第1話 閉館したのはホテルだけだった
雨宮澪は、大学図書館の閉架書庫で一冊の古い観光パンフレットをめくっていた。
表紙には、白い翼を思わせる曲線を描いたホテルの写真が載っている。
――白鷺グランドホテル。
かつて海辺の観光地に建てられた、バブル期を象徴する大型リゾートホテルだった。
今は閉館している。
澪が調べていたのは、大学の地域資料データベースに登録するための古い観光資料だった。
司書として、忘れられた記録を探し、整理し、後から誰かが辿れる形に残す。
いつもの仕事だった。
だから、その紙が混ざっていたことにも、最初は気づかなかった。
「……予約票?」
パンフレットの間から、一枚の紙が滑り落ちた。
白鷺グランドホテルの予約票。
けれど、日付がおかしい。
予約日は三日後。
しかも、宿泊者名の欄には――
**雨宮澪**
自分の名前が印刷されていた。
「何これ……」
さらに下を見る。
部屋番号は空欄。
備考欄には、手書きで一行だけ。
**午前零時より、正面玄関にてお待ちしております。**
背中に、ぞくりと冷たいものが走った。
白鷺グランドホテルは十年以上前に閉館している。
予約を受け付けているはずがない。
まして、自分が予約した覚えなどない。
澪は予約票を資料ケースに戻した。
そのときだった。
紙の下から、小さな金属音がした。
カチン。
床に落ちたのは、古びた真鍮の鍵だった。
拾い上げた瞬間、指先から冷たいものが入り込んできた。
吹雪。
暗い廊下。
古いホテルのロビー。
誰かの笑い声。
そして、泣きながら何かを探している小さな女の子。
『帰りたい』
声が消えた瞬間、澪は鍵を取り落とした。
「……今の、何?」
息を整えながら、もう一度鍵を見る。
持ち手には、小さな紋章が刻まれていた。
家のようにも見える、不思議な形。
そしてその輪郭を見つめていると、なぜか「居場所」という言葉が頭に浮かんだ。
理由は分からない。
ただ、そう思った。
* * *
その夜。
澪の部屋には、図書館から持ち帰った資料のコピーが広がっていた。
白鷺グランドホテルに関する新聞記事や、開業当時の観光パンフレット。
図書館で見つけた資料を一通り確認したものの、まだ気になることがいくつも残っている。
特に、あの鍵だった。
資料の中から見つかった、小さな真鍮の鍵。
本来なら、図書館で見つかった資料と一緒に保管しておくべきものだ。
けれど、予約票と一緒に現れたことがどうしても気になって、澪は自宅でも調べてみたいと思った。
そこで、資料整理を担当している先輩司書に事情を話した。
「ホテルの資料に挟まっていた鍵? うーん……」
先輩は少し考えてから、鍵を手に取った。
「個人情報があるわけでもないし、調査のためならいいんじゃない?」
「本当にいいんですか?」
「なくさないようにね。資料のコピーも持って帰っていいよ」
そう言って、持ち帰ることを許してくれた。
澪は礼を言い、新聞記事やパンフレットのコピーと一緒に鍵を持ち帰った。
もちろん、特別な意味があるとは思っていない。
ただの古い鍵かもしれない。
それでも、あの予約票と一緒に見つかった以上、何かホテルに関係するものではないかという気がしていた。
机の上にコピーを並べ、澪は一枚ずつ目を通していく。
白鷺グランドホテルの開業は、一九八九年。
当時の新聞記事には、
『新時代のリゾート』
『年間を通じた観光拠点』
『次代を担う大型リゾートホテル』
そんな言葉が並んでいた。
写真に写るホテルは、今とはまるで違っている。
白い外壁。
大きなガラス張りのエントランス。
夜になれば建物全体が照明に浮かび上がり、まるで街そのものがそこに移されたようだった。
当時の人々が、このホテルにどんな未来を思い描いていたのか。
記事を読んでいるだけでも、それがなんとなく伝わってくる。
けれど、閉館に至った経緯については詳しい記録が少なかった。
何年に利用客が減ったのか。
なぜ営業を続けられなくなったのか。
そして、いつから使われなくなったのか。
肝心なところになると、記事は急に途切れている。
