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第3話 百合の咲く場所(1)

名授けの日から、数日が過ぎていた。


神殿で起きた出来事は、

もう遠い場所のことのように扱われていた。

日常は、何事もなかったかのように続く。


そして、リリーは――

その「戻る先」に、ちゃんと戻されていた。


屋敷は、古かった。

壁も柱も、丁寧につくられている。

一目で、かつては栄えていたのだと分かる造りだった。


祖父の代、

この屋敷は賑やかだったという。

客の馬車が並び、

人の出入りが絶えず、

庭先まで声が届いていた、と。


――その頃を知る者は、

もう、この屋敷にはいない。


今は、

広さだけが残っている。


中庭の噴水は止まり、

装飾は磨かれず、

使われない部屋が増えていった。


父は、

屋敷の中央にいる人間だった。

どこかに必ずいる。

だが、視線が合うことはほとんどない。


名を授かったことにも、

特別な反応はなかった。


――あの人にとって、

祝うべき出来事ではなかったのだ。


リリーが生まれた日、

母は、この世を去った。

病とも、体の弱さとも言われた。


けれど、

父の中では、

理由は、最初から一つしかなかった。


愛した妻を失った日と、

リリーが生まれた日が、

同じだったという事実。


その後、

父は一度も、

リリーを正面から見ようとしなかった。

目を向ければ、

失ったものを思い出してしまうから。


問題が起きなければ、それでいい。

体裁が保たれていれば、それでいい。


――その中に、

リリーは含まれていなかった。


継母は、

さらに距離を取った。

近寄らない。

触れない。

声をかけない。


まるで、

最初から存在していないもののように。


使用人たちは、

主人と奥方の態度を、

過不足なくなぞっていた。


「こちらへ」

「本日は、こちらになります」

「そのままで結構です」


言葉は丁寧だった。

命令でも、露骨な侮蔑でもない。


けれど、

そこには、わずかな拒絶が含まれていた。


名前を呼ばれることはなかった。

視線は合わない。

歩幅は合わせない。

振り返らない。


――敬語だけが残されて、

温度だけが削られている。


それが、

この屋敷での、

リリーの扱いだった。


廊下ですれ違うと、

視線が、ほんの一瞬だけ下がる。


色を失ったような、灰色。

灯りの下では、

ただ沈んで見える色。


昔から、

この国では好まれない色だった。

忌み色。

不吉な徴。


誰も、直接は口に出さない。

けれど、

避ける理由としては、十分だった。


視線は、すぐに逸らされる。

何も言われない。


それが、

この家の正解だった。


リリーの部屋は、

北向きの離れにあった。

庭にも、

正面にも面していない。


窓から見えるのは、

人の通らない裏手の木立だけ。


屋敷の中で、

最も端に置かれた場所。


――ここに、置かれている。

そう感じさせる位置だった。


名を授かったあとでも、

そこは変わらなかった。


増えたものは、何もない。

減ったものも、何もない。


ただ、

この家における立ち位置だけが、

はっきりした。


守られているわけでもない。

この家の輪郭から、最初から外されていた。


だから、

誰も気にしなかった。

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