↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄昏の残響 ― 記憶を読む司書と、忘れていく男 ―  作者: ハルカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/20

第5話 最初の鍵

白鷺グランドホテルが消えた朝、街は驚くほど何事もなかったように動いていた。


昨夜まで雪に閉ざされていたはずの道路には、薄い朝日が差している。ホテルが建っていた場所には、古びた建物の輪郭すら残っていなかった。除雪された駐車場の向こうに、白い霧がゆっくりほどけていく。


澪は運転席でその景色を眺めながら、後部座席に座る黎が持つ真鍮の鍵をちらっとバックミラー越しに見た。


昨夜、総支配人の「お役目は終わりました」という言葉とともに、鍵の持ち手に刻まれた模様が淡く光った。


それは花にも、文字にも見えなかった。

円の中に、いくつかの細い線が重なっている。


「……それ、昨日までありましたか?」


黎は、澪の方に一瞥をくれるだけで、しばらく答えなかった。


「…なかった」


「やっぱり」


黎の金色の瞳が、鍵に向けられる。


昨夜までの彼なら、すぐに何かを説明したかもしれない。

けれど今日は違った。


「……俺にも、よく分からない」


白鷺グランドホテルで、黎は何度も澪より先に異変へ気づいた。怪異に対しても迷いがない。だから、何でも知っている人なのだと思いかけていた。


「九条さんにも分からないんですね」


「ああ」


短い返事だったが、その一言の中に黎の誠実さを見たような気がした。


とはいえ、二人の間にはまだ、名前を呼ぶことさえ少し気を遣うような距離がある。


「図書館に出勤したら、まず資料を調べます。ホテルの開業当時の新聞記事と、閉館までの記録。それから、この鍵が入っていた資料についても」


「分かった」


「九条さんは?」


「俺は、ホテルが消えた場所をもう一度見てくる」


「一人で?」


「そのほうが早い」


澪は少し考えてから言った。


「……何か分かったら、連絡してください」


黎がこちらを見る。


「連絡先、交換しておいてよかったな」


「緊急時のためですから」


「そうだったな」


ほんの少しだけ、黎が笑った。

それ以上は何も言わなかった。


まだ二人の間には、怪異を一緒に越えたからといって、何でも話せるほどの距離はない。


それでも、ホテルへ行く前とは違っていた。

少なくとも、次に何か起きたとき、一人で抱え込む必要はない。


そのことだけは、澪にも分かっていた。


* * *


黎を駅前で降ろした後に、自宅に帰り手早く身支度を整えた。

眠いけれども興奮が優っていたのか、頭は割とはっきりしている。


大学に出勤すると、図書館はいつもの静けさを取り戻していた。

検索用端末の電源をONにしたりする開館準備を済ませた後は、カウンターに座って利用者を迎える準備をする。


開館前の館内には、空調の音と、遠くで台車を押す音だけが響いている。

昨日までなら心地よい静けさだった。


今日は、その静けさの中に、別の音が混じっているように思えた。


ページをめくる音。

誰かが椅子を引く音。

遠い場所で鳴るピアノ。


澪は一度、手を止めた。

けれど耳を澄ますと、それらは消えていた。


「……気のせい」


そう呟いて、昨夜持ち帰った資料のコピーをカウンターに広げる。


白鷺グランドホテル。

開業は一九八〇年代の終わり。


開業当時の記事には、華やかな言葉が並んでいた。


新しい時代。

家族の思い出。

北の大地で過ごす特別な時間。


写真の中では、ホテルの前に並んだ宿泊客が笑っている。子どもを抱いた父親。手をつないだ母娘。記念写真のために肩を寄せ合う若い夫婦。


あのホテルは、単なる建物ではなかった。

誰かが「ここへ行きたい」と思い、誰かが「また帰ってきたい」と願った場所だった。


だから、閉館して何年経っても、最後の客を待ち続けた。


そう考えると、昨夜の怪異が少しだけ理解できる気がした。


澪は鍵を資料の横へ置いた。

指先が触れる。


その瞬間、視界が白く染まった。


雪。

まだ新しいロビー。

磨かれた床。

制服姿の従業員。


『どうぞ。こちらがお部屋の鍵です』


笑い声がする。


次の瞬間、景色が変わった。


誰もいないフロント。

暗い廊下。

閉ざされた客室。


ひとりの人間が、鍵を握っている。

顔は見えない。


ただ、感情だけが伝わってくる。

