第9話 白銀のホテル
旅に出ると決めてから、最初の週末までは、思っていたより早かった。
金曜日の夕方、澪は大学図書館のカウンターを閉めると、いつもより少しだけ急いで帰宅した。明日から一泊二日。遠方への旅行としては短いが、大学の仕事を休まずに動くなら、このくらいが現実的だった。
玄関には小さなキャリーケースが一つ。
中身は厚手の服、手袋、マフラー、替えの靴下、洗面道具。
それから、祖父の記録を写したノートと、真鍮の鍵。
翌朝、荷物や戸締りを最終確認してから、真鍮の鍵を最後に鞄へ入れたところで、スマートフォンが震えた。
『駅に着いた』
黎からだった。
澪は少し笑って、短く返す。
『今から行く』
以前なら、見知らぬ男と二人で遠くへ行くことなど考えもしなかっただろう。
けれど、今は違う。
怪異を前にしたとき、黎が自分を守ってくれることを知っている。
そして、黎だけでは見つけられないものを、自分なら見つけられることも、少しずつ分かってきた。
戦うのは黎。
残された記憶を読むのは、自分。
その役割分担が、いつの間にか自然になっていた。
駅で待っていた黎は、いつもの黒い髪に、濃い色のコートを着ていた。
人混みの中でも妙に目立つ。金色の瞳は、照明の下ではただの琥珀色にも見えた。
「寒くなるぞ」
「北海道だからね」
「そういう意味ではない」
黎は澪のキャリーケースを見ると、当然のように手を伸ばした。
「持つ」
「自分で持てるけど」
「知っている」
「じゃあ、なんで?」
「持ちたいからだ」
あまりに平然と言われ、澪は返事に困った。
「……変な人」
「今さらだな」
そう言って黎は歩き出した。
その横顔を見ながら、澪はふと思う。
こういう何でもない会話を、いつまで続けられるのだろう。
まだ出会ってから、それほど長くはない。
それなのに、黎と一緒にいることが、少しずつ日常になり始めていた。
列車と飛行機を乗り継ぎ、さらに目的地へ向かう。
移動だけで半日近くかかる。澪は窓の外を眺めながら、ふと職場のことを考えた。
月曜日にはまた図書館へ戻る。
返却された本を棚へ戻し、利用者の問い合わせに答え、いつもの机で資料を整理する。
そう考えると、今こうして遠い土地へ向かっていることが、少し不思議だった。
怪異を追うための旅なのに、特別な休暇を取ったわけではない。
仕事のある日常の、その隙間に旅を差し込んでいる。
それでも、澪は後悔していなかった。
むしろ、自分で決めたことだからこそ、足取りは軽かった。
隣の席で黎は黙って外を見ていた。
「ねえ」
「なんだ」
「黎は、こういう旅行ってしたことある?」
「旅行?」
「普通の旅行。観光地へ行って、名物を食べて、ホテルに泊まって……みたいな」
黎は少し考えた。
「覚えていない」
あまりにも素っ気ない答えだった。
澪は笑いかけて、やめた。
黎にとって「覚えていない」は、冗談ではない。
「そっか」
「ああ」
それ以上は聞かなかった。
窓の外に雪雲が広がっていく。
しばらくして、黎がぽつりと言った。
「だが、誰かと旅をするのは悪くない」
澪は思わず横を見る。
黎は外を見たままだった。
「……そうだね」
その一言だけで、なぜか胸の奥が少し温かくなった。
目的地の駅に着いたとき、空はすでに灰色だった。
ここからはバスに乗ることになるため、黎と澪はバス乗り場を探して、駅前をうろついていた。
外は雪が降っている。
「……本当に雪だ」
「何を期待していた?」
「写真で見る雪と、実際の雪は違うから」
吐いた息が白くなる。
駅前には観光案内の看板が立っていた。
かつてこの地域には、大型ホテルやスキー場を中心としたリゾート計画があったらしい。
その一角に、古いホテルの名前が載っている。
氷雪グランドホテル。
案内板の古い写真には、雪のない季節のホテルが写っていた。
大きな吹き抜けのロビー
その前に並ぶ観光バス
笑顔で手を振る家族連れ
写真の端にはスキー板を抱えた若者たちまでいる。
当時は、この場所そのものが「これから」を売っていたのだろう。
祖父の記録では、開業後しばらくは団体客や社員旅行で賑わい、周辺の観光開発も進んだとある。
けれど、景気が傾くと状況は変わった。
客足が減り、経営は苦しくなり、やがてホテルは閉館した。
華やかな写真と、目の前の廃墟。
その落差に、澪は言葉を失った。
祖父の記録では、別の呼び方もされていた。
――白銀のホテル。
「こっちだ」
黎が雪の向こうを見た。
