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第3話 百合の咲く場所(5)

野原の奥で、

白い花が風に揺れていた。


細い茎が、

ゆっくりと傾いて、

また戻る。


リリアナは、

その場に立ったまま、

しばらく目を離せずにいた。


——百合。


やがて、

引き寄せられるように一歩近づき、

そっと腰を落とす。


白く、静かな花。

主張するような香りではないのに、

なぜか、

そこだけ空気が澄んでいる。


指先が、

花びらに触れかけて、止まった。


そのとき。


——あ。


音もなく、

記憶がひらいた。



陽の光が、

やわらかく草の上に落ちていた。


王宮の近くにある、

よく遊びに行く草原だった。


背の高い草が、

二人の足元で静かに揺れている。


風の音だけがあって、

ほかには、

誰もいなかった。


「ねえ、見て」


先に見つけたのは、

エリオスだった。


「百合だ」


少し嬉しそうに言って、

花を指さす。


「……百合?」


リリアナが首を傾げると、

エリオスは当然みたいに笑った。


「そう。百合」


少し考えるようにしてから、

続ける。


「花言葉、知ってる?」


首を振る。


「——純粋、とか。

 無垢、とか」


それから、

ほんの一拍置いて。


「ね。

 リリーの花だ」


冗談みたいな言い方だったのに、

胸の奥が、

きゅっと締めつけられた。


「……私の?」


「うん」


迷いのない声。


「だって、名前も一緒だし」


そう言って、

白い花を、もう一度見る。


「リリーってさ、

 百合の名前なんだよ。」


名前。

——その響きが、

リリアナの中で、

少しだけ揺れた。



冷たい家のことを、

一瞬、思い出す。


名前を呼ばれないまま、

過ぎていく時間のこと。

確かめるように、

息をしていたこと。


呼ばれないのが当たり前で、

それでも、

ここにいると思いたくて。


呼ばれなかったら、

本当に、

いなくなってしまいそうで。


「……名前って」


気づいたら、

リリアナのほうから、言っていた。


「呼ばれないままだと、

 消えちゃいそうになる」


エリオスは、

何も言わずに百合を見た。


それから、

そっと示す。


「じゃあさ」


白い花を指して。


「これは、

 リリーの花だよ」


「……」


「ちゃんと、呼ぶ」


風に揺れる百合。


「百合の花を見たら、

 リリーを思い出すね」


振り返って、

まっすぐに。

琥珀色の目が、光を含んでいた。


——約束みたいに。



記憶が、

今の野原へ戻る。


白い百合が、

目の前で揺れている。


同じ花。

同じ色。


でも、

あの声は、

今の野原にはなかった。


——それなのに。


記憶が、

今になって、

一気に押し寄せた。


名前。

呼ばれたこと。

肯定されたこと。


ここにいていいと、

当たり前みたいに言われたこと。


嬉しいのか。

悲しいのか。

痛いのか。


分からなかった。


押さえ込んでいたものが、

壊れた蓋の隙間から、

一気に溢れ出した。


——生きている。

エリオスが。


——生きていてくれた。


その事実が、

胸に落ちて、

あたたかくて、

同時に、

引き裂かれるみたいに痛かった。


足元が、

崩れる。


そのまま、

草の上に座り込む。


息が、

うまくできない。


両手で顔を覆っても、

指の隙間から、

ぼろぼろと落ちていく。


声にならない音が、

喉からこぼれた。


感情の名前が、

追いつかない。


リリアナは、

百合の前で、

泣いた。


——こんなふうに泣いたのは、

初めてだった。


草を濡らし、

手を濡らし、

顔を歪めて。


気が遠くなるほど、

泣いた。


——それでも。


この野原は、

何も言わなかった。


ただ、

白い花が揺れている。

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