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黄昏の残響 ― 記憶を読む司書と、忘れていく男 ―  作者: ハルカ


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2/20

第2話 午前零時のチェックイン

翌日の昼休み。

澪は、図書館の入口近くで一人の男を待っていた。


昨夜のことを、何度も考えた。


突然現れた予約票。

資料の間から出てきた鍵。

写真に写っていた男と同じ顔をした、九条黎。


そして――白鷺グランドホテル。


「……本当に来るのかな」


その直後、入口のガラス扉が開いた。


黒髪の男が入ってくる。

昨日と同じ服装だった。


「雨宮さん」


「九条さん」


澪は立ち上がった。


昨夜は暗い玄関で会ったせいか、昼間に見ると印象が少し違う。


長身で、整った顔立ち。

けれど、金色の瞳だけはやはり普通ではなかった。


「ここでは、少し話しにくい」


澪が案内したのは、利用者の少ない、入り口からは離れたエリアにある閲覧席だった。

黎は向かいに座った。


「まず確認したい。その鍵は、どこで手に入れた?」


「昨日、閉架書庫で資料を整理していたら、古い予約票と一緒に出てきました」


「予約票?」


澪がコピーを見せる。

黎の表情がわずかに変わった。


「……やっぱりか」


「何か知ってるんですね」


「ああ」


黎は予約票の文字を見つめた。


「白鷺グランドホテルは、閉館したあとも毎年同じ日に予約を受け付けている」


「毎年?」


「記録上はな」


「誰が予約しているの?」


「分からない」


澪は眉を寄せた。

黎が何でも知っているわけではないことに、少し意外な気がした。


「ただ、一つだけ分かっている」


「何ですか?」


「予約した人間は、午前零時にホテルへ行く」


「……行ったら?」


「帰ってこない」


背筋が冷えた。


「それを、どうして九条さんが知ってるんですか?」


「調べているからだ」


「何を?」


黎は少し黙った。


「場所に残ったものを」


意味が分からない。

澪は、昨日のことを思い出した。


「……昨日、鍵に触れたとき」


黎が顔を上げる。


「何かが見えました」


「何を?」


「吹雪。暗い廊下。それから……ホテルのロビー」


澪は言葉を探した。


「泣いている女の子もいました」


あの声が、まだ耳の奥に残っている。


――帰りたい。


「それは、何なんですか?」


黎は少し黙った。


「それが残響だ」


「残響?」


初めて聞く言葉だった。


「人そのものじゃない。場所に残された記憶や感情が、形を持ったものだ」


「記憶や感情が……?」


「人が長く過ごした場所には、そういうものが残ることがある。普通なら、時間とともに薄れていく。だが、強い感情が重なると、現実に影響するほど濃くなることがある」


澪は、昨日見た少女を思い出した。


「じゃあ、あの女の子も……」


「おそらく、その場所に残った記憶の一部だ」


「……あの子は、まだホテルにいるんですか?」


黎は答えなかった。

その沈黙が、答えのように思えた。


澪は昨日の少女を思い出した。


あの声。


――帰りたい。


「白鷺グランドホテルには、強い残響があるんですね」


「ああ」


「だから、あなたは止めに来た?」


「それもある」


「それも?」


黎は答えなかった。

代わりに、澪の手元にある鍵を見る。


「その鍵を持っているなら、ホテルはお前を宿泊客として認識する可能性が高い」


「……私を?」


「だから、今夜は一人で行くな」


澪はすぐには答えなかった。


怖い。

できることなら、今夜のことはなかったことにしてしまいたい。


けれど、自分の名前で届いた予約票も、あの少女の声も、何も分からないまま閉じてしまうことはできなかった。

調べることは、澪にとって仕事でもあり、性分でもある。


「……私も行きます」


「九条さんは、行くんですか?」


「行く」


「どうして?」


「俺には、あの場所を放っておけない理由がある」


それ以上は言わなかった。

澪は少し考えてから尋ねた。


「もし私も行くなら……連絡を取れるようにしておいたほうがいいですよね」


黎が顔を上げる。


「そうだな」


黎はスマートフォンを取り出した。


「番号を交換する」


澪は一瞬ためらった。


昨日会ったばかりの、よく分からない男。

普通なら、こんな簡単に連絡先を交換する相手ではない。


「ホテルに入ったら、何が起きるか分からない。何かあったときに連絡できるほうがいい」


理由はもっともだった。


「……分かりました」


澪は自分の番号を伝えた。

黎の名前が連絡先に追加される。


まだ「九条黎」という名前以外、ほとんど何も知らない。

それでも、今夜一人で行くよりはましだった。


* * *


その日の夕方、澪は勤務を終えた。

帰宅してから、最低限の荷物をまとめる。


財布。

車の鍵。

スマートフォン。

充電器。

予約票のコピー。


そして、真鍮の鍵。


ホテルへ向かうのは、あくまで確認のためだ。

明日の勤務に間に合うよう、長居するつもりはない。


そう思っていた。


けれど、夜九時を過ぎたころ、スマートフォンに一通のメッセージが届いた。


『今から向かう。ホテルの正面で待つ』


黎からだった。

澪は短く返信する。


『分かりました』


送信した直後、鍵が震えた。


気になって確認してみると予約票の日付も、昨日までとは違っている。

今日の日付になっていた。


「……そんな」


時計は午後十一時を指している。

白鷺グランドホテルの予約時間まで、もう時間がない。


* * *


午後十一時五十五分。


車で慣れない夜道を気をつけて走りながら、なんとか予約時間前に白鷺グランドホテルに到着することができた。


閉館したはずの白鷺グランドホテルは、すべての窓に明かりを灯していた。


入口には古い回転扉。

その向こうには、かつての華やかなロビーが広がっている。


「……本当に、営業してるみたい」


「営業しているんじゃない」


隣に立つ黎が言った。


「営業していた時間を、繰り返している」


澪が彼を見る。

けれど、問い返す前に時計が鳴った。


午前零時。


回転扉が、ひとりでに回り始めた。

ホテルの中から、女性の声が響く。


「お客様、お待ちしておりました」


澪の手の中で、真鍮の鍵が熱を持つ。

フロントの奥に立つ支配人が、こちらへ深く頭を下げた。


「雨宮様。九条様」


そして、にっこりと笑う。


「お帰りなさいませ」


澪は息を呑んだ。


ここへ来たのは、初めてのはずなのに。

なぜホテルは、自分たちを「お帰りなさい」と迎えるのだろう。


黎は無言でホテルの奥を見つめていた。


その金色の瞳に、一瞬だけ――見覚えのない悲しみが浮かんだ。

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