第10話 手を離すな
ロビーに並んだ宿泊客たちは、誰も騒がなかった。
笑っている。
談笑している。
ピアノの音に合わせて、グラスを傾けている。
けれど、その全員が、同じ瞬間に澪たちを見た。
目が合った。
次の瞬間、男たちの口から同じ言葉がこぼれた。
「お客様、お部屋へご案内いたします」
澪は息を呑んだ。
その声には敵意がない。
むしろ、親切だった。
だからこそ怖い。
「澪」
黎が低く呼んだ。
「俺から離れるな」
「分かってる」
「本当に?」
「……分かってるってば」
黎は一瞬だけ澪を見て、それ以上は言わなかった。
フロントへ近づく。
白い手袋をした支配人が、深く頭を下げた。
「ようこそ、白銀のホテルへ」
その声を聞いた途端、澪の視界が揺れた。
ホテルの壁が、別の風景へ重なった。
雪の降る夜。
開業を祝う人々。
新しい制服を着た従業員。
巨大なシャンデリア。
笑い声。
期待。
ここへ来れば、特別な時間を過ごせる。
そんな夢が、建物いっぱいに詰まっていた。
――けれど。
景色が変わる。
宿泊客が減っていく。
従業員が一人、また一人と辞めていく。
電気の消える客室。
閉まったレストラン。
最後の日。
支配人は、一人でロビーに立っていた。
誰も来ない。
それでも、制服の襟を正して、入口を見つめている。
――本日も、お客様をお迎えする。
その思いだけが残った。
「澪!」
黎の声で、現実へ引き戻される。
目の前に、白い腕が伸びていた。
支配人だった。
顔は笑っている。
けれど、その手だけが異様に長く伸びている。
黎が澪の前へ出た。
黒い影のようなものが走る。
支配人の腕が弾かれ、床に落ちた。
ピアノの音が止まった。
宿泊客たちが、一斉に立ち上がる。
「お客様、何をなさいます」
声が重なった。
黎の目が金色に光る。
「お前たちは、もう客を迎える必要はない」
「必要がございます」
支配人は即答した。
「このホテルは、お客様をお迎えするためにございます」
その言葉と同時に、館内の時計が一斉に動き始めた。
零時。
零時。
零時。
すべての時計が、同じ時間を指している。
「閉館した日の夜だ」
澪は気づいた。
時計の針が零時を指すたび、ロビーの景色がほんの少しだけ濃くなる。
窓の外に見える雪まで、さっきより近く感じた。
先ほど黎から聞いた言葉が頭をよぎる。
――記憶が濃くなりすぎると、現実の上に過去が重なる。
「閉域が、深くなってる」
澪が呟く。
「ああ」
黎の返事は短かった。
「ここから先は、時間の感覚を信用するな」
澪は腕時計を見た。
秒針は動いている。
なのに、同じ一分がいつまでも終わらないように感じられた。
「このホテルは、あの日を繰り返してる」
黎が頷く。
「同じ一夜を繰り返し、最後の客を待っている」
「最後の客……?」
支配人の顔が、初めて歪んだ。
「まだ、お見えになっておりません」
その瞬間、窓の外で吹雪が巻き上がった。
ホテルの扉が勝手に開く。
冷たい風がロビーへ流れ込んだ。
誰かが歩いてくる。
雪に濡れた古いコート。
白い息。
ゆっくりと近づいてくる老人だった。
「……お客様」
支配人が震える声で言った。
「お待ちしておりました」
老人は何も答えない。
ただ、ホテルを見上げている。
澪がその老人の腕にそっと触れると、記憶が流れ込んできた。
若い頃、このホテルへ来た日のこと。
妻と二人で予約した部屋。
記念日に来るはずだったこと。
けれど仕事が終わらず、約束の日に間に合わなかったこと。
妻が先に亡くなり、結局、二人でここへ来ることはなかった。
そして今日。
何十年も経ってから、老人は一人でこのホテルを訪れた。
けれど、現実のホテルはもう存在しない。
それでも残響だけが、彼を待ち続けていた。
「……そうだったんだ」
澪の目から涙が落ちた。
記憶の中には、老人が若い妻と交わした何気ない会話も残っていた。
『いつか、雪の季節に来よう』
その約束は、派手なものではなかった。
ただ、二人で同じ景色を見たい。
その程度の、ありふれた願いだった。
