第7話 祖父の記録
ホテルが消えた朝から、三日が過ぎた。
その三日間、澪は普段どおり大学図書館で働いた。
学生のレポート相談に応じ、返却された本を棚へ戻し、閉架書庫から依頼された資料を出す。
いつもの仕事をしているはずなのに、ふとした瞬間、あのホテルのロビーが頭に浮かんだ。
そして、もう一つ。
祖父の記録のことが、ずっと気になっていた。
その日の昼休み、澪は職員用端末で古い受入記録を調べていた。
表紙には、白鷺グランドホテルの文字。
その脇には、先日の整理票から写し取った祖父の名前がある。
――雨宮□□。
自分が生まれるずっと前の名前なのに、そこにあるだけで妙に近く感じた。
真鍮の鍵に添付されていた整理票には、短い但し書きしか残されていない。
「関連資料、別保管」
たった一行。
けれど、その一行が気になって仕方がなかった。
「別保管って、どこに……」
澪は図書館の古い受入記録を一枚ずつ追っていった。
大学図書館に入ってくる郷土資料は、寄贈された時期や経路によって複数の台帳に分けられている。
古い資料ほど記録は簡略で、現在の検索システムだけでは追えないものも多い。
祖父の名前を手がかりに探していくと、白鷺グランドホテルの資料とは別の番号が一つだけ見つかった。
分類欄には、「郷土資料・未整理」と記入があり、
備考には、「旧寄贈資料。関連施設資料あり」とある。
「……これだ」
胸の奥が、わずかに高鳴った。
そのとき、目の前に誰かが立っていることに気づき、澪は画面から顔を上げた。
「雨宮さん、休憩入らないの?」
同僚だった。
澪は慌てて時計を見る。
「すみません。あと少しだけ」
「また調べ物? 最近、古いホテルばっかり見てない?」
「……ちょっと気になる資料があって」
「へえ。熱心だねえ」
同僚は笑って去っていった。
澪は小さく息を吐く。
仕事と関係のない調査までしていると思われたら困る。
けれど、図書館にある資料を調べること自体は、司書として不自然なことではない。
まして祖父の名前が出てきた以上、気にならないほうがおかしかった。
昼休みが終わる。
澪は見つけた記録をメモし、午後の仕事に戻った。
* * *
その日の退勤後、図書館の正面玄関を出ると、少し離れた場所に黎が立っていた。
「待ってたの?」
「ああ」
「図書館の中には入らなかったんだ」
「入る理由がない」
その答えに、澪は少し笑った。
「それが普通なんだけどね」
「何か言ったか?」
「ううん。こっちの話」
二人は図書館から少し歩いたところにある喫茶店へ向かった。
それぞれの調査結果を報告するためだ。
窓際の席に座ると、澪は昼間に見つけた記録を黎に見せた。
「祖父の記録を見つけたの」
「そうか」
「白鷺グランドホテルの資料とは別に、関連施設の資料が保管されているみたい。今日、職員用の記録から場所を追えた」
黎の視線が細くなる。
「お前の祖父が?」
「名前が記録に残ってる。まだ、それ以上は分からない」
「なら、先に資料を確認しよう」
黎の言い方は簡潔だった。
けれど、その声にはわずかな緊張が混じっている。
「九条さんも気になる?」
「気になる」
「ホテルの鍵が、祖父の記録につながったから?」
「それだけじゃない」
黎は澪の手元を見た。
「この紋章だ」
澪は鍵を取り出した。
真鍮の表面には、ホテルで記憶を還したあとに現れた紋章が浮かんでいる。
家のようにも見える、不思議な形。
「『居場所』って言ってたよね」
「ああ」
「でも、これが何なのかは分からない」
「俺にも分からない」
その答えが、意外だった。
怪異のことなら何でも知っているように見える黎が、分からないと言う。
「……なんだか不思議な感じがする」
「何が?」
「九条さんが分からないって言うの」
「俺だって全部知っているわけじゃない」
少しだけ不機嫌そうに言って、黎は目を逸らした。
澪は、あの金色の瞳を思い出した。
ずっと昔からそこにいたような、不自然なほど変わらない姿。
けれど、黎自身の過去については、本人でさえ覚えていないことがある。
「祖父なら、何か知っていたのかな」
澪が呟くと、黎はすぐには答えなかった。
「……可能性はある」
「どうして?」
「お前が持っている鍵と、古い記録が同じ場所へ向かっている」
それは答えになっているようで、なっていなかった。
けれど澪は、それ以上追及しなかった。
まずは、自分で記録を確かめたい。
「明日、保管場所を確認してみる」
「ああ」
「九条さんは?」
「俺は別に調べる」
「巡守会の記録?」
「そうだ」
二人は、そこで一度別れた。
* * *
翌日。
