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黄昏の残響 ― 記憶を読む司書と、忘れていく男 ―  作者: ハルカ


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7/20

第7話 祖父の記録

ホテルが消えた朝から、三日が過ぎた。


その三日間、澪は普段どおり大学図書館で働いた。

学生のレポート相談に応じ、返却された本を棚へ戻し、閉架書庫から依頼された資料を出す。


いつもの仕事をしているはずなのに、ふとした瞬間、あのホテルのロビーが頭に浮かんだ。


そして、もう一つ。

祖父の記録のことが、ずっと気になっていた。


その日の昼休み、澪は職員用端末で古い受入記録を調べていた。


表紙には、白鷺グランドホテルの文字。

その脇には、先日の整理票から写し取った祖父の名前がある。


――雨宮□□。


自分が生まれるずっと前の名前なのに、そこにあるだけで妙に近く感じた。


真鍮の鍵に添付されていた整理票には、短い但し書きしか残されていない。


「関連資料、別保管」


たった一行。

けれど、その一行が気になって仕方がなかった。


「別保管って、どこに……」


澪は図書館の古い受入記録を一枚ずつ追っていった。


大学図書館に入ってくる郷土資料は、寄贈された時期や経路によって複数の台帳に分けられている。

古い資料ほど記録は簡略で、現在の検索システムだけでは追えないものも多い。


祖父の名前を手がかりに探していくと、白鷺グランドホテルの資料とは別の番号が一つだけ見つかった。


分類欄には、「郷土資料・未整理」と記入があり、

備考には、「旧寄贈資料。関連施設資料あり」とある。


「……これだ」


胸の奥が、わずかに高鳴った。

そのとき、目の前に誰かが立っていることに気づき、澪は画面から顔を上げた。


「雨宮さん、休憩入らないの?」


同僚だった。


澪は慌てて時計を見る。


「すみません。あと少しだけ」


「また調べ物? 最近、古いホテルばっかり見てない?」


「……ちょっと気になる資料があって」


「へえ。熱心だねえ」


同僚は笑って去っていった。


澪は小さく息を吐く。

仕事と関係のない調査までしていると思われたら困る。


けれど、図書館にある資料を調べること自体は、司書として不自然なことではない。

まして祖父の名前が出てきた以上、気にならないほうがおかしかった。


昼休みが終わる。

澪は見つけた記録をメモし、午後の仕事に戻った。


* * *


その日の退勤後、図書館の正面玄関を出ると、少し離れた場所に黎が立っていた。


「待ってたの?」


「ああ」


「図書館の中には入らなかったんだ」


「入る理由がない」


その答えに、澪は少し笑った。


「それが普通なんだけどね」


「何か言ったか?」


「ううん。こっちの話」


二人は図書館から少し歩いたところにある喫茶店へ向かった。

それぞれの調査結果を報告するためだ。


窓際の席に座ると、澪は昼間に見つけた記録を黎に見せた。


「祖父の記録を見つけたの」


「そうか」


「白鷺グランドホテルの資料とは別に、関連施設の資料が保管されているみたい。今日、職員用の記録から場所を追えた」


黎の視線が細くなる。


「お前の祖父が?」


「名前が記録に残ってる。まだ、それ以上は分からない」


「なら、先に資料を確認しよう」


黎の言い方は簡潔だった。

けれど、その声にはわずかな緊張が混じっている。


「九条さんも気になる?」


「気になる」


「ホテルの鍵が、祖父の記録につながったから?」


「それだけじゃない」


黎は澪の手元を見た。


「この紋章だ」


澪は鍵を取り出した。


真鍮の表面には、ホテルで記憶を還したあとに現れた紋章が浮かんでいる。

家のようにも見える、不思議な形。


「『居場所』って言ってたよね」


「ああ」


「でも、これが何なのかは分からない」


「俺にも分からない」


その答えが、意外だった。

怪異のことなら何でも知っているように見える黎が、分からないと言う。


「……なんだか不思議な感じがする」


「何が?」


「九条さんが分からないって言うの」


「俺だって全部知っているわけじゃない」


少しだけ不機嫌そうに言って、黎は目を逸らした。


澪は、あの金色の瞳を思い出した。

ずっと昔からそこにいたような、不自然なほど変わらない姿。


けれど、黎自身の過去については、本人でさえ覚えていないことがある。


「祖父なら、何か知っていたのかな」


澪が呟くと、黎はすぐには答えなかった。


「……可能性はある」


「どうして?」


「お前が持っている鍵と、古い記録が同じ場所へ向かっている」


それは答えになっているようで、なっていなかった。

けれど澪は、それ以上追及しなかった。


まずは、自分で記録を確かめたい。


「明日、保管場所を確認してみる」


「ああ」


「九条さんは?」


「俺は別に調べる」


「巡守会の記録?」


「そうだ」


