第8話 旅に出る理由
翌日の午後。
澪は仕事を終えると、大学図書館の小さな休憩スペースで、祖父の残した資料をもう一度開いた。
昨日は封筒を閉じた。
今日は、開く。
仕事を終えてからなら、少なくとも勤務中に私的な調査をしているわけではない。
それでも、机の上に並べた資料を見ていると、少しだけ不思議な気分になった。
新聞の切り抜き。
観光パンフレット。
古い施設案内。
どれも華やかな言葉で、その場所の未来を語っている。
「家族で楽しめる新しいリゾート」
「自然と人が出会う、次代の観光拠点」
「誰もが憧れる夢の休日」
ページをめくるたび、まだ何も失われていなかった頃の時間が見えてくる。
今では閉館したホテルも、営業を終えた遊園地も、当時は未来そのものだったのだろう。
澪は一枚の写真を手に取った。
大勢の人が写っている。
笑っている人。
手を振っている子ども。
制服姿の従業員。
その背景には、巨大な建物。
写真の裏には祖父の字で、短くこう書かれていた。
「場所は、人がいなくなっても終わらない」
澪はしばらく、その一文を見つめた。
ホテルで見た総支配人を思い出す。
最後の客を待ち続けていた人。
役目が終わったことを知らないまま、何十年も同じ夜を繰り返していた。
あれが偶然だったとは思えない。
祖父も、同じようなものを見ていたのだろうか。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には、黎からの短いメッセージ。
《仕事は終わったか》
澪は少し笑ってから返信した。
《今終わった。資料を見てる》
すぐに返ってくる。
《外にいる》
「……早いなあ」
図書館を出ると、夕暮れの歩道に黎が立っていた。
黒い髪が風に揺れている。
「待ってたの?」
「そうだ」
「いつから?」
「少し前」
「それを待ってたって言うんだよ」
黎は何も言わず、澪の手元の封筒を見た。澪はきちんと手続きを得た上で、資料を借り出すことにしたのだ。親族が寄贈したものということもあり、無事に許可をもらうことができた。
「開けたのか」
「うん」
「何が書いてあった?」
「まだ分からない。でも、祖父はいろんな場所を見ていたみたい」
澪は写真を一枚見せた。
「ホテルだけじゃない。遊園地や展望施設、山の観光施設もある」
黎は写真を見た瞬間、わずかに目を細めた。
「……この場所」
「知ってる?」
「いや」
答えたあと、黎は少し考える。
「正確には、覚えていない」
その言葉に、澪は何も言わなかった。
最近、黎の「覚えていない」は、ただの言い訳ではないと分かってきた。
彼には、本当に失われた記憶がある。
だからこそ、無理に聞き出すことはしなかった。
「祖父の資料には、八つに分かれた印もあった」
「見た」
「九条さんは何か知ってる?」
「まだ、何も確定できない」
「そっか」
二人の間に、夕方の街の音が流れた。
車の走る音。
駅へ向かう人の足音。
遠くで鳴る信号機。
普通の一日だった。
けれど澪の中では、少しずつ何かが変わっていた。
最初は、図書館司書として資料の不自然さを調べただけだった。
閉館したホテルに、なぜ毎年同じ日に宿泊予約が入るのか。
それを確かめたかった。
そして黎に出会い、ホテルに残った記憶を知った。
怪異は、怖いだけの存在ではなかった。
誰かが忘れられなかった時間だった。
誰かが終わらせられなかった役目だった。
「ねえ、九条さん」
「何だ」
「巡守会って、全国にいるの?」
「いる」
「じゃあ、こういう場所は他にもあるんだよね」
黎は答えなかった。
それが答えだった。
「……あるんだ」
「ああ」
「たくさん?」
「少なくとも、俺が知っているだけでも」
澪は息を吐いた。
ホテル一つで、あれだけの記憶が残っていた。
もし同じような場所が全国にあるのなら。
まだ誰にも気づかれていない残響が、どこかで眠っているかもしれない。
誰かを待ち続けている怪異が、またいるかもしれない。
そして、その場所に祖父の記録が残っている可能性もある。
「私、行ってみたい」
黎が澪を見る。
「どこへ?」
「資料にある場所」
「旅行として?」
「最初は、そうなると思う」
澪は少し考えてから続けた。
「でも、それだけじゃない。何が残っているのか、確かめたい」
黎の表情がわずかに変わった。
「危険だ」
「分かってる」
「ホテルのときとは違う怪異もいる」
「それも分かってる」
「残響に触れれば、お前自身が引きずられることもある」
澪は黙った。
ホテルで総支配人の記憶を読んだとき、胸の奥まで誰かの感情に満たされた。
あの感覚は、今でも忘れられない。
