だけがあって、ほかには誰もいなかった。
「ねえ、見て」
先に見つけたのは、エリオスだった。
「百合だ」
少し嬉しそうに言って、花を指さす。
「……百合?」
リリアナが首を傾げると、エリオスは当然みたいに笑った。
「そう。百合」
少し考えるようにしてから、続ける。
「花言葉、知ってる?」
首を振る。
「――純粋、とか。無垢、とか」
それから、少しだけ間を置いて。
「ね。リリーの花だ」
冗談みたいな言い方だったのに、胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
「……私の?」
「うん」
迷いのない声。
「だって、名前も一緒だし」
そう言って、白い花を、もう一度見る。
「リリーってさ、百合の名前なんだよ」
名前。
その響きだけで、リリアナは息が詰まった。胸の奥にあったものを、強く掴まれたみたいだった。
エリオスが名前を呼んでくれるようになる前の屋敷のことを、一瞬、思い出す。
名前を呼ばれないまま、過ぎていく時間のこと。確かめるように、息をしていたこと。
呼ばれないのが当たり前で、それでも、ここにいると思いたくて。呼ばれなかったら、本当に、いなくなってしまいそうで。
「……名前って」
気づいたら、リリアナのほうから、言っていた。
「呼ばれないままだと、私、消えちゃいそうになる」
エリオスは、何も言わずに百合を見た。それから、そっと示す。
「じゃあさ」
白い花を指して。
「これは、リリーの花だよ」
「……」
「ちゃんと、呼ぶ」
風に揺れる百合。
「百合の花を見たら、リリーを思い出すね」
振り返って、まっすぐに。琥珀色の目が、光を含んでいた。
――約束みたいに。
◇
記憶が、今の野原へ戻る。
白い百合が、目の前で揺れている。
同じ花。同じ色。
でも、あの声は、今の野原にはなかった。
それなのに、百合を見た瞬間、その時の記憶が一気に押し寄せてきた。
名前を呼ばれたこと。
ここにいていいと、当たり前みたいに言われたこと。
エリオスは生きている。
神殿で見た。お茶会でも聞いた。健やかに過ごしている。
死んでしまったはずの人が、生きている。
もう二度と開かないと思った目が、今はどこかで光を見ている。もう二度と返ってこないと思った声が、誰かに言葉を返している。
それが、嬉しくてたまらなかった。
けれど、今のエリオスは、リリアナを知らない。あの声で、自分の名前を呼んではくれない。
会いに行ってはいけない。近づいてはいけない。
自分は、そういう色の少女なのだから。
嬉しいのに、苦しかった。
生きていてくれた喜びが大きすぎて、棺の前で泣けなかった痛みまで、いっしょにあふれた。
エリオスが死んだとき、リリアナは泣けなかった。棺の前でも、泣けなかった。
涙が出なかったのではない。泣くより先に、世界が止まってしまった。
冷たくなったエリオスの頬。もう開かない瞼。名前を呼んでも返ってこなかった声。
その全部を前にして、悲しむことさえできなかった。
どうか、と祈った。返して、と祈った。もう一度だけでいいから、と。
それしかできなかった。
あのとき置き去りにしたものが、今になって追いついてくる。
死んでしまった痛み。
生きていてくれた喜び。
もう自分を知らない寂しさ。
会いたいのに近づけない苦しさ。
呼ばれた名前の温かさ。
どれか一つではなかった。ないまぜになって、胸の中でぐちゃぐちゃになった。
この広い野原には、決められた場所がなかった。
座る席も、戻る部屋も、誰にも決められていない。
ただ、風が吹いて、草が揺れている。その中に、百合だけがあった。
エリオスが、リリーの花だと言ってくれた花が。
足元が、崩れる。
そのまま、草の上に座り込む。
息が、うまくできない。吸おうとしても、喉の奥で引っかかって、変な音になった。
両手で顔を覆っても、指の隙間から、ぼろぼろと落ちていく。止めようとすればするほど、胸の奥から次のものがこみ上げてくる。
声にならない音が、喉からこぼれた。
感情の名前が、追いつかない。
エリオス。
呼んだつもりだった。
でも、口から出たのは、名前にもならない音だけだった。
エリオス。
エリオス。
エリオス。
リリアナは、百合の前で、泣いた。
こんなふうに泣いたのは、初めてだった。
肩が震えて、息が途切れて、顔が熱くなって、涙も、声も、呼吸も、全部がばらばらになった。
草を濡らし、手を濡らし、顔をぐしゃぐしゃにして。
気が遠くなるほど、泣いた。
泣いて、泣いて、もう何で泣いているのかも分からなくなるまで泣いた。
それでも。
この野原は、何も言わなかった。
ただ、白い花が揺れている。