バスを降りてから、しばらく歩いた先に、それはあった。
巨大な建物だった。
白い外壁はところどころ剥がれ、窓のいくつかには板が打ちつけられている。
かつては大勢の宿泊客を迎えたのだろう。
正面玄関へ続く広い階段は、雪に半分埋もれていた。
それでも、妙に立派だった。
古びているのに、捨てられたようには見えない。
正面玄関の脇には、雪に埋もれかけた石造りの案内板があった。
かつての館内施設が細かな文字で並んでいる。
大浴場
レストラン
宴会場
スキーロッカー
展望ラウンジ
「こんなにあったんだ」
「栄えていた頃は、人の声で満ちていたんだろうな」
黎の言葉に、澪は案内板へ目を戻した。
建物はその役目を終えている。
けれど、ここで過ごした人たちの時間まで消えたわけではない。
それが、この旅で最初に見る景色なのだと思った。
「閉館して、かなり経ってるんだよね」
「そう聞いている」
「なのに……」
澪は立ち止まった。
雪の中に、足跡があった。
ホテルの玄関へ向かって続いている。
新しい。
誰かが、ついさっき歩いたような跡だった。
「黎さん」
「見えている」
二人は顔を見合わせた。
その瞬間、正面玄関の奥で、明かりが灯った。
ひとつ。
またひとつ。
暗かったロビーが、黄金色に染まっていく。
壊れていたはずの回転扉が、ゆっくりと回り始めた。
澪の手の中で、鞄に入れた真鍮の鍵が熱を持つ。
「……閉館してるんじゃなかったの?」
「現実ではな」
黎の声が低くなる。
「ここは今、別の時間を重ね始めている」
「それってどういう……?」
「以前に少し話したことがあったろう。これが閉域だ」
黎はホテルを見上げたまま答えた。
「場所に残った記憶が濃くなりすぎると、現実の上に過去が重なることがある。そうなった領域を、閉域と呼ぶ」
「じゃあ、今見えてるものは……」
「このホテルが、いちばん強く残っている時間だ」
澪はもう一度、ロビーを見る。
壊れていたはずのシャンデリアが輝き、古い制服の従業員が行き交っている。
現実には存在しないはずのピアノの音まで、はっきり聞こえていた。
「記憶が、現実に出てきてる……」
「そういうことだ。ただし、まだ完全な閉域ではない。完全に閉じれば、外との時間の流れまでずれる」
黎が澪を見る。
「中に長くいれば、自分の記憶まで引きずられる。何か変だと思ったら、勝手に離れるな」
「分かった」
澪は頷いた。
怖さは消えない。
けれど、何が起きているのか分からない恐怖とは違っていた。
ここは、ホテルに積もった記憶が、現実へ滲み出している。
そのことだけは理解できた。
扉の向こうから、音が聞こえた。
ピアノ。
遠くで誰かが笑っている。
そして、ホテルの入口に立った二人へ向けて、誰もいないはずのフロントから声がした。
「――お待ちしておりました」
澪の背筋に冷たいものが走った。
フロントの奥に、人影が立っている。
白い手袋。
黒い制服。
背筋の伸びた男だった。
その男は深く頭を下げる。
「本日は、ご宿泊でしょうか」
澪は答えられなかった。
なぜなら、男の後ろに見えるロビーが、ほんの数秒前とはまるで違っていたからだ。
古いソファ。
磨かれた床。
壁際に並ぶ観葉植物。
そして、何十年も前の服装をした宿泊客たち。
誰もこちらを見ていない。
ただ、それぞれが決められた場所で、決められた時間を過ごしている。
まるで、今日という日だけを永遠に繰り返しているように。
黎が一歩前へ出た。
「入るぞ」
「待って」
澪は鍵を握った。
怖かった。
それでも、不思議と逃げたいとは思わなかった。
ホテルの奥から、誰かを待ち続けている気配がする。
その記憶が、雪よりも冷たく、静かに胸へ触れていた。
「ここには、まだ終わっていない人がいる」
黎が澪を見る。
「そう思うのか」
「うん」
澪は玄関へ足を踏み入れた。
その瞬間、背後で扉が閉まった。
外の雪景色が消える。
ロビーの時計が、深夜零時を指していた。
そして、誰もいないはずの館内に、チェックインを告げるベルが鳴り響いた。
――チリン。
「いらっしゃいませ」
今度は、ロビー中から声がした。
無数の宿泊客が、一斉にこちらを向いた。
その顔には、笑顔が浮かんでいた。
その瞬間、澪は気づいてしまった。
彼らの視線は、澪を見ている。
けれど、その目の奥には、生きた人間の気配がなかった。
彼らは客ではない。
このホテルに残された、何十年分もの記憶だった。
そして――
その記憶は、まだ誰かを待っている。




