第5話 最初の鍵
白鷺グランドホテルが消えた朝、街は驚くほど何事もなかったように動いていた。
昨夜まで雪に閉ざされていたはずの道路には、薄い朝日が差している。ホテルが建っていた場所には、古びた建物の輪郭すら残っていなかった。除雪された駐車場の向こうに、白い霧がゆっくりほどけていく。
澪は運転席でその景色を眺めながら、後部座席に座る黎が持つ真鍮の鍵をちらっとバックミラー越しに見た。
昨夜、総支配人の「お役目は終わりました」という言葉とともに、鍵の持ち手に刻まれた模様が淡く光った。
それは花にも、文字にも見えなかった。
円の中に、いくつかの細い線が重なっている。
「……それ、昨日までありましたか?」
黎は、澪の方に一瞥をくれるだけで、しばらく答えなかった。
「…なかった」
「やっぱり」
黎の金色の瞳が、鍵に向けられる。
昨夜までの彼なら、すぐに何かを説明したかもしれない。
けれど今日は違った。
「……俺にも、よく分からない」
白鷺グランドホテルで、黎は何度も澪より先に異変へ気づいた。怪異に対しても迷いがない。だから、何でも知っている人なのだと思いかけていた。
「九条さんにも分からないんですね」
「ああ」
短い返事だったが、その一言の中に黎の誠実さを見たような気がした。
とはいえ、二人の間にはまだ、名前を呼ぶことさえ少し気を遣うような距離がある。
「図書館に出勤したら、まず資料を調べます。ホテルの開業当時の新聞記事と、閉館までの記録。それから、この鍵が入っていた資料についても」
「分かった」
「九条さんは?」
「俺は、ホテルが消えた場所をもう一度見てくる」
「一人で?」
「そのほうが早い」
澪は少し考えてから言った。
「……何か分かったら、連絡してください」
黎がこちらを見る。
「連絡先、交換しておいてよかったな」
「緊急時のためですから」
「そうだったな」
ほんの少しだけ、黎が笑った。
それ以上は何も言わなかった。
まだ二人の間には、怪異を一緒に越えたからといって、何でも話せるほどの距離はない。
それでも、ホテルへ行く前とは違っていた。
少なくとも、次に何か起きたとき、一人で抱え込む必要はない。
そのことだけは、澪にも分かっていた。
* * *
黎を駅前で降ろした後に、自宅に帰り手早く身支度を整えた。
眠いけれども興奮が優っていたのか、頭は割とはっきりしている。
大学に出勤すると、図書館はいつもの静けさを取り戻していた。
検索用端末の電源をONにしたりする開館準備を済ませた後は、カウンターに座って利用者を迎える準備をする。
開館前の館内には、空調の音と、遠くで台車を押す音だけが響いている。
昨日までなら心地よい静けさだった。
今日は、その静けさの中に、別の音が混じっているように思えた。
ページをめくる音。
誰かが椅子を引く音。
遠い場所で鳴るピアノ。
澪は一度、手を止めた。
けれど耳を澄ますと、それらは消えていた。
「……気のせい」
そう呟いて、昨夜持ち帰った資料のコピーをカウンターに広げる。
白鷺グランドホテル。
開業は一九八〇年代の終わり。
開業当時の記事には、華やかな言葉が並んでいた。
新しい時代。
家族の思い出。
北の大地で過ごす特別な時間。
写真の中では、ホテルの前に並んだ宿泊客が笑っている。子どもを抱いた父親。手をつないだ母娘。記念写真のために肩を寄せ合う若い夫婦。
あのホテルは、単なる建物ではなかった。
誰かが「ここへ行きたい」と思い、誰かが「また帰ってきたい」と願った場所だった。
だから、閉館して何年経っても、最後の客を待ち続けた。
そう考えると、昨夜の怪異が少しだけ理解できる気がした。
澪は鍵を資料の横へ置いた。
指先が触れる。
その瞬間、視界が白く染まった。
雪。
まだ新しいロビー。
磨かれた床。
制服姿の従業員。
『どうぞ。こちらがお部屋の鍵です』
笑い声がする。
次の瞬間、景色が変わった。
誰もいないフロント。
暗い廊下。
閉ざされた客室。
ひとりの人間が、鍵を握っている。
顔は見えない。
ただ、感情だけが伝わってくる。
寂しさとも、怒りとも違う。