二人は、そこで一度別れた。


* * *


翌日。


澪は勤務の合間を見ながら、前日に確認した番号をもとに未整理資料の保管場所を探した。

現在の目録には登録されていない資料だったため、保管場所を確認するまでに少し時間がかかった。


けれど、記録に残された番号は間違っていなかった。


資料室の棚の奥。

古い段ボール箱が一つ置かれていた。


蓋には、手書きで祖父の名前が記されている。


――雨宮□□。


澪は息を止めた。


箱を開ける。

中には、新聞の切り抜き、観光パンフレット、施設の案内図、古い写真が入っていた。


白鷺グランドホテルだけではない。


ホテル。

遊園地。

展望施設。

山の観光施設。


どれも、今では役目を終えた場所だった。


「どうして祖父が、こんなものを……」


一番上の封筒を取り出したところで、澪は手を止めた。


封筒の裏側に、見覚えのない印が押されている。

円の中に、八つに分かれたような線。


ただし、印の一部は古い紙に擦れていて、全体の形は分からない。


澪は鍵を取り出した。

真鍮の表面に浮かんだ紋章が、淡く光る。


「……同じ?」


そう呟いた瞬間だった。


鍵が、かすかに震えた。


澪は反射的に手を引く。

けれど、今のところ何かが見えるわけではない。


しばらく迷ったあと、澪は封筒を元に戻した。

今日はここまでにする。


祖父が何を残したのか。

それを知るには、落ち着いて一つずつ確認する必要がある。


急いで開けば、見落としてしまうものがあるかもしれない。


資料を元の箱へ戻し、澪はその場を離れた。


* * *


その日の退勤後。

喫茶店で、澪は黎に箱のことを話した。


「祖父の名前が書かれた箱を見つけた」


「中身は?」


「全国の古い施設の資料。ホテルだけじゃなかった」


黎は黙って聞いている。


「それと、封筒に印があった。鍵の紋章と似ていた」


「……そうか」


「八つに分かれたような印」


その言葉を聞いた瞬間、黎の表情がわずかに変わった。


「何か知ってる?」


「まだ何とも言えない」


「また?」


「本当に分からない」


黎は少し考え込んだ。


「だからこそ、急がないほうがいい」


「うん」


澪は頷いた。

そして、もう一つ話すべきことを思い出した。


「箱の中に、祖父のメモもあった」


「何て?」


澪はスマートフォンに撮っておいた画像を見せた。

細長い紙に、祖父の字で短く書かれている。


――記録は場所ごとに残すこと。

――記憶を一つにまとめてはいけない。


黎は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「……それらしいな」


「何が?」


「残響は、その場所にあるものだ」


黎は静かに続けた。


「別の場所の記憶を勝手に混ぜれば、形が変わる」


「だから、場所ごとに記録しろってこと?」


「おそらく」


澪は画面を見つめる。


祖父は、怪異について知っていたのだろうか。

それとも、何か別のものを記録していたのだろうか。


「祖父は、どうしてこんな記録を残したのかな」


「それを調べる必要がある」


「うん」


黎は紙を返そうとして、ふと指を止めた。


「この字……」


「何?」


「いや」


黎は首を横に振った。


「見覚えがある気がしただけだ」


その言葉に、澪は黎を見る。


「祖父の字を?」


「たぶん違う」


「じゃあ、何に?」


黎は答えなかった。


その横顔には、いつもの落ち着きとは違うものがあった。

思い出せない記憶を、無理に掘り起こそうとしているような。


澪は、それ以上聞かなかった。

まだ聞いてもいないことを、一度に全部知る必要はない。


それよりも、今は目の前の記録を一つずつ確かめることが大切だった。


* * *


その夜。

帰宅した澪は、祖父の資料を机の上に並べた。


新聞の日付。

施設名。

写真。

古いパンフレット。


祖父の短いメモ。


ばらばらだったものが、少しずつ一本の線になっていく。

白鷺グランドホテルは、その最初の一つだったのかもしれない。


では、ほかの施設は何なのか。

祖父は、何を探していたのか。

そして、八つに分かれた印は何を意味するのか。


澪は、最後に一枚の古い写真を手に取った。


そこには、今は存在しない観光施設が写っている。

写真の裏には、施設名も日付もない。


ただ、祖父の字で一言だけ。


――次は、ここ。


澪の指が止まった。


その瞬間。


机の上に置いていた真鍮の鍵が、ひとりでに回った。


カチ、と。


どこにも鍵穴はない。

それなのに、鍵は確かに何かを開けようとしていた。


澪は写真と鍵を交互に見つめる。


白鷺グランドホテルで終わったと思っていた出来事は、終わっていなかった。

祖父が残した記録は、まだ続いている。


そして、その先には――


次の場所が待っていた。

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