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黄昏の残響 ― 記憶を読む司書と、忘れていく男 ―  作者: ハルカ


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第6話 巡守会

翌朝、澪は開館前の資料室で、祖父の名前が記された整理票をもう一度見ていた。

昨夜見つけた「次の場所へ」という言葉が、頭から離れない。


白鷺グランドホテルの資料。

真鍮の鍵。

祖父の名前。


どれか一つだけなら、偶然で片づけられる。

けれど、三つが同じ資料の中に残っている。


司書としての経験が、澪に慎重さを求めていた。

記録は、書かれていることだけを意味するとは限らない。

書かれていないことにも、理由がある。


澪は受け入れ台帳をさらに遡った。

すると、祖父の名前が一度だけではなく、何度か出てくることに気づいた。


ただし、いずれも資料名は曖昧だった。


「関係資料一式」

「旧施設資料」

「寄贈者保管分」


どれも具体性に欠けている。


そして、ある年を境に、祖父の名前は記録から消えていた。

澪は眉を寄せた。


その年は、祖父が亡くなる少し前だった。


そこまで調べたところで、スマートフォンが震えた。

黎からの連絡だった。


『今日、仕事が終わったら時間をもらえるか』


『はい。昨日の資料についてですか?』


『ああ。話しておきたいことがある』


それだけだった。


* * *


退勤後、図書館の裏口を出ると、黎が街灯の下に立っていた。


「待ちました?」


「今来たところだ」


「またですか?」


「本当に今来た」


澪は少しだけ笑った。


「それで?」


黎はすぐには答えず、ポケットから一枚の写真を取り出した。


白鷺グランドホテルが消えた場所。

雪の上には、建物の跡とは思えないほど薄い円形の痕跡だけが残っている。


「ホテルの残響は、ほとんど残っていない」


「全部、還されたから?」


「たぶん」


黎は写真を裏返した。

そこには、古い金属片が写っている。


「これが落ちていた」


金属片には、鍵の紋章とよく似た印が刻まれていた。


「ホテルのものですか?」


「違う」


「じゃあ、何です?」


「それが分からない」


黎は少し間を置いた。


「ただ、俺はこの印を知っている」


「どこで?」


「覚えていない」


まただった。


澪は黎の横顔を見る。

単に知らないのではない。


思い出せない。


そういう言い方だった。


「……昨日、祖父の名前が資料にあることを話しましたよね」


「ああ」


「今日、もう少し調べました。祖父は何度か古い施設の資料を図書館へ寄贈していたみたいです」


黎の表情が変わった。


「どんな施設だ?」


「それが、ほとんど書かれていません」


「そうか」


「でも、白鷺グランドホテルの資料にも祖父の名前がありました」


黎は黙った。

やがて、低い声で言った。


「そのことを話すために、ここへ来た」


「何を?」


「巡守会という組織がある」


初めて聞く名前だった。


「巡守会?」


「ああ」


黎は、少しずつ言葉を選んだ。


「残響や怪異に関わる場所を見守っている者たちの集まりだ」


「怪異を退治するんですか?」


「違う」


黎ははっきり否定した。


「怪異を倒すことが目的じゃない」


澪の脳裏に、昨夜のホテルが浮かんだ。


総支配人は、誰かを傷つけたかったわけではなかった。

ただ、最後まで客を待っていた。


終わらなかった役目が、怪異という形で残っていただけだ。


「……役目を終えるのを手伝う」


黎が頷いた。


「それが、巡守会の考え方だ」


「じゃあ、黎さんは」


「巡守会の管理人の一人だ」


「管理人?」


「残響を読み、必要なら本来の場所へ還す。それが俺の役目だ」


澪は鍵を握った。


「じゃあ、この鍵も?」


「管理人が使う道具の一つだ」


「何を開けるんですか?」


「扉だけじゃない」


黎は鍵を見る。


「記憶を開いて、還すための媒介だ」


それ以上は説明しなかった。


澪も、すぐには尋ねなかった。

まだ聞いてもいないことを、一度に全部知る必要はない。


むしろ、今の自分には確かめなければならないことがある。


「祖父も、巡守会に関わっていたんですか?」


黎は答えに迷った。


「……可能性はある」


「分からない?」


「俺が知っている記録には、お前の祖父の名前はない」


「でも、資料にはありました」


「ああ」


黎は考え込む。


「だから、確認したい」


「何を?」


「お前の祖父が、何を残したのか」


澪は少し黙った。

怖くないと言えば嘘になる。


祖父が亡くなってから、もう何年も経っている。

それなのに、自分が知らなかった祖父の過去が、突然目の前に現れた。


けれど、同時に妙な感覚もあった。


図書館で資料を調べる。

古い記録を読み、抜け落ちた情報を探す。


それは、澪がずっとやってきたことだ。

ただ今回は、その記録の中に自分の家族がいる。


「調べます」


澪は言った。


「祖父が何を知っていたのか」


黎が澪を見る。


「危険だ」


「分かっています」


「怪異に近づくほど、何が起こるか分からなくなる」


「それでも」


澪は真鍮の鍵を見つめた。


「白鷺グランドホテルで、私は思ったんです」


あの場所には、誰かの記憶が残っていた。

紙に書かれなかった願いがあった。


それを見つけて、終わらせることができた。


「記録を残すだけじゃなくて、残された記憶まで知りたい」


黎はしばらく黙っていた。

そして、ほんの少しだけ頷いた。


「……分かった」


「一緒に調べてもらえますか?」


「ああ」


短い返事だった。

それでも澪には十分だった。


ただし、そのとき黎の顔には、喜びよりも別のものが浮かんでいた。


警戒。

そして、何かを恐れているような色。


「九条さん?」


「何でもない」


「またそれですか」


「……悪い」


珍しく素直に謝るので、澪は少し驚いた。


「じゃあ、次に会うまでに、私はこちらの記録を調べます」


「俺は巡守会の記録を当たる」


「分担ですね」


「そのほうが効率がいい」


黎らしい答えだった。


別れを告げ、黎が駅へ向かって歩き出すのを見届けてから、自分の車を停めている駐車場に向かう。


まだ二人の距離は近すぎない。

けれど、同じものを調べるために、それぞれの場所から動き始めていた。


その夜、澪は自宅の机で、祖父の名前が記された資料を整理した。


古い整理票。

寄贈記録。

白鷺グランドホテルの新聞記事。


そして、鍵の紋章。


紙を並べていくと、ばらばらだったものが少しずつ一つの線に見えてくる。


最後に、澪は祖父が残したらしい古い封筒を見つけた。

表には何も書かれていない。


中には、一枚の紙だけが入っていた。


紙の中央に、八つに分かれたような印。

その下に、祖父の字で短く書かれている。


――記憶は、一つではない。


澪は息を呑んだ。


その瞬間、机の上の真鍮の鍵が、ひとりでに回った。


カチ、と。


どこにも鍵穴はない。

それなのに。


鍵は、確かに何かを開けようとしていた。

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