寂しさとも、怒りとも違う。


――忘れないでほしい。


澪は慌てて手を離した。


「……残響」


いつの間にか目の前に黎が立っていた。


「来ていたんですか?」


「少し前に」


「声をかけてください」


「集中していた」


黎は鍵を見た。


「何を見た?」


「ホテルの記憶です。でも、総支配人のものとは違いました」


「そうか」


黎が鍵へ手を伸ばす。


その瞬間、鍵が小さく震えた。


カチ、と金属音が鳴る。


二人とも動きを止めた。


持ち手の模様が、今度ははっきりと光っている。

浮かび上がった形は、家のようにも見えた。


「……居場所」


黎が呟いた。


「今、そう言いました?」


「……そう見えただけだ」


「何か知っているんじゃないですか?」


黎は答えなかった。


「昔、似た印を見た気がする」


「どこで?」


「分からない」


その声には、いつもの落ち着きがなかった。


澪は、それ以上追及しなかった。


忘れている。

そんな気がした。


「この鍵は、残響を還した場所の記憶を集めているんでしょうか」


「可能性はある」


「何のために?」


「そこまでは分からない」


黎は鍵から視線を外した。


「ただ、普通の鍵ではない」


澪は頷いた。


鍵。

それは扉を開けるための道具だ。


けれど昨夜から、この鍵が開けようとしているのは、建物の扉だけではないように思える。


閉じ込められた記憶。

終われなかった願い。


そういうものを、どこかへ返すためのものなのかもしれない。


「なら、調べます」


「危険だ」


「分かっています」


「仕事もある」


「だから、図書館でできるところからです」


澪は資料を指した。


「記録を調べるのは、私の仕事ですから」


黎は少し黙ってから、頷いた。


「頼む」


その一言が、妙に嬉しかった。

澪は照れを隠すように資料へ目を戻した。


まずは鍵そのものではなく、鍵が見つかった経緯を確認する。


元の資料。

受け入れ記録。

寄贈者。

旧蔵書印。


司書として当たり前の手順だった。


ところが、受け入れ台帳を追っていた澪の手が止まった。


鍵が見つかった資料の束には、古い整理票が一枚だけ残っている。

紙は黄ばんでいた。


そこに、手書きの名前がある。

澪は何度も文字を見直した。


「……おじいちゃん?」


祖父の名前だった。


祖父がこの資料を図書館へ持ち込んだのか。

それとも、誰かから預かったものなのか。


整理票には詳しいことが書かれていない。

ただ、寄贈者の欄に祖父の名前があり、その下に小さく、


――関連資料、別保管。


とだけ記されていた。


澪の背中を、冷たいものが走った。


祖父が古い資料を集めていたことは知っている。

けれど、白鷺グランドホテルまで関わっていたとは聞いたことがない。


「九条さん」


「何だ?」


「この資料……祖父の名前があります」


黎が振り返った。


鍵を見る。

整理票を見る。


そして、澪を見る。

その表情が、わずかに変わった。


「……それは、いつからここに?」


「分かりません。少なくとも、私が働き始める前です」


「そうか」


黎は紙を手に取ろうとした。

しかし、触れる直前に止まった。


「調べるなら、慎重にやったほうがいい」


「どうして?」


「まだ、何がつながっているのか分からない」


澪は整理票を見つめた。


祖父の名前。

真鍮の鍵。

白鷺グランドホテル。


そして、鍵に現れた見覚えのない紋章。


偶然だと思うには、重なりすぎている。

澪は整理票をファイルへ戻した。


「明日、受け入れ記録をもう少し遡ります」


「俺も調べる」


「お願いします」


その日の閉館後、澪は一人で資料室へ戻った。

古い台帳を棚から取り出す。


表紙を開いたとき、鍵がポケットの中で小さく震えた。


カチ。


今度は、昼間とは違う音だった。


台帳の奥。


まだ見ていない記録のある場所から、何かに呼ばれたような気がした。


澪はゆっくりページをめくる。

そして、祖父の名前の下に、もう一つの記録を見つけた。


見覚えのない印。


鍵の紋章と、よく似ている。

その横には、短い言葉が残されていた。


――次の場所へ。


澪は息を止めた。


祖父は、何を知っていたのだろう。

そして、この鍵は、次にどこを開こうとしているのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。