――忘れないでほしい。
澪は慌てて手を離した。
「……残響」
いつの間にか目の前に黎が立っていた。
「来ていたんですか?」
「少し前に」
「声をかけてください」
「集中していた」
黎は鍵を見た。
「何を見た?」
「ホテルの記憶です。でも、総支配人のものとは違いました」
「そうか」
黎が鍵へ手を伸ばす。
その瞬間、鍵が小さく震えた。
カチ、と金属音が鳴る。
二人とも動きを止めた。
持ち手の模様が、今度ははっきりと光っている。
浮かび上がった形は、家のようにも見えた。
「……居場所」
黎が呟いた。
「今、そう言いました?」
「……そう見えただけだ」
「何か知っているんじゃないですか?」
黎は答えなかった。
「昔、似た印を見た気がする」
「どこで?」
「分からない」
その声には、いつもの落ち着きがなかった。
澪は、それ以上追及しなかった。
忘れている。
そんな気がした。
「この鍵は、残響を還した場所の記憶を集めているんでしょうか」
「可能性はある」
「何のために?」
「そこまでは分からない」
黎は鍵から視線を外した。
「ただ、普通の鍵ではない」
澪は頷いた。
鍵。
それは扉を開けるための道具だ。
けれど昨夜から、この鍵が開けようとしているのは、建物の扉だけではないように思える。
閉じ込められた記憶。
終われなかった願い。
そういうものを、どこかへ返すためのものなのかもしれない。
「なら、調べます」
「危険だ」
「分かっています」
「仕事もある」
「だから、図書館でできるところからです」
澪は資料を指した。
「記録を調べるのは、私の仕事ですから」
黎は少し黙ってから、頷いた。
「頼む」
その一言が、妙に嬉しかった。
澪は照れを隠すように資料へ目を戻した。
まずは鍵そのものではなく、鍵が見つかった経緯を確認する。
元の資料。
受け入れ記録。
寄贈者。
旧蔵書印。
司書として当たり前の手順だった。
ところが、受け入れ台帳を追っていた澪の手が止まった。
鍵が見つかった資料の束には、古い整理票が一枚だけ残っている。
紙は黄ばんでいた。
そこに、手書きの名前がある。
澪は何度も文字を見直した。
「……おじいちゃん?」
祖父の名前だった。
祖父がこの資料を図書館へ持ち込んだのか。
それとも、誰かから預かったものなのか。
整理票には詳しいことが書かれていない。
ただ、寄贈者の欄に祖父の名前があり、その下に小さく、
――関連資料、別保管。
とだけ記されていた。
澪の背中を、冷たいものが走った。
祖父が古い資料を集めていたことは知っている。
けれど、白鷺グランドホテルまで関わっていたとは聞いたことがない。
「九条さん」
「何だ?」
「この資料……祖父の名前があります」
黎が振り返った。
鍵を見る。
整理票を見る。
そして、澪を見る。
その表情が、わずかに変わった。
「……それは、いつからここに?」
「分かりません。少なくとも、私が働き始める前です」
「そうか」
黎は紙を手に取ろうとした。
しかし、触れる直前に止まった。
「調べるなら、慎重にやったほうがいい」
「どうして?」
「まだ、何がつながっているのか分からない」
澪は整理票を見つめた。
祖父の名前。
真鍮の鍵。
白鷺グランドホテル。
そして、鍵に現れた見覚えのない紋章。
偶然だと思うには、重なりすぎている。
澪は整理票をファイルへ戻した。
「明日、受け入れ記録をもう少し遡ります」
「俺も調べる」
「お願いします」
その日の閉館後、澪は一人で資料室へ戻った。
古い台帳を棚から取り出す。
表紙を開いたとき、鍵がポケットの中で小さく震えた。
カチ。
今度は、昼間とは違う音だった。
台帳の奥。
まだ見ていない記録のある場所から、何かに呼ばれたような気がした。
澪はゆっくりページをめくる。
そして、祖父の名前の下に、もう一つの記録を見つけた。
見覚えのない印。
鍵の紋章と、よく似ている。
その横には、短い言葉が残されていた。
――次の場所へ。
澪は息を止めた。
祖父は、何を知っていたのだろう。
そして、この鍵は、次にどこを開こうとしているのだろう。