けれど、人の人生では、そんな小さな約束ほど果たせないまま残ることがある。
澪には、それが痛いほど分かった。
だからこそ、このホテルが待ち続けた理由も分かった気がした。
支配人が老人へ近づく。
「お部屋をご用意しております」
老人は首を横に振った。
「もう、いいんだ」
その一言で、館内の空気が変わった。
支配人の顔から笑顔が消える。
「いいえ」
「もう十分だ」
「お客様をお迎えすることが、私の役目です」
黎が支配人の前に立った。
「その役目は、いつまで続けるつもりだ」
「最後のお客様が、お帰りになるまで」
「なら、終わらせればいい」
黎の手が、支配人の肩へ触れる。
けれど澪は、その手を止めた。
「待って」
「澪?」
「この人が終わらせられる言葉を、私が言いたい」
黎はしばらく澪を見た。
やがて、手を下ろす。
「分かった」
その短い返事が、澪には少し嬉しかった。
黎は自分よりずっと長く、こうした残響と向き合ってきたはずだ。
だから、もっと簡単に判断してしまう人なのだと思っていた。
けれど今は、澪の選んだ方法を待ってくれている。
それは、戦闘で守られるのとは違う種類の信頼だった。
澪は支配人へ向き直った。
「ありがとうございました」
支配人が目を見開く。
「長い間、ここでお客様を待っていたんですよね」
声が震えた。
「もう、待たなくていいんです」
静かだった。
けれど、その言葉はホテル全体へ広がった。
ピアノが止まる。
時計が止まる。
宿泊客たちの姿が、雪のように少しずつ消えていく。
最後に支配人が、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
その姿も消えた。
外では、夜明け前の雪が静かに降っていた。
気づけば、ホテルはただの廃墟に戻っている。
ロビーに差し込む薄明かりの中で、澪は胸元の鞄を見た。
中の真鍮の鍵が、淡く光っている。
「また反応してる」
黎が鍵を見つめた。
鍵の表面に刻まれた紋章の一部が、今までよりはっきり浮かび上がっている。
「第一の紋章だ」
「……居場所?」
「そうだ」
黎は鍵へ手を伸ばしかけて、止めた。
その顔に、ほんの一瞬だけ苦痛が浮かんだ。
「どうしたの?」
「いや」
「今、何か思い出した?」
黎は答えなかった。
代わりに、ホテルの奥を見た。
「この場所の記憶が、俺の中に触れた」
「何を思い出したの?」
「……分からない」
それが、初めて聞く黎の弱い声だった。
澪は何も言わなかった。
ただ、隣に立った。
黎も、何も言わなかった。
以前なら、こんな沈黙は気まずかっただろう。
けれど今は違う。
何も言わなくても、そこにいることを確かめられるような気がした。
澪は雪の向こうを見ながら、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
しばらく二人で雪を見ていた。
「帰ろうか」
澪が言う。
「ああ」
ホテルを出る。
雪はまだ降っていた。
そのとき、風が突然強くなった。
視界が白くなる。
「黎さん!」
返事がない。
ほんの数歩先にいたはずなのに、姿が見えなくなった。
澪は手を伸ばした。
白い雪の中から、黎の声が聞こえる。
「澪!」
いつもより強い声だった。
次の瞬間、冷たい手が澪の手を掴んだ。
「手を離すな」
「……うん」
黎の指が強く握り返す。
二人は吹雪の中を歩き出した。
ホテルの姿が、雪の向こうへ消えていく。
けれど澪は、ふと振り返った。
廃墟の二階。
誰もいないはずの窓に、ひとつだけ明かりが灯っている。
その窓辺に立っていたのは、支配人ではなかった。
見覚えのない、少女だった。
少女は澪を見つめている。
そして、口を動かした。
――また、会えるよ。
次の瞬間、明かりが消えた。
澪は足を止めた。
「……黎さん」
「どうした」
「今、ホテルに誰かいた」
黎も振り返る。
だが、そこには何もない。
雪だけが降っていた。
澪の手の中で、真鍮の鍵がもう一度だけ、淡く光った。
その光は、ホテルではなく、遠い南東の方角を指していた。
――旅は、始まったばかりだった。