それでも。
「それでも、行きたい」
今度は、はっきり言えた。
最初の頃なら、黎に止められたら引き下がっていたかもしれない。
怖いからではない。
自分が何をしているのか分からなかったからだ。
けれど今は違う。
怪異を倒すためではない。
忘れられた場所に残っているものを、ちゃんと知りたい。
それを知ったうえで、必要なら還したい。
「私、図書館の資料を見てるだけじゃ、もう物足りないと思う」
黎は長い間、澪を見ていた。
やがて、静かに息を吐く。
「……そう言うと思っていた」
「え?」
「お前は、一度知ったものを放っておけない」
「司書だから?」
「それもある」
黎は少しだけ笑った。
「だが、それだけじゃない」
その言葉が、なぜか胸に残った。
「じゃあ、どうする?」
「俺が巡守会の記録を確認する。お前は祖父の資料をもう少し調べろ」
「一緒に行ってくれるの?」
「ああ」
「じゃあ、相棒だね」
澪が何気なく言うと、黎は一瞬だけ目を見開いた。
「……相棒」
「嫌?」
「いや」
短い返事だった。
けれど、ほんの少しだけ嬉しそうに聞こえた。
* * *
その夜。
澪は自宅のテーブルに資料を広げた。
仕事をしている以上、何日も自由に旅行できるわけではない。
遠くへ行くなら休日か、有給休暇を使う必要がある。
だから、最初の旅は無理のない日程にする。
一泊か二泊。
必要なら連休に合わせる。
それでも、全国にはまだたくさんの場所がある。
全部を一度に調べることはできない。
澪は資料の中から、一枚のパンフレットを選んだ。
雪に覆われた山。
その麓に建つ、大きなホテル。
かつて観光客で賑わった場所らしい。
現在は閉館している。
写真の隅に、小さな文字があった。
「冬季休業中」
その一文を見た瞬間、澪は眉をひそめた。
閉館したはずの施設なのに。
なぜ「冬季休業中」なのか。
そして、その写真の裏には、祖父の字があった。
「次に見るなら、雪の季節」
澪は写真を裏返したまま、しばらく動けなかった。
スマートフォンが鳴る。
黎からだった。
《場所が決まった》
澪は返信する。
《私も決めた》
少しして、返事が来た。
《どこだ》
澪はパンフレットの施設名を送った。
数秒後、既読がついた。
そして、珍しく返信が遅れた。
《……そこか》
その三文字だけで、澪は胸騒ぎを覚えた。
「知ってるの?」
電話をかけようとした、その瞬間。
テーブルの上の真鍮の鍵が、かすかに鳴った。
金属が触れ合うような、小さな音。
澪が手を伸ばす。
鍵の紋章が、淡く光った。
ホテルで見たときとは違う。
その光は、窓の外へ向かうように細く伸びた。
まるで、どこか遠い場所を指している。
澪は窓の外を見た。
夜の街に、雪はない。
けれどその向こうに、まだ見たことのない場所がある。
祖父が残した記録。
八つの紋章。
そして、黎が知っているかもしれない過去。
ここから先は、図書館の机の上だけでは追えない。
澪は鍵を握った。
「行こう」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ただ、もう決めていた。
次の休み。
澪と黎は、最初の旅に出る。
そして雪の向こうで待っているものが、二人を最初の紋章へ導くことになる。
澪はノートを開き、これからの調査方法を書き出した。
まず、祖父の資料にある施設を一覧にする。
次に、現在も立ち入り可能なのか、閉館しているのかを確認する。
そして、仕事の予定と照らし合わせて、無理なく行ける場所から選ぶ。
怪異がいるかどうかは、その後だ。
図書館司書として資料を調べる。
必要なら現地へ行く。
残響が見つかったら、黎と一緒に向き合う。
それなら、今の生活を捨てる必要はない。
むしろ、生活を続けながらでなければ、長くは続けられない。
澪はカレンダーを見た。
次の週末なら一泊できる。
翌週は仕事があるから、戻ってこなければならない。
遠い場所へ行くなら、移動時間も考えなければいけない。
「……旅行って、思ったより大変だな」
思わず呟く。
そのとき、スマートフォンが震えた。
《無理をするな》
黎からだった。
「……見てたの?」
もちろん、見ているはずはない。
それでも、まるで今の独り言を聞かれていたようで、澪は少し笑った。
《分かってる》
そう返信してから、もう一度カレンダーを見る。
仕事がある。
帰る家がある。
いつもの生活がある。
その上で、知らない場所へ行く。
それでいい。
怪異を追うために、普通の生活を捨てる必要はない。
むしろ、日常があるからこそ、帰ってこられる。
そう思うと、旅に出ることへの怖さが少しだけ薄れた。