「……変なの」
澪は小さく呟いた。
最後の一枚をめくる。
そこには、開業直後に撮影された集合写真があった。
ホテルの従業員と宿泊客が、エントランスの前に並んでいる。
皆、笑っていた。
開業したばかりのホテル。
新しい時代への期待。
写真の中には、そんな空気まで残っているようだった。
けれど。
澪の視線が、一人の男のところで止まった。
集合写真の端に、妙に目立つ人物がいる。
黒い髪。
周囲の人間より頭一つ分以上高い、長身。
そして――瞳。
写真の中の人物なのに、なぜかそこだけ目に引っかかった。
光の加減だろうか。
それとも、写真そのものが古くなったせいなのか。
瞳だけが、不自然なほど明るく見える。
「……金色?」
見覚えはない。
もちろん、名前も知らない。
それなのに、澪はその男から目を離せなかった。
さらに気になったのは、その隣に立っている小さな女の子だった。
ホテルの従業員なのか。
宿泊客の子どもなのか。
写真には名前が記されていない。
ただ、少女だけが、ほかの人たちとは違っていた。
笑っていない。
写真のこちら側を、まっすぐ見ている。
まるで――。
「……私を見てる?」
そんなはずはない。
何十年も前に撮られた写真なのだから。
澪は苦笑して、写真から視線を外した。
そのときだった。
部屋の壁時計が、静かに秒針を刻んでいる。
十一時五十分。
もう遅い。
そろそろ調べものを切り上げようと、澪はコピーをまとめた。
最後に、机の端に置いていた真鍮の鍵へ目を向ける。
古びた表面には細かな傷がついている。
持ち手の部分には、丸い輪の中に家のようにも見える、不思議な紋章が刻まれていた。
「これも、明日もう少し調べてみようかな」
澪は鍵を手に取った。
冷たい。
金属だから当然だと思った。
けれど、指先を離したあとも、なぜかその冷たさだけが残っているような気がした。
澪は首を傾げながら、鍵を机の上へ戻した。
そして、日付が変わる少し前。
部屋の中で――。
カチリ。
小さな音がした。
「え……?」
澪が振り返る。
机の上に置いたはずの真鍮の鍵が、震えていた。
カタ、カタ、と細かく揺れている。
「……何?」
誰も触れていない。
窓も閉まっている。
それなのに。
真鍮の鍵は、まるで見えない何かに触れられているように、ゆっくりと回り始めた。
カチリ。
今度は、はっきりと音がした。
そして――。
鍵が、ひとりでに回った。
「嘘でしょ……?」
同時に、スマートフォンへメールが届いた。
送信者は不明。
件名もない。
本文には、たった一行。
**ご予約のお客様を、お待ちしております。**
澪は画面を見つめた。
怖い。
けれど、それ以上に気になった。
あの少女は、何を待っているのだろう。
そして、この鍵は何を開けるのか。
そのとき。
玄関のチャイムが鳴った。
午前零時。
澪は息を止めた。
こんな時間に、誰が――。
もう一度、チャイムが鳴る。
恐る恐るモニターを見る。
そこには、黒い髪の男が立っていた。
昼間の写真に写っていた男と、同じ顔だった。
男はカメラを見上げる。
金色の瞳が、こちらを射抜いた。
「雨宮澪さん」
インターホン越しの声は、驚くほど静かだった。
「そのホテルの予約票を持っているな」
澪は答えられなかった。
「……あなたは、誰?」
少しの沈黙。
「九条黎」
男は名乗った。
「そのホテルには行くな」
澪は思わず予約票を握りしめる。
「どうして?」
「今夜から、白鷺グランドホテルが動き始める」
その言葉を聞いた瞬間、手の中の真鍮の鍵が、再び小さく震えた。
黎はそれを見たように、目を細めた。
「その鍵は、まだ使うな」
そう言って、彼は一歩後ろへ下がった。
「明日の昼、大学図書館で話をする。俺が行く」
澪は戸惑った。
「……どうして、私に?」
「お前が選ばれた理由を、俺も知りたい」
それだけ告げて、黎は夜の廊下へ消えていった。
扉を閉めたあとも、澪の手の中では鍵が震え続けていた。
まだ何も始まっていない。
なのに、もう自分の知らない何かが、こちらを見つけている。




