第4話 ありがとうを言う仕事
足音は、ロビーの入口で止まった。
けれど、誰もいない。
濡れた床にだけ、靴跡が残っている。
一つ。
二つ。
三つ。
誰かが歩いているはずなのに、姿だけが見えない。
「……いる」
澪が呟いた。
「分かるのか」
「うん」
胸の奥が、さっきからずっと重い。
悲しいというより、長い時間待ち続けた人の疲れが、静かに染み込んでくるようだった。
フロントの男が、誰もいない空間へ向かって頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
その言葉に合わせるように、ロビーの照明が一段明るくなった。
ピアノが鳴る。
宿泊客たちが笑う。
まるで、本当に誰かがチェックインしたようだった。
「どうする?」
澪が尋ねる。
「まず、原因を探す」
「怪異を倒すんじゃないの?」
「倒しても意味がない」
黎は短く答えた。
「ここに残っているものが、何を待っているのか。それを見つける」
その言葉を聞いて、澪は少しだけ意外に思った。
もっと力ずくで終わらせるのだと思っていた。
けれど、黎はホテルを壊そうとはしない。
ただ、静かに歩き始める。
「ついてくるなら、離れるな」
「分かった」
二人で廊下を進んだ。
昼間なら崩れかけた壁しかないはずの場所が、今は開業当時の姿を取り戻している。
客室の扉。
金色のプレート。
古い電話。
廊下の照明。
どれも懐かしいのに、澪には見覚えがない。
それでも不思議だった。
このホテルが、かつて誰かの日常だったことだけは分かる。
部屋の前を通るたび、笑い声が聞こえた。
子どもの声。
仕事帰りの男の声。
旅行に来た夫婦の声。
誰かの誕生日を祝う声。
ホテルは、ただの建物ではなかった。
たくさんの人が、一晩だけでも「ここにいていい」と思える場所だった。
「……居場所」
澪の口から、そんな言葉がこぼれた。
「何か言ったか」
「ううん」
けれど、その瞬間。
持っていた真鍮の鍵が、微かに震えた。
澪は足を止める。
「また……」
鍵の持ち手に刻まれた、家のような紋章が淡く光っている。
ほんの一瞬だった。
黎もそれを見ていた。
「その鍵」
「図書館の資料から見つかったもの。持ち帰る許可をもらって調べてる」
「……そうか」
黎の視線が鍵に向く。
「それが、ここまでお前を連れてきたのかもしれない」
「どういう意味?」
「まだ分からない」
また、はぐらかされた。
澪は少しむっとした。
「分からないことばかりですね」
「俺にも分からないことはある」
「……意外」
「何がだ」
「何でも知ってそうだから」
黎は一瞬だけ黙った。
「そう見えるだけだ」
その言い方が、妙に引っかかった。
そのとき、廊下の奥から声がした。
「お客様……」
フロントの男だった。
「最後のお客様がお待ちです」
澪と黎は、ロビーへ戻った。
そこには一人の老人が立っていた。
古い旅行鞄を足元に置き、濡れた帽子を手にしている。
宿泊客たちとは違う。
この老人だけが、どこか寂しそうだった。
「お待たせしました」
フロントの男が頭を下げる。
「……予約は、まだ残っていますか」
老人が尋ねた。
「はい。もちろんでございます」
「そうですか」
老人は安心したように笑った。
「妻と一緒に来るはずだったんです」
澪の胸が締めつけられた。
老人の隣には、誰もいない。
それでも老人は、そこに誰かがいるように話しかけた。
「昔、ここで結婚記念日を祝おうって約束していてね」
声が震えている。
「でも、仕事が忙しくて。いつでも行けると思っているうちに、ホテルが閉まってしまった」
老人の姿が、少しずつ薄くなる。
「それでも……いつか来られると思っていたんです」
澪は目を閉じた。
触れなくても分かる。
この場所に残っている感情が、今、形になっている。
約束。
後悔。
そして、帰りたかった場所。
「……あなたは、ずっと待っていたんですね」
澪が言った。
老人が顔を上げる。
「妻を?」
「それだけじゃないと思います」
澪はホテルを見回した。
「このホテルそのものが、最後のお客様を迎える役目を終えられなかったんだと思う」
黎が澪を見る。
けど止める様子はなかった。
だから澪は続けた。
「閉館しても、ここでは誰かが来ることになっていた。だから、毎晩同じ夜を繰り返している」
フロントの男が、静かに頭を下げた。
「……おっしゃる通りでございます」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
「私は、このホテルの総支配人でございます」
空気が変わった。
宿泊客たちの姿が薄れていく。
ロビーの明かりも少しずつ暗くなる。
「閉館の日、最後のお客様をお見送りすることができませんでした」
総支配人は言った。
「だから私は、今もお客様をお迎えし続けているのです」
それは怪異の告白だった。
けれど、澪には恐ろしいものには思えなかった。
ただ、終われなかった仕事が、何十年も残っている。
それだけだった。
黎が一歩前へ出る。
「なら、もう終わらせてもいい」
総支配人が顔を上げる。
「……よろしいのでしょうか」
「決めるのは、お前だ」
黎は澪を見る。
その視線を受けて、澪は少し驚いた。
最後に言葉を届けるのは、自分なのだ。
澪は総支配人へ向き直った。
「ありがとうございました」
総支配人の目が大きく開く。
「今まで、ここに来た人たちを迎えてくれて、ありがとうございました」
声が震えそうになる。
「もう、待たなくていいんです」
静かな沈黙が落ちた。
やがて、総支配人は深く頭を下げた。
「……こちらこそ」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「長い間、お待たせいたしました」
次の瞬間、ホテルの照明が一つ、また一つと消えていく。
ピアノの音が止まる。
絨毯が消える。
客室の扉が消える。
最後に残ったのは、暗いロビーと、窓から差し込む月明かりだけだった。
そして、総支配人の姿も消えた。
外から、鳥の声が聞こえた。
夜明けだった。
澪は長く息を吐いた。
「……終わった」
「ああ」
黎が答える。
そのとき、澪の手の中で真鍮の鍵が鳴った。
カチリ。
鍵の持ち手に刻まれた紋章の一部が、淡く光る。
「今の……」
澪が鍵を見る。
紋章はすぐに元へ戻った。
けれど、消えたわけではない。
確かに何かが変わった。
「九条さん。これ、何?」
「まだ断定できない」
「またそれ?」
澪が睨むと、黎はほんの少しだけ口元を緩めた。
「だが、一つだけ分かった」
「何?」
「その鍵は、怪異を倒すためのものじゃない」
黎は鍵を見る。
「閉じていた記憶を、開くためのものだ」
澪は黙った。
手の中の小さな鍵が、急に重く感じられた。
図書館で偶然見つけた古い鍵。
未来の日付の予約票。
写真に写っていた金色の瞳。
そして、今夜のホテル。
全部が、どこかでつながっている。
「……私、もっと調べたい」
澪が言った。
「何を?」
「この鍵のことも。このホテルのことも。それから――」
澪は黎を見る。
「あなたのことも」
黎の表情が、一瞬だけ消えた。
けれど、すぐにいつもの無愛想な顔に戻る。
「俺は調べなくていい」
「決めるのは私です」
そう言うと、黎は何も言わなかった。
ただ、ホテルを振り返った。
白鷺グランドホテルは、もうそこにいない。
けれど澪の手の中には、消えずに残ったものがあった。
真鍮の鍵。
その持ち手には、さっきまでなかったはずの小さな光が、一つだけ宿っていた。
それは、最初の紋章だった。




