第3話 百合の咲く場所(5)
野原の奥で、
白い花が風に揺れていた。
細い茎が、
ゆっくりと傾いて、
また戻る。
リリアナは、
その場に立ったまま、
しばらく目を離せずにいた。
——百合。
やがて、
引き寄せられるように一歩近づき、
そっと腰を落とす。
白く、静かな花。
主張するような香りではないのに、
なぜか、
そこだけ空気が澄んでいる。
指先が、
花びらに触れかけて、止まった。
そのとき。
——あ。
音もなく、
記憶がひらいた。
*
陽の光が、
やわらかく草の上に落ちていた。
王宮の近くにある、
よく遊びに行く草原だった。
背の高い草が、
二人の足元で静かに揺れている。
風の音だけがあって、
ほかには、
誰もいなかった。
「ねえ、見て」
先に見つけたのは、
エリオスだった。
「百合だ」
少し嬉しそうに言って、
花を指さす。
「……百合?」
リリアナが首を傾げると、
エリオスは当然みたいに笑った。
「そう。百合」
少し考えるようにしてから、
続ける。
「花言葉、知ってる?」
首を振る。
「——純粋、とか。
無垢、とか」
それから、
ほんの一拍置いて。
「ね。
リリーの花だ」
冗談みたいな言い方だったのに、
胸の奥が、
きゅっと締めつけられた。
「……私の?」
「うん」
迷いのない声。
「だって、名前も一緒だし」
そう言って、
白い花を、もう一度見る。
「リリーってさ、
百合の名前なんだよ。」
名前。
——その響きが、
リリアナの中で、
少しだけ揺れた。
*
冷たい家のことを、
一瞬、思い出す。
名前を呼ばれないまま、
過ぎていく時間のこと。
確かめるように、
息をしていたこと。
呼ばれないのが当たり前で、
それでも、
ここにいると思いたくて。
呼ばれなかったら、
本当に、
いなくなってしまいそうで。
「……名前って」
気づいたら、
リリアナのほうから、言っていた。
「呼ばれないままだと、
消えちゃいそうになる」
エリオスは、
何も言わずに百合を見た。
それから、
そっと示す。
「じゃあさ」
白い花を指して。
「これは、
リリーの花だよ」
「……」
「ちゃんと、呼ぶ」
風に揺れる百合。
「百合の花を見たら、
リリーを思い出すね」
振り返って、
まっすぐに。
琥珀色の目が、光を含んでいた。
——約束みたいに。
*
記憶が、
今の野原へ戻る。
白い百合が、
目の前で揺れている。
同じ花。
同じ色。
でも、
あの声は、
今の野原にはなかった。
——それなのに。
記憶が、
今になって、
一気に押し寄せた。
名前。
呼ばれたこと。
肯定されたこと。
ここにいていいと、
当たり前みたいに言われたこと。
嬉しいのか。
悲しいのか。
痛いのか。
分からなかった。
押さえ込んでいたものが、
壊れた蓋の隙間から、
一気に溢れ出した。
——生きている。
エリオスが。
——生きていてくれた。
その事実が、
胸に落ちて、
あたたかくて、
同時に、
引き裂かれるみたいに痛かった。
足元が、
崩れる。
そのまま、
草の上に座り込む。
息が、
うまくできない。
両手で顔を覆っても、
指の隙間から、
ぼろぼろと落ちていく。
声にならない音が、
喉からこぼれた。
感情の名前が、
追いつかない。
リリアナは、
百合の前で、
泣いた。
——こんなふうに泣いたのは、
初めてだった。
草を濡らし、
手を濡らし、
顔を歪めて。
気が遠くなるほど、
泣いた。
——それでも。
この野原は、
何も言わなかった。
ただ、
白い花が揺れている。