澪は勤務の合間を見ながら、前日に確認した番号をもとに未整理資料の保管場所を探した。
現在の目録には登録されていない資料だったため、保管場所を確認するまでに少し時間がかかった。
けれど、記録に残された番号は間違っていなかった。
資料室の棚の奥。
古い段ボール箱が一つ置かれていた。
蓋には、手書きで祖父の名前が記されている。
――雨宮□□。
澪は息を止めた。
箱を開ける。
中には、新聞の切り抜き、観光パンフレット、施設の案内図、古い写真が入っていた。
白鷺グランドホテルだけではない。
ホテル。
遊園地。
展望施設。
山の観光施設。
どれも、今では役目を終えた場所だった。
「どうして祖父が、こんなものを……」
一番上の封筒を取り出したところで、澪は手を止めた。
封筒の裏側に、見覚えのない印が押されている。
円の中に、八つに分かれたような線。
ただし、印の一部は古い紙に擦れていて、全体の形は分からない。
澪は鍵を取り出した。
真鍮の表面に浮かんだ紋章が、淡く光る。
「……同じ?」
そう呟いた瞬間だった。
鍵が、かすかに震えた。
澪は反射的に手を引く。
けれど、今のところ何かが見えるわけではない。
しばらく迷ったあと、澪は封筒を元に戻した。
今日はここまでにする。
祖父が何を残したのか。
それを知るには、落ち着いて一つずつ確認する必要がある。
急いで開けば、見落としてしまうものがあるかもしれない。
資料を元の箱へ戻し、澪はその場を離れた。
* * *
その日の退勤後。
喫茶店で、澪は黎に箱のことを話した。
「祖父の名前が書かれた箱を見つけた」
「中身は?」
「全国の古い施設の資料。ホテルだけじゃなかった」
黎は黙って聞いている。
「それと、封筒に印があった。鍵の紋章と似ていた」
「……そうか」
「八つに分かれたような印」
その言葉を聞いた瞬間、黎の表情がわずかに変わった。
「何か知ってる?」
「まだ何とも言えない」
「また?」
「本当に分からない」
黎は少し考え込んだ。
「だからこそ、急がないほうがいい」
「うん」
澪は頷いた。
そして、もう一つ話すべきことを思い出した。
「箱の中に、祖父のメモもあった」
「何て?」
澪はスマートフォンに撮っておいた画像を見せた。
細長い紙に、祖父の字で短く書かれている。
――記録は場所ごとに残すこと。
――記憶を一つにまとめてはいけない。
黎は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……それらしいな」
「何が?」
「残響は、その場所にあるものだ」
黎は静かに続けた。
「別の場所の記憶を勝手に混ぜれば、形が変わる」
「だから、場所ごとに記録しろってこと?」
「おそらく」
澪は画面を見つめる。
祖父は、怪異について知っていたのだろうか。
それとも、何か別のものを記録していたのだろうか。
「祖父は、どうしてこんな記録を残したのかな」
「それを調べる必要がある」
「うん」
黎は紙を返そうとして、ふと指を止めた。
「この字……」
「何?」
「いや」
黎は首を横に振った。
「見覚えがある気がしただけだ」
その言葉に、澪は黎を見る。
「祖父の字を?」
「たぶん違う」
「じゃあ、何に?」
黎は答えなかった。
その横顔には、いつもの落ち着きとは違うものがあった。
思い出せない記憶を、無理に掘り起こそうとしているような。
澪は、それ以上聞かなかった。
まだ聞いてもいないことを、一度に全部知る必要はない。
それよりも、今は目の前の記録を一つずつ確かめることが大切だった。
* * *
その夜。
帰宅した澪は、祖父の資料を机の上に並べた。
新聞の日付。
施設名。
写真。
古いパンフレット。
祖父の短いメモ。
ばらばらだったものが、少しずつ一本の線になっていく。
白鷺グランドホテルは、その最初の一つだったのかもしれない。
では、ほかの施設は何なのか。
祖父は、何を探していたのか。
そして、八つに分かれた印は何を意味するのか。
澪は、最後に一枚の古い写真を手に取った。
そこには、今は存在しない観光施設が写っている。
写真の裏には、施設名も日付もない。
ただ、祖父の字で一言だけ。
――次は、ここ。
澪の指が止まった。
その瞬間。
机の上に置いていた真鍮の鍵が、ひとりでに回った。
カチ、と。
どこにも鍵穴はない。
それなのに、鍵は確かに何かを開けようとしていた。
澪は写真と鍵を交互に見つめる。
白鷺グランドホテルで終わったと思っていた出来事は、終わっていなかった。
祖父が残した記録は、まだ続いている。
そして、その先には――
次の場所が待っていた。




