第3話 最後の宿泊客
午前零時を少し過ぎたころ、白鷺グランドホテルの玄関は、ほんの数時間前まで閉ざされていた廃墟とは思えないほど明るくなっていた。
濡れた石畳にはエントランスの照明が映り、磨かれたガラス扉の向こうには、深い赤色の絨毯が伸びている。
壁際には観葉植物が並び、遠くからピアノの音まで聞こえてくる。
ついさっきまで、そこには草の伸びた駐車場と、雨に汚れた建物しかなかった。
「……本当に、ホテルになってる」
澪は思わず呟いた。
「正確には、ホテルだった時間が重なっている」
澪は振り返った。
さっきまで外では、雨が降っていたはずだった。
けれど、ホテルの中には雨音がない。
代わりに、どこか遠くから雪を踏むような音が聞こえてくる。
窓の向こうに見える景色も、いつの間にか白く霞んでいた。
「……雪?」
澪が呟く。
「外は雨だったよね?」
「そうだ」
黎は短く答えた。
「ここに重なっているのは、今の時間じゃない」
隣で黎が答えた。
「重なっている?」
「今見えているものが、現在のホテルとは限らないということだ」
相変わらず説明が足りない。
澪が振り向くと、黒髪の男は何でもないことのようにホテルを見上げていた。
「じゃあ、さっき私が見たのも?」
「ああ。ここに残っている記憶だ」
その言葉を聞いた瞬間、澪の胸の奥がわずかにざわついた。
記憶。
図書館で古い資料に触れたときにも、似た感覚があった。
誰かが笑っている。
誰かが泣いている。
そこにいないはずの人の気配だけが、場所の中に残っている。
「……残響、ってこと?」
澪が尋ねる。
黎は少しだけ目を細めた。
「聞いたことがあるのか」
「昨日、あなたが言ったでしょう」
「そうだったな」
それだけだった。
もう少し説明してくれてもいいのに、と澪は思う。
けれど、今はそれよりも気になるものがあった。
ホテルのロビーだ。
フロントの向こうに、誰かが立っている。
白いシャツに黒いベスト。胸元には古びた名札。
男は二人に気づくと、深々と頭を下げた。
「お待ちしておりました」
澪の背筋が冷えた。
「……私たちを?」
「はい。ご予約のお客様ですね」
男の視線が澪の手元に落ちる。
そこには、例の予約票があった。
図書館の資料の中から見つかった、未来の日付が記された予約票。
「雨宮様。お部屋のご用意ができております」
「待ってください」
澪は反射的に言った。
「私は予約していません」
「承知しております」
「……え?」
「こちらでは、皆様そうおっしゃいます」
男は笑った。
笑っているのに、目だけが妙に静かだった。
黎が一歩前に出る。
「部屋は必要ない」
「九条様」
男の声が変わった。
「お客様は、まだお帰りになっておりません」
その言葉に、ロビーの空気がわずかに震えた。
ピアノの音が止まる。
さっきまで談笑していた宿泊客も、一斉にこちらを見た。
十人ほどいる。
若い夫婦。
旅行鞄を持った老夫婦。
子どもを連れた家族。
皆、どこか古い服装をしていた。
そして全員が、澪を見る。
「……この人たち」
「触るな」
黎が低く言った。
「え?」
「まだ近づくな」
その瞬間、澪の足元に落ちていた赤い絨毯が、ゆっくりと波打った。
ホテルの廊下が伸びる。
扉が増える。
壁に掛けられた時計の針が、同じ場所を何度も行き来している。
「これ……普通じゃない」
「閉域に近づいている」
「閉域?」
黎は答えなかった。
代わりに、フロントの男が静かに告げた。
「皆様、今夜もごゆっくりお過ごしください」
その瞬間、ロビーの時計が零時を打った。
カーン。
一度。
カーン。
二度。
音が鳴るたびに、ホテルの壁が少しずつ古くなっていく。
照明が黄色くなる。
カーペットの模様が変わる。
そして、目の前にいる人たちの服装まで、さらに昔へと戻っていった。
「澪」
「はい」
「俺の後ろにいろ」
「……分かった」
今度は素直に従った。
ホテルの中で、何かが始まろうとしている。
そう感じたからだ。
黎が右手を上げる。
すると、廊下の奥から聞こえていた足音が止まった。
次の瞬間、扉が一斉に開いた。
中から、宿泊客たちが現れる。
同じ顔。
同じ服。
同じ笑顔。
そして全員が、口をそろえて言った。
「お帰りなさいませ」
澪は息を呑んだ。
帰ってきた。
そんな言葉を、ホテルにいる誰もが当然のように口にしている。
けれど、ここにいる人たちは帰ってきたのではない。
帰れないのだ。
そのことに気づいた瞬間、澪の中に、別の感覚が流れ込んできた。
胸が苦しい。
暗いロビー。
時計の音。
閉館を知らせる館内放送。
それでも誰かを待っている。
――まだ、お客様が来る。
――最後の一人が来るまで、閉めてはいけない。
「……誰かを待ってる」
澪は呟いた。
「何?」
「このホテル……誰かを待ってるんです」
黎が澪を見る。
その目に、初めてわずかな驚きが浮かんだ。
「どうして分かる」
「分からない。でも……」
胸の奥に、知らない人の寂しさが残っている。
「ここにいる人たちは、ホテルに泊まってるんじゃない」
澪はロビーの奥を見る。
「最後の宿泊客が来るのを待ってるんです」
その言葉に応えるように、フロントの奥で電話が鳴った。
リーン。
古い電話の音だった。
誰も取らない。
二度。
三度。
四度。
それでも鳴り続ける。
フロントの男が、ゆっくりと受話器へ手を伸ばした。
「お待たせいたしました」
そして、澪たちには聞こえない声を聞くように、しばらく黙った。
やがて男は、顔を上げる。
「……お客様がお見えになりました」
澪の心臓が跳ねた。
男が、入口を指差す。
そこには誰もいない。
ただ、開いたままのガラス扉の向こうから、濡れた足音だけが近づいてきていた。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
ホテルの中へ、誰かが入ってくる。
その足音を聞いた瞬間、澪は思った。
――このホテルが、ずっと待っていた人だ。
そして、その人を待ち続けることこそが、この場所に残った「何か」の正体なのだと